シャスプ決死戦①
予期せず四倍以上の敵を相対しなくてはならなくなった熾炎隊は、逃げ場のないシャスプ平原において、絶望の戦を開戦せざるを得なかった。
まずは押し寄せるジエスタの八千を迎え撃つべく、熾炎隊は瞬時に鶴翼の迎撃陣を敷く。
正面中央の千を隊長アーヴィル自らが率いて激突の矢面に立ち、左翼の千を副官スレイが、右翼の千を部隊長たるユインがそれぞれ指揮を執り、左右へと翼を広げるように展開した。
老練なるディルンは五百の兵を率いて右翼ユインの後方支援に回り、その熟練の射撃と采配で側面からの綻びを固める布陣を取る。
そして残る千の直率兵はサキルが手元に留め、その傍らには補佐として控えるリノルの姿があった。
崩れかけた正面と左翼を即座に補強するための遊撃・予備兵力として、二人で戦況の推移に鋭く睨みを利かせていたのだ。
右眼の白瞳を微かに光らせ、風の流れと大気の微動を読み取りながら戦場全体の歪みを即座に捉えるサキル。
その隣で、リノルは中距離からの遊撃・防衛に備えて指先を研ぎ澄まし、サキルの采配を寸分の狂いもなく伝達・補佐すべく全神経を張り巡らせていた。
だが――戦術の工夫を嘲笑うかのように、兵力差と練度の溝は容赦なく戦線に影を落とした。
どれほど陣形を美しく整えようとも、兵を満たす個々の練度と絶対的な数の暴力という現実は、あまりにも重くのしかかる。
新加入の二千百のうち、連携の破綻を警戒して左翼にやや多めに振り分け、残りを正面と右翼へ薄く分散配置していた。
彼らとて実戦を経験してきた軍人ではある。
しかし、補充されて間もない兵卒たちは、アーヴィルが率いサキルが采配を振るう熾炎隊特有の、極限まで研ぎ澄まされた変幻自在の戦術に馴染みきれていなかった。
号令一つで呼吸を合わせ、互いの死角を寸分の狂いもなく補い合う阿吽の連携など望むべくもない。
激戦の最前線でほんの一瞬の呼吸のズレや足並みの乱れが生じ、陣列に痛烈な綻びを作ってしまう。
古参兵たちが必死に声を張り上げて間隙を埋めようとするが、相手は死に物狂いの野盗と、感情を奪われて突進を繰り返す生ける肉の兵駒達故に、苦戦を強いられる。
国への怨嗟に狂乱する野盗の凶刃に加え、バルアの調教によって恐怖も痛みも失い、ただ前進して自爆同然に組み付いてくる兵駒たちの異様な圧力があった。
手傷を負わせてもなお止まらぬ敵の群れに、熾炎隊の防衛線は軋んだ音を立てて押し戻されていく。
一万六千のうちの半数――眼前の八千という質量だけでも、四千五百の防衛線を圧殺するにはあまりにも過剰だった。
背後にはアルグア軍を呑み込んだバルアの別働隊が迫っているという極限の焦燥が、兵たちの息をさらに乱れさせていた。
「押し込めッ! 陣形を保てぇッ!」
スレイが喉も裂けんばかりに咆哮し、愛用の大剣で迫る敵兵を薙ぎ払う。
サキルもまた風の気流を操り敵の突進の勢いを削ぐ。
大気を不可視の障壁として割り込ませ、殺到する敵の前衛の足を乱し、密集した陣形にわずかな間隙を作り出して味方の崩壊を防ぎ止めていた。
主力たる将たちが初手から持てる力を全開にして敵の大波を押し返そうと足掻くが、敵の勢いはまるで衰えない。
一人倒せば二人、二人倒せば四人がその死体を踏み越えて押し寄せてくる。
この膠着した劣勢を打開すべく、正面のアーヴィルが動いた。
中央の突破を許せば左右の翼は分断され、そのまま四千五百の全軍が砂塵の中へ圧殺される。
ならば、自らが敵の前衛を力ずくで焼き払い、逆風を切り裂く楔となるしかない。
「道を――あけろォォッ!!」
裂帛の気合いと共に、アーヴィルが愛剣を両手で構え、極限まで圧縮した紅蓮の創火を刀身に宿す。
刀身に渦巻いた炎は紅から白熱へと色を変え、周囲の空気を瞬時に蒸発させて陽炎のような蜃気楼を生み出した。
吹き抜ける冷風すら一瞬にして熱波へと変貌する。
一振りで数十の敵兵を炭化させ、敵陣の楔を断ち割る必殺の炎刃。
アーヴィルが大地を踏み抜いて繰り出した渾身の一閃は、白熱する極光が扇状に解き放たれ、押し寄せる敵の群れを両断せんと地を薙いだ。
熱風が爆炎を巻き上げ、正面の空間そのものを焼き尽くすかのような業火の奔流。
だが――。
ゴォォォンッ!!
