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黄泉渡り伊織 ーー関ヶ原で滅した六千の魂を抱く巫女ーー  作者: 結城謙三


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寄爆茸事件

あの日の、王都の空はあまりにも青く、そして酷く濁っていた。


「……また、あの時と同じか」

魔晶船の甲板から、手すりに手をかけたナタリーは群衆と魔獣が入り乱れる眼下を見下ろしている。

地上では、王国民たちがまるで行列の中に焼けた炭でも投げ入れられた蟻の群れのように、狂乱しながら逃げ惑っている。

響き渡る悲鳴、怒号、そして空気をどこまでも引き裂くかのような爆音。


ナタリーの脳裏には、二十数年前のあの忌まわしき「寄爆茸事件」の記憶が鮮明に蘇っていた。

当時、魔導士ギルドを立ち上げたばかりだった彼女の心に、消えない灰を降らせた最悪の災厄だ。

――始まりは、何の前触れもない夜だった。

大森林での任務を終え、数組の冒険者パーティが王都へと帰還した、その日の夜の事である。

深夜、突如として王都の静寂が打ち砕かれた。

城壁の上、鐘楼の見張り台、そしてあろうことか、最も安全であるはずの王城の上階。

それらが、立て続けに突如として爆破し炎が夜空を照らしたのだ。

現場に目撃者はいなかった。残されていたのは、誰の物かも判別できないほどに黒く炭化した、二つの死骸だけ。

それから数刻ごとに、爆破現象は王都のいたるところへと伝染していった。

夜が更けるにつれて爆発の規模は徐々に拡大し、平和を貪っていた王都は一瞬にしてパニックへと突き落とされた。


「パイス国王を隔離しな!戒厳令を発令する!」

ナタリーは即座に国王の安全を確保させると、原因を突き止めるために王城の地下資料室へと走った。

埃っぽい資料室で、必死に古い文献をめくるナタリーの耳に、厚い石壁を通して城下から連続する不気味な破裂音

が届く。

この時点で判明していたのは朦朧と彷徨う者に触れられた者が、跡形もなく爆破するという、あまりにも理不尽な

恐怖だけだった。


空が白み始めた頃、ナタリーの指が、数百年前の黄ばんだ羊皮紙の一節で止まった。

『【寄爆茸】大森林に一定の魔力が充満せし時、その房を開き、目に見えぬ胞子を放つ』

心臓が嫌な音を立てて跳ねた。資料を読み進めるほどに、血の気が引いていく。


”その胞子は風に乗って拡散し、なぜか「人族のみ」の体内に侵入して発芽する。

発芽した胞子は人間の脳を乗っ取り、宿主の意思を奪って操るのだ。操られた者は言葉を理解できなくなり、

一切の会話が成り立たなくなる。そして、本能的に水を激しく嫌い、決して近づこうとしない。

彼らが求めるのは一つだけ。高所にある、より強い「魔力」だ。

宿主は魔力を求めて彷徨い歩く。そして魔力を放つ者に触れた瞬間――双方の魔力が最悪の形で反応し暴発、燃え盛る。

最悪なのは、その爆発の瞬間に体内で増殖した大量の胞子を周囲に撒き散らすということだった。

城壁や鐘楼で二つの炭化した死体が見つかったのは、高所の見張りに発症者が引き寄せられて接触した結果だったのだ。


「急がないと……手遅れになる」

ナタリーは資料を掴み、国王の元へと走った。彼女が提示した作戦は、あまりにも残酷で、それゆえに唯一の正解だった。


「王都を捨てるよ。これより、即座に住民を選別・隔離しなければ国が滅びるからね……」

ナタリーの迅速な指揮により、王都は真っ二つに割られた。

胞子に感染しない「亜人種」は、ただちに王都から最も近いクリアバ村へと避難させられた。

そして「人族」は、南門へと誘導される。

南門では、ナタリーの部下たちが冷徹な検閲を行った。

話しかけても虚ろな目をしている者、水を差し出されて狂ったように拒絶する者。

それらはすべて「発症者」として王都の内側に容赦なく押し戻され、巨大な鉄の門が固く閉ざされた。

避難できた人族は大河の畔へと集められ、王都の中には、完全に自我を失った発症者たちだけが取り残された。


それから半日後……

ナタリーは、魔晶船の甲板から1人で王都を見下ろしていた。

昨日まで活気に溢れていた街並みを、何百、何千という人間が、ゆらゆらと死人のように彷徨っている。

皆が一様に天を仰ぎ、高所の魔力を求めて手を伸ばしていた。


「恨むなら、あたしを恨んでいいんだよ……」

ナタリーはそう独り言ちり、たった一人で魔晶船から魔力の光弾を降らせていった。

それは戦闘ではなく、ただの“駆除”であった。

かつて言葉を交わしたかもしれない、同じ王国民である人族を、ナタリーはその手で千人近く上空から狙い撃ち

塵へと変えていった。この罪を一人で背負うべく志願する魔道士を一人も乗せずに……

杖を握りしめた指は、微かにも震えなかった。そうしなければ、世界が菌に呑まれると知っていたからだ。


一方、大河の畔に集まった避難民の間にも、ついに潜伏していた発症者が現れ始めていた。

だが、ナタリーの作戦はそこまで織り込み済みだった。

「感染したくなければ河の中に入るんだ!」という指示に従い、人々が次々に水に入っていく中で

脳を寄生された発症者たちは水を恐れ、悲鳴を上げて河原へと逃げ出した。

狂ったように身悶え、河原を彷徨う発症者たち。それを、大河の上空で待機していたもう一艇の魔晶船――

セルザ将軍が率いる部隊が、容赦なく上空から射殺していった。

こうして、王都の半分を灰に染めた「寄爆茸事件」は、一応の幕を閉じたのだった。


 “ドンッッッ!!”と耳障りな爆発音が、ナタリーを現在へと引き戻した。

 二十数年の時を経た今、彼女が立つ魔晶船の下では、またしても新たな絶望が人々を追い詰めている。


「あの時、私は千人の同胞を殺して王国を繋ぎ止めた……」

ナタリーは自らの白い手をじっと見つめ、それから冷酷な笑みをその薄い唇に浮かべた。


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