浴場①
秋はライ麦と小麦を畑に蒔く。これが長く厳しい冬を越え、春を謳歌し、夏に収穫という運びになる。アデリーも種を入れた袋を持ち、畑で種蒔きの手伝いをしていた。農夫のゴーダはしばらくアデリーに付きっきりでやり方を教え、昨日からはアデリー一人にやらせてくれるようになった。
今やダグマよりアデリーの方が何でも屋だ。朝はパンを焼き、お昼までは種蒔きを手伝う。午後は枝を拾いに出かけたり、料理の手伝いもこなした。そして夕暮れ時からパンの仕込みだ。これ以外にも手を貸して欲しいと言われたら、少しの時間でも飛んでいって手伝いをするようにしている。
牛を使って土を掘り起こしていたゴーダが、何かを感じたように川の方へと顔を向けた。風が背側から吹いているので、髪がゴーダの視界を狭めていた。首を揺すってもう一度そちらを確認してからアデリーに声を掛けた。
「おい、アデリー。誰か来た」
アデリーも握っていた袋をそのままに顔を向ける。馬車がゆっくり近づいてきていた。
「あ、ニコラスじゃないかしら? あれは行商人のニコラスよ」
「ああ、あの」
ゴーダは正体がわかったからなのか、興味を失ったらしく、作業に戻っていく。アデリーの方は出迎えたくてウズウズしているというのに、かなりの温度差だった。ゴーダはどうも人間より動物に興味を引かれるらしく、黒猫のトーマスなんかとはアデリーよりずっと会話をしていた。会話というより一方的な語りだが、よく話しかけているのを見かけるのだ。
「行きたいなら行くといい」
ゴーダに言われてアデリーは慌てて手を動かした。
「ちゃんと仕事をしてから会いに行きます」
「別にいいのに……」
ゴーダの呟きよりアデリーは自分の信念に従って一心不乱に小麦を蒔いていく。前にダグマが言っていたように、来客は早々逃げやしないのだ。
「ニコラス!」
階段を駆け下りてニコラスを呼ぶその人に驚いて、アデリーは再び種蒔きがおろそかになった。ベッラが階段を下りてきたのだ。これまで見たベッラの笑顔の中で一番の輝きを放っている。
「出来てるな」
ボソボソとゴーダの声がした。確かに恋人同士の再会のようだった。でもアデリーはベッラの腕につけられた金の輪っかがキラリと光ったのを感じて「そんなことないと思います……」と、同じようにボソボソと口にする。
「そうか?」
「はい」
アデリーには確信があった。あの腕輪はアデリーの物だった。それをダグマが買い取ってくれたのだ。その腕輪を昨日からベッラが身につけているのに気が付かないほどアデリーも疎くはないのだ。ダグマが女にやると言っていたことを思い出し、その相手がベッラなのだと繋ぐことに時間は要さなかったのだ。
「仕事をしましょう」
いつもの元気はなく、アデリーは力の抜けた声でゴーダを促すと、自分もまた種蒔きを再開した。
ベッラのことは好きだ。それにダグマのことも。それなのに、二人がそういう仲なのだと気がついてからなぜだか気落ちしていた。腕輪が自分の物だったのに、他の人の腕についているのが悲しいからだと思おうとしたが、そこにはそれほど感情を揺さぶられていないことを自覚していた。なんせあの日手渡された貴金属は全てアデリーが身に着けたことがないものなのだ。だから、アデリーは受け取ったものを生きるために売り払った以上の感慨はなく、ベッラに所有権がわたったことに悲観的になることもないはずだった。それなのに、ベッラの腕に見覚えのある細工を見た時、心臓がぎゅっと縮んだように感じた。
「お似合いじゃない……」
アデリーは無意識に呟いていた。ベッラとダグマはお似合いの二人だ。しかし、横にいたゴーダはアデリーの言葉を違う方へと解釈していた。
「ニコラスも顔はいいしな。まあ、俺ならダグマを選ぶ」
アデリーは心の中でベッラもダグマを選んだのだと答えていた。ただ、口に出すのはなんとなく嫌で黙って種を蒔き続けていた。