鼓膜を揺らす重金属の衝突音が荒野に木霊した。
大地を抉り、立ち塞がる者を塵芥へと変えるはずの炎の斬撃が、突如として空中に現れた半透明の「黒い土石の巨躯」によって、真正面から受け止められたのだ。
凄まじい衝撃波が円状に広がり、周囲の兵たちを吹き飛ばす。
立ち上る猛煙を割って現れたのは、巨大な胸部と屈強な両腕のみを象り、禍々しい鉱石の如き光沢を帯びた半身の巨人。
かつて国境の防波堤としてシャスプの民を守護していた頃、その巨躯は希望の象徴として誇り高く赤く光り輝いていた。
だが、祖国に裏切られ、泥の底へと堕ちた今となっては――その光は見る影もなく、澱んだ血の如く深く昏い「赤黒い色」へと変貌を遂げていた。
怨嗟と憎悪に染め抜かれた巨躯は、アーヴィルの白熱の業火を浴びながらも、罅一つ入ることなく冷厳に聳え立っていた。
その巨人の胸元に溶け込むようにして立っていたのは、復讐心を宿した血のように紅い瞳を持つ男――野盗団の首魁、ジエスタだった。
無精髭に覆われた無骨な貌には一切の動揺もなく、ただ深く、暗い炎がその双眸に灯っている。
かつてシャスプを愛し、民のために戦い、そして祖国ゼルグに冷酷に切り捨てられた男の、怨嗟の深淵そのもののような眼光。
「……それが熾炎隊の炎か。悪くはないが、この復讐の重みを焼き切るには足りないな」
低く、重苦しい声が巨人の胸中から響き渡る。言葉と共に放たれる圧迫感は、並の将兵であれば息を詰まらせて膝をつくほどの質量を伴っていた。
「クッ……! お前が頭のジエスタか……!」
アーヴィルが奥歯を軋ませる。
剣を構えたまま全身の筋肉を硬直させ、眼前の巨人と男を睨み据えた。
かつてシャスプを守り抜いた英雄の装甲は、半身の巨人を鎧として纏う絶対的な質量を誇っていた。
祖国の裏切りによって地に堕ち、赤黒き復讐の鬼と化したかつての守護神が、いま最も強固で最も冷酷な絶望の壁となって、熾炎隊の前に立ち塞がっていた。
***
時を同じくして、左翼のスレイの前にも敵の厚い壁が立ちはだかっていた。
「退きやがれ雑魚がァッ!」
大剣を豪快に振り回し、迫る敵兵を鎧ごと叩き割っていたスレイの前に、一人の男が優雅に歩み出てきた。
三十代半ばほど、整えられた口髭に、泥臭い野盗にはおよそ似つかわしくない小綺麗な外套を纏った細身の男。
血飛沫と怒号が渦巻く狂乱の戦場にあって、その立ち居振る舞いはまるで舞踏会のフロアを横切る貴族のように洗練され、不気味なほどの落ち着きを払っていた。
「おや、いささか野蛮な振る舞いですね。戦場とはいえ、もう少し品性を保たれてはいかがです?」
男はジエスタの右腕、名をロウレスという。
スレイの叩きつける渾身の重撃を、ロウレスは手にした細身の刺突剣でわずかに受け流し、紙一重の体捌きで無力化する。
火花が散り、鋼鉄同士が擦れ合う鋭い金属音が響くが、スレイの圧倒的な質量と膂力は、男の指先ひとつの流れるような剣先捌きによってことごとく宙へと逸らされていた。
流れるような身のこなしと冷徹な刺突。剛力を誇るスレイの足止め役として、これ以上なく厄介な技巧派だった。
「小綺麗に気取ってんじゃねえぞ、野盗の分際がッ!」
「野盗ではなく、義憤に燃える紳士とお呼びいただきたいものですね」
軽妙に笑いながら、ロウレスは空いた左手の指先を小さく弾いた。
