第五話 夜のシフト ②
午後十時。
閉店の音楽が流れ始めた。
いつもの曲だった。蛍の光のメロディが、がらんとした売り場に響く。
しかし途中で、ブツリと途切れた。
スピーカーから、砂嵐のような音がした。それからしばらく、沈黙があった。
私はチェッカーの女性と顔を見合わせた。
スピーカーから、声が流れた。
聞いたことのある声だった。
「本日の営業は終了しました」
園原さんの声だった。
「これより、夜のシフトを開始します」
私は動けなかった。
「園原岬さん、持ち場についてください」
チェッカーの女性が私の腕を掴んだ。
「田原学さん、持ち場についてください」
声は続いた。名前が一人ずつ読み上げられていく。
過去に消えた名前が、順番に呼ばれていく。
自動ドアが、ガチャリと音を立てた。
ロックがかかった。
売り場の照明が、一つずつ落ちていった。
神社に近い側から順番に。
奥から入口へ向かって、一つずつ。
「逃げましょう」
チェッカーの女性が言った。
「裏口から——」
二人でバックヤードへの通路を走った。
精肉の冷凍庫の前を、また通った。
霧はもう漏れていなかった。
臭いもなかった。
扉の前に、大きな足跡が残っていた。
人間のものより、ひとまわり大きかった。
立ち止まらずに走った。
裏口の前でチェッカーの女性が鍵を取り出した。
鍵穴に差し込んだ。回らなかった。
「おかしい、さっきまで——」
もう一度試した。回らなかった。
売り場の照明がほとんど落ちていた。
バックヤードの非常灯だけが、赤く廊下を照らしていた。
スピーカーの声が続いていた。
名前が、まだ読み上げられていた。
私はチェッカーの女性を連れて事務所に戻った。内側から鍵をかけた。
スマホを確認した。
妻からのLINEがまだ画面に表示されていた。
「あなたの職場、行ってもいい?」
その下に、新しいメッセージが届いていた。
送信時刻は、五分前だった。
「もうすぐいく」
その下に、また一件。
「ちかい」
私は返信しようとした。
指が動かなかった。
スピーカーの声が、一瞬止まった。
沈黙があった。
それから、また流れた。
「——さん、持ち場についてください」
私の名前だった。
チェッカーの女性が小さな声で言った。
「副店長」
「うん」
「名札」
私は胸元を見た。
何もなかった。
制服の胸ポケットに、いつも挿してある名札が、なかった。
いつ消えたのか分からなかった。気づいたときには、なかった。
スピーカーがもう一度、声を流した。
「荳画イ「縲?コ懃セ?さん、持ち場についてください」
雑音のような、聞き取れない名前だった。
チェッカーの女性が、小さく息を呑んだ。
「……わ、私の名前、呼ばれた」
それだけ言った。
雑音にしか聞こえなかった。
だが彼女には、はっきりと聞こえたらしい。
そういえば私は、一度も彼女の名前を呼んだことがない。
彼女は私の袖を掴んだまま、窓の外を見た。
「副店長、外」
駐車場に面した窓の外。
フェンスに囲まれた神社の前に、明かりが見えた。
提灯のような、揺れる明かりだった。
フェンスの鍵が開いていた。
鳥居の向こう、祠への石畳に、人影が並んでいた。
何人いるのか、数えられなかった。
全員、胸元に白く光るものをつけていた。
名札だった。
その中に一人、他の人影より頭ひとつ分だけ大きな影があった。
動いていなかった。
ただ、立っていた。
スマホの画面が光った。
妻からの最後のメッセージだった。
「もう、いいや」
送信時刻は、一分前だった。
その文字を見つめながら、私は思い出していた。
今朝、家を出るとき、妻は台所に立っていた。
「今日は早く帰れる?」
「分からない」
それだけ言って、私は振り返らなかった。
窓の外。
店の周りだけ、葉一枚揺れなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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