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黄泉渡り伊織 ーー関ヶ原で滅した六千の魂を抱く巫女ーー  作者: 結城謙三


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2層目への避難勧告

大谷吉継らを降ろしたナタリーは、魔晶船を操り東大通りに沿って住民を援護しながら2層目へと向かう。

遮る者のいなくなった東門からは、魔獣たちが雪崩こみ広場へと押し寄せてくる。

数十万人が暮らしていた王都第3層では、2層目への避難勧告が告げられても歩く事もままならず。

頼る者のいない住民も少なからずおり、自分の家や倉庫に立て籠もるという選択をした者も大勢いた。

嗅覚に優れたバルホーンはそうした住民の匂いをたどり住宅や商業地域へと水が染み渡るように散開を始めると

脇道へと入っていき建物の窓やドアを蹴破り残った住民にその牙を突き立てる。

3層目のあちらこちらで悲鳴や怒号があふれ、さらに寄爆茸に寄生された人間が魔力に触れた爆発音がこだまする。


東大通りを2層目へと走るガーダーや住民たちの最後尾に魔晶船を浮かべ、迫りくる魔獣たちを攻撃魔法で

撃ち倒し、岩の壁を出現させて行く手を阻むナタリーとアンナ。

しかし住民の歩みはあまりにも遅く、押し寄せてくる魔獣たちが濁流のように呑み込まんと迫ってくる。


「アンナ……あんたの魔力はまだ大丈夫かい?」

歯を食いしばり岩の雨を降らせながらナタリーがアンナに問い掛ける。


「大丈夫です……まだ戦えます!」

平静な声で答えるアンナの横顔は、こめかみの血管が張り裂けそうなほどに浮き上がり、汗が滝のように流れ落ち

ていた……その横顔をせつなげに見つめ“ああ……そうかい”とだけ言葉を返すナタリー。

『……どこで間違えたのだろう?はじめから生き残るすべなどなかったのではないか?』



【3層目のすべての住人は2層目へ避難するように!】

少し前に脳内に直接響き渡るような声が聞こえてきた。2層目への避難勧告……

それは、この3層目が”放棄された”ことを意味している。

母親は5歳になる息子の右手を、ちぎれんばかりの強さで握りしめていた。

左手には、あらかじめまとめておいた、最低限の食料と硬貨の入った非常袋だけを抱えている。

夫の姿はない、今ごろはこの王都のどこかで戦っていることだろう。


「おかあさん、いたい、てがいたいよ」

人混みの圧力に押し潰されそうになりながら、息子が泣き声をあげる。


「我慢して! 離れたら死ぬわ、絶対に手を離しちゃダメ!」

母親は周囲を狂気的な目で見回しながら、ひたすら前へと足を動かした。

視界の先にあるのは、2層目へと繋がる頑強な城壁。そして、そこに穿たれた、わずか幅8ドランの東門だ。

普段なら馬車が悠々とすれ違えるはずのその空間が、今は底の抜けた砂時計の狭間のように、ゆっくりと人々を

押し出していた。

東門の手前には、すでに数万人とも思える住人がひしめき合い、巨大な人間の津波となってのたうっていた。


「押すな! 前が詰まっている! 止まれ、止まるんだ!」

門の最前線で、数人のガーダーが槍を横にして必死の人垣を作っているが、あまりにも頼りなく無力に思えた。

後方から押し寄せる大群衆は、前方に何があるかも見えていない。

ただ”後ろから何かが来る”という恐怖に突き動かされ、前の人間の背中を、肩を、狂ったように押し続けている。

人間が人間を圧搾する、肉と骨の軋む音が、不気味な不協和音となって響いていた。

荷物が弾け、衣服が引き裂かれ、他人の流した脂汗が顔に飛び散る……呼吸をしようにも、周囲の胸壁のような肉に

阻まれて肺が膨らまない。


「ひっ……あ、あああぁぁぁ!!」

門の中ほど、最も圧力がかかる暗がりの奥から、引き裂かれたような女の悲鳴が上がった。

それは恐怖の悲鳴ではない……肉体が耐えきれない質量によって破壊された瞬間の、断末魔だった。

何かが起きた。誰かが転んだのだ。


「後ろに下がれ! 人が倒れている! 止まれぇ!」

ガーダーが叫ぶ、群衆を押し返そうと槍の柄を横にするが、彼の体は後方からの圧倒的な圧力に圧し潰された

民衆の自重によって、そのまま門の石壁へと叩きつけられた。”ゴキッ”と鈍い音がして、甲冑がひしゃげる。

彼は悲鳴をあげる暇もなく、直後に押し寄せた人間の足の下へと埋もれていった。


「いや……嫌ぁぁぁ!」

すぐ隣にいた老人が、バランスを崩してよろめいた。

母親の目の前で、老人の身体が視界から消える……地面に落ちたのだ。

直後、彼の背中や頭を、何十、何百という人間の足が無慈悲に踏みつけていく。

ぐしゃり、という感触が、母親の足の裏にまで伝わってきた。恐怖で心臓が破裂しそうだった。

前を見れば、肉の壁が門を塞ぎ、微塵も進んでいない。後ろを振り返れば――そこは、本当の地獄だった。

東大通りの一本道、そこを埋め尽くしているのは、避難が遅れた住人たち……だけではなかった。


”グルゥゥゥッ、オオオオォォォォンーーーーー!!!”

空気を激しく振動させる、狂暴な魔獣の咆哮。

家屋の屋根を飛び跳ね、逃げ惑う人々を上空から引き裂くドレイクの影。


「ま……魔獣が、もうそこまで……!」


「嘘だろう?防衛線はどうしたんだよ!?」


「急げ! さっさと入れてくれ!! 中に入れろ!!」

背後から迫る死の足音に、東門前の群衆は完全に理性を失いかけていた。

それは避難という生易しいものではなかった……まるで屠殺場へ送り込まれる家畜のパニックだった。


「おかあさん、おかあさん……っ」

息子はもう、泣き叫ぶ体力すら奪われ、白目を剥きかけている。

その小さな身体が、左右から押し寄せる大人の腰や鞄に挟まれ、その身体が宙に浮きそうになっていた。

母親は、我が子の手を、自分の指の骨が軋むほどの力で握りしめた。

爪が皮膚に食い込み血が滲む……だが、この手を離した瞬間この子は一秒後には肉塊に変わる。

背後からは、次々と炸裂する魔法の破裂音と、人々の断末魔。

前方からは、門の奥で圧死していく人々の、言葉にならない絶叫。

進むことも、戻ることも、横にそれることもできない。

幅8ドランの冷徹な石の門は、数万の命を貪り食う巨大な顎のように、ただそこにぽっかりと口を開けていた。

母親は、濁った泥水のような人混みの狂気の中に、ただ我が子の手を引き絶望の渦へと引きずり込まれていった。





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