衣服の袖口から宙を飛来したのは、小石ほどの黒い粒――種子のような小物体が数粒、鋭い風切り音を立ててスレイの胸元目掛けて放たれる。
「小細工をッ!」
スレイは創力を籠めた大剣の腹でそれを力任せに薙ぎ払った。
金属と衝突して弾け飛ぶ――そう思われた瞬間、種子はカチリと音を立てる代わりに、スレイの刃に触れた刹那、刀身を覆っていた濃密な創力を貪るように一瞬で吸い上げた。
スレイの創力を糧にして発芽の兆しを見せた種は、弾かれた衝撃でパンッと小気味よい破裂音を響かせて爆ぜ、さらに細かな無数の粒へと分裂しながら足元の大地へと零れ落ちる。
「……なっ!?」
乾いた荒野の土煙を吸い上げ、地面に落ちた分裂種子が一斉に芽吹いた。
常識的な植物の成長速度を遥かに無視し、わずか一瞬にして蔓を伸ばし、咲き誇ったのは、スレイ自身の創力で象られた数輪の不気味な花。
赤黒い斑点を持つ花弁が音もなく開き、その中央からふわりと薄紅色の微細な花粉が大気中に散布された。
それは戦場を吹き抜ける風に乗り、真正面に立つスレイの鼻腔と皮膚を優しく撫でるように包み込んでいく。
直後、スレイの全身を猛烈な違和感が襲った。
己の体内を循環しているはずの創力と確かに親和しながらも、どこか致命的な綻びを抱え、内側から感覚を狂わされていくような得体の知れない悪寒。
視界がぐにゃりと歪み、景色が二重三重にブレ始め、酷い泥酔に似た強烈な眩暈がスレイの足腰から平衡感覚を無慈悲に奪い去っていった。
手足の神経が鉛のように重く軋み、大剣の重みすら支えきれなくなる。
「ぐ……っ、な、んだ……これ……は……」
喉の奥から掠れた苦鳴が漏れ、スレイの太い膝がガクガクと震える。
「おやおや、足元がお留守ですよ」
紳士を気取る男の唇が、冷酷な笑みを刻む。
千鳥足のようにふらつき、大剣の重みに振り回されかけたスレイの無防備な喉首めがけ、ロウレスの細身の刺突剣が、影を縫うように音もなく閃いた。
***
右翼のユインの前にも、暗雲の如き敵の影が色濃く落ちていた。
開戦の銅鑼が鳴り響くと同時に、ユインは金色に煌めく雷光を長短の二振りに宿し、対の創具を閃かせていた。
前衛に殺到する敵の濁流をその刃で切り裂き、右翼千の陣容を辛うじて支えていたその至近距離へ飛ぶ。
「あなたは!?」
「名はジョエイ……私が相手よ」
だがそこに突如として砂塵を蹴立て、深々と兜を目深に被り素顔を隠した小柄な影が弾丸のように跳躍してきた。
ジエスタ直属の中核戦力である若き女戦士。
無言のまま風を切り裂いて間合いを詰めてきた彼女の両手に握られていたのは、白刃ではなく、ただの無骨な二本の剣の柄であった。
「せぁぁぁぁッ!」
ユインは躊躇うことなく身体強化を限界まで引き上げ、電撃を帯びた長剣と短剣を交互に、嵐の如き連撃として叩き込む。
対の創具であるユインの双剣は、敵の装備と刃を交えさえすれば、そこから強烈無比な雷撃を瞬時に流し込み、相手の全身の神経を焼き痺れさせて自由を奪うという凶悪な特性を持つ。近接戦闘に持ち込み、打ち合いに持ち込みさえすれば必ず勝機は手繰り寄せられる――そう確信して放たれた、渾身の電光の太刀筋。
だが、ジョエイが無造作に柄を振り抜いた刹那、その切っ先が描く虚空の軌跡から、漆黒の刃が唐突に実体を帯びて顕現した。
ギィィンッ!
鼓膜を劈く硬質な金属音が戦場に炸裂する。しかし直後、ユインの瞳は驚愕に見開かれることとなった。
渾身の力で流し込んだはずの雷撃が、相手の肉体へと一切伝わらない。ジョエイの得物は元より実体を持たない創力の刃であり、持ち主の意のままに実体化と解除を繰り返す奇怪な代物。電撃を通すための物理的な媒体そのものが存在せず、ユインが誇る最大の武器であるはずの麻痺効果が、根底から無力化されていたのだ。
それどころか、ユインの斬撃を受け止めた次の瞬間、ジョエイは手元の刃の実体化をふっと霧散させた。急激に抵抗を失ったユインの切っ先が空を切って前のめりに体勢を崩しかけた刹那、再び虚空から実体化して繰り出された不可視の切っ先が、皮一枚の差でユインの喉首を掠め去る。冷たい汗が、背筋を一気に駆け抜けた。
だが、真にユインを精神の底から追い詰めたのは、剣技の特異さなどではなかった。ジョエイの全身から立ち上る、空間そのものを歪ませるかのような不気味極まりない気配であった。
「ッ……何……!?」
激しい白兵戦の最中、ユインの張り詰めた感覚が、自らの周囲を漂う歪な大気の塊を察知した。
肉眼では捉えきれない何かが、空間そのものを捻じ曲げながら、目に見えぬ幾重もの質量となって周囲を高速で旋回している。得体の知れない死の予兆が、肌を粟立たせる。
直後、空気が軋みを上げて破裂するような重い衝撃音と共に、間合いを詰めていたユインの左肩の鉄製肩当てが、まるで目に見えない巨大な万力に挟み込まれたかのように、飴細工のようにぐしゃりと圧壊した。
触れるものすべてを物理的に押し潰す、理不尽極まりない不可視の暴威。
研ぎ澄まされた直感に従って紙一重で身を引いていなければ、肩肉どころか上半身ごと挽き肉にされていただろう。装甲を貫通して肉を削る激痛が走り、鮮血が腕を伝い落ちる。
その目に見えぬ暴威の牙は、ユインの窮地を悟り、援護に入ろうとした味方の兵たちにも容赦なく牙を剥いた。
「隊長に続けッ! 加勢す――」
側面から槍を構え、決死の形相で駆け寄った熾炎隊の兵士二名。
その直前、ジョエイが兜の奥の瞳をわずかに動かし、二人が踏み込もうとした何もない虚空へ視線を向けた刹那――。
ゴチャッ、メキィッ!
肉と骨、そして鉄の装甲が一度にすり潰される、鈍く生々しい破壊音が荒野に響き渡った。
何の前触れも、衝撃波の予兆すらなく、二人の兵士の上半身が、空間そのものに押し潰されたかのように一瞬で圧壊。鋼鉄の鎧も、鍛え抜かれた肉体も一切の抵抗を許されず、まるで巨大な見えない塊に挟み込まれたかのようにひしゃげ、激しく血飛沫を撒き散らして泥土へと崩れ落ちたのだ。
「ひっ……!?」
「な、何が起きた……!? なぜ一瞬で……!」
あまりにも理不尽で凄惨な死に様を目の当たりにし、周囲の兵たちが息を呑み、恐怖に足を踏み止まらせる。
触れるものすべてを問答無用で押し潰す不可視の領域。その存在を察知したユインは、雷で長短二振りの剣を繋ぎ、宙を自在に滑空させる変幻自在の軌道で牽制しつつ、電磁力による短剣の背後強襲を仕掛ける。しかしジョエイは、恐るべき野生の直感でその死角からの刃を紙一重で身を捻って躱し、不可視の気配を盾のように空間へ配してユインの退路を塞ぐように次々と立ち回っていく。
逃げ場を失いかけたユインの足元へ、再び空間を軋ませる不可視の圧壊が迫った――その刹那だった。
ピシィッ……。
大気の奥底で、見えない術式の脈動に微かなノイズが走ったかのように、空間を歪ませていた破壊の連動が一瞬だけぎこちなく途切れた。
本来ならば即座に発動し、ユインの肉体を押し潰していたはずの不可視の暴威が、まるで目に見えぬ痺れを打ち込まれたかのように、数秒の決定的な間隙を残して停止したのだ。
「……ッ!」
そのわずかな空白を見逃さず、ユインは身体を翻して即死の領域から飛び退いた。
「焦るな、ユイン! 敵の術の呼吸を見極めよ!」
土煙を裂いて響いたのは、後方支援を指揮する老練なディルンの叱咤だった。
愛する孫娘の死地を見据えるその双眸には、百戦錬磨の冷徹な光が宿っている。
彼が老いた手を翳し、視界に捉えた術式の淀みへと鋭く意識を投じる。
その度にジョエイが繰り出す不可視の脅威のうち、同時に二つまでの現象がその息の根を止められたかのように機能不全を起こし、致命のタイミングを狂わされていたのだ。
「おじいさま……! 助かった!」
「礼は後じゃ! 儂が抑え込めるのは二つが限度、それも長くは持たんぞ! 間合いを誤るな!」
「わかってます! この距離なら――!」
祖父の必死の支援を受け、ユインは即座に態勢を立て直す。
だが、その背中を庇われるたびに、ユインの胸の奥は激しく軋んでいた。
ディルンは決して前線で刃を交える武闘派の将ではない。老境に達した肉体に前線の暴力に抗う術はなく、一度でも敵の直撃を受ければ致命傷を免れないのだ。
故に今までは後方からの支援に徹していた。
ーーおじいさまには、万が一があって欲しくない……! 今すぐ後方に退がって……!
最愛の祖父の身を案じ、叫び出したい衝動が喉元までせり上がる。
だが――ユインは即座に首を振り、その甘い願いを呑み下した。
今、ディルンの支援が途切れれば、右翼千の陣形は一瞬で崩壊し、自分自身もこの化け物の前に圧殺される。そして前線が抜かれれば、結局は後方のディルンたちにも死が降り注ぐのだ。
退がらせるどころか、この地獄を二人で凌ぎ切る以外に生き残る道など、爪の先ほども残されていない。
それがわかっているからこそディルンも前線に出たのだろう。
それでも尚悪化し続ける戦況は、二人の懸命な足掻きをも呑み込もうとしていた。
ディルンが牽制し、ユインが必死に命脈を繋ぎ止めている間にも、ジエスタ軍の屈強な歩兵たちが雪崩れ込んできたのだ。
新加入の兵たちが押され、防衛線が瓦解していく音が耳に届く。
気付けばユインの周囲百八十度は完全に敵兵の槍襖で埋め尽くされ、逃げ場のない包囲網が完成していた。
「……これを狙っていたのね」
一騎討ちそのもので決着をつけるのではなく、ユインをこの場に釘付けにして右翼の兵を根こそぎすり潰すことこそが、敵の狙いだったのだ。
左肩からどくどくと血を流し、激痛に息を荒らげながらも、ユインは奥歯を強く噛み締め、金色に光り輝く双剣を力強く構え直した。背後のおじいさまが命懸けで繋いでくれた隙を無駄にはしない――絶望的な包囲の中、その瞳にはなおも不屈の光が宿っている。
「でもここで終わるわけにはいかない! 絶対にこの戦況を覆してみせるわ!」
***
正面に赤黒き巨人を纏うジエスタ、左翼に幻惑の種子と毒花を操るロウレス、そして右翼に不可視の圧壊領域を繰り出すジョエイ。
熾炎隊がこれまで幾多の凄惨な死線を切り開いてきた最大の武器――前線を強引にこじ開ける突進力と、個々の将が誇る圧倒的な武勇が、敵の中核たちによってことごとく寸断されてしまう。
各翼の将たちが釘付けにされ、身動きを封じられた戦線では、兵数と練度において圧倒的に劣る兵卒たちが、逃げ場のない砂塵の中でじわじわとすり潰されていった。
恐怖に呑まれた補充兵たちの悲鳴が響き渡り、必死に陣列を維持しようとする古参兵たちも、終わりなき肉の濁流の前に一人、また一人と呑み込まれていく。
防衛線の各所で血飛沫が上がり、崩壊の亀裂はもはや繕いようがないほどに広がっていた。
それでもなお、四千五百の陣容が即座に瓦解しなかったのは、中央後方に控えるサキルの的確な采配と、その傍らで獅子奮迅の働きを見せるリノルの奮戦があったからに他ならなかった。
「サキル様、左翼第二陣の隊列が崩れかけています!」
「分かっている。リノル、あそこへ撃ち込め!」
「はいっ!」
サキルの指示が飛ぶと同時に、リノルの可憐な両手が荒野の大気を切り裂くように翻る。
空間が激しく歪み、どろりと重く揺らめく漆黒の水塊――鉛のような超高比重と、細胞を壊死させ代謝を根こそぎ奪う猛毒を秘めた《重水》が、無数の水球となって虚空に生み出された。
「――蝕み、潰えなさい!」
リノルの凛とした叫びと共に放たれた無数の重水球が、左翼の綻びへ雪崩れ込もうとしていた敵の先鋒集団へと散弾の如く着弾する。
バギィッ、ドグシャァッ!
肉を断つ音ではない。分厚い鉄の装甲を鉛の塊で打ち砕き、骨ごとへし折る異様な破砕音が荒野に木霊した。
さらに恐るべきは、その後に訪れる生物的な機能不全だ。重水を浴びた野盗や調教兵たちは、皮膚が焼け爛れる激痛に喉を掻きむしり、細胞レベルで筋力を奪われて糸の切れた人形のように泥土へと崩れ落ちていく。
広範囲を制圧する絶対的な質量打撃と、個を確実に無力化する猛毒の浸透。
リノルは味方と敵が入り乱れる極限の乱戦にあって、味方の兵には一滴の飛沫すら触れさせぬ驚異的な精密制御を維持し続けていた。
敵の突破口を重水で塞ぎ、前進の勢いを削ぎ落とし、崩れかける戦線の継ぎ目をその身一つで埋め続ける。
サキルの風による不可視の防御障壁と、リノルの放つ苛烈な《重水》の連射。二人の補佐と遊撃が機能していたからこそ、各翼の崩壊は辛うじて食い止められ、前線は壊滅の寸前で踏み止まっていたのだ。
しかし――そんな彼女の献身的な奮闘をもってしても、圧倒的な戦力差の現実はあまりにも残酷だった。
一人を倒せば二人、二人を溶かせば四人がその屍を乗り越えて殺到してくる。リノルの額にはびっしりと冷や汗が浮かび、肩で息を刻むその横顔にも、激しい創力の消耗と疲労の色が濃く滲み始めていた。
さらに最悪なのは、その背後から迫るもう一つの破滅だった。
国境を越え、アルグア正規軍を丸ごと飲み込んで自らの駒へと変えた怪物――『破滅者』バルアが率いる八千の軍勢が、地響きを轟かせながら刻一刻と肉薄しているのだ。
ただでさえジエスタ軍八千に圧殺されかけているのに、その背後からのバルアが率いる八千の兵が合流すれば、もはや収拾がつかない。
熾炎隊の誰もが、己の死と部隊の消滅を覚悟した――その刹那だった。
「――遅参した! 熾炎隊、持ちこたえろ!!」
激突の怒号と血煙を突き破り、荒野の側面に突如として天を衝く巨大な砂塵を巻き上げる大部隊の影が現れた。
荒涼とした大地を揺るがす無数の蹄音と進軍の地鳴り。
乱れ一つない鮮やかな鶴翼の突撃陣形を保ち、密集するジエスタ軍の無防備な側腹部へと、電撃的な突撃が敢行された。
吹き抜ける熱風になびくのは、見紛うはずもない白銀と紅蓮の軍旗。
それはフィルドの血戦を共に戦い抜き、本国への帰還と共に別れを告げたはずの無二の友軍、『綺蓮隊』であった。
先陣を切って砂塵を切り裂く隊長ブレイルが、疾走する馬上から両手を荒野の大地へと翳す。
瞬間、ブレイルの代名詞たる物質変換の術式が轟音と共に炸裂した。
突撃路の前面に横たわっていた無数の凹凸、ゴツゴツとした岩石やぬかるんだ泥土が一瞬にして変質し、まるで鏡面のように平滑で強固な走路へと敷き直される。足場を完璧に整えられた騎馬と突撃歩兵たちは、減速することなく極限のトップスピードへと到達した。
その背後からは、長身の副隊長カルクが右手を天へ掲げ、威厳に満ちた低音で重力操作術式を発動する。
ブレイルの走路の先、側面に密集していたジエスタ軍前衛の頭上に、通常の数倍にも達する劇的な重力場が叩きつけられた。
目に見えぬ巨人の足に踏みつけられたかのように、敵兵たちは悲鳴を上げ、装甲を軋ませて大地へと平伏するように縫い止められていく。
さらに間髪を入れず、知的な表情を崩さぬ戦略家ユンが複雑な幾何学模様の術式陣を宙に展開。
指定領域内の大気を侵食するように時間遅延フィールドを張り巡らせた。突撃を受ける敵兵たちの身のこなしや武器を構え直す迎撃動作が、まるで水底をもがくかのように極端にスローモーション化し、陣形の再編を根底から狂わせていく。
そして後方からは、情報分析官リンフィアが淡く瞳を発光させ、敵性分析の完全スキャンを高速実行していた。
敵兵の配置、視線の向き、重力と遅延に捕らわれた敵前衛の微細な強度の歪みを一瞬で解析し、最も脆弱な継ぎ目となる座標を特定。
その最適な突撃針路を、念話を通じて綺蓮隊の全将兵へと寸分の狂いもなく伝達していく。
物質変換による走路の確保、重力操作による拘束、時間遅延による無力化、そして情報分析による精密な急所への誘導。
四人の中核が織り成す完璧な特殊術式の連動が、分厚いジエスタ軍の側腹部をまるで薄紙を裂くかのように無残に切り裂いていった。
「な……ッ!? 綺蓮隊だと!?」
ロウレスの刺突を受け流し、千鳥足のまま大剣を振るっていたスレイが目を見張り、正面で巨人と対峙していたアーヴィルが驚愕の声を上げる。
右翼で死闘を演じていたユインの視界にも、物質変換と空間干渉の術式を鮮やかに連動させて敵の側面を容赦なく食い破る、友軍の姿が焼き付いた。
だが――中央後方にて、右眼の白瞳で戦況の全域を冷徹に俯瞰していたサキルだけは、その援軍の姿を捉えた瞬間、歓喜や安堵よりも先に、凍りつくような冷たい違和感に眉根を寄せた。
――早すぎる……! なぜ今、ここに綺蓮隊がいる?
思考の歯車が、異常な速度で軋みを上げながら回転する。
先の戦役の後、本国ゼルグの上層部から綺蓮隊に対して直々に下されていたはずの勅命は、本国周辺の防衛任務――すなわち国境から遥か遠く離れた要衝の拠点警護であったはずだ。
シャスプで異変が起き、熾炎隊が出陣してから、まだ幾日も経っていない。
この広大な荒野に綺蓮隊が今この瞬間に駆けつけるためには、正規の軍令や手続きをすべて踏み倒し、国から与えられた国防の任を独断で完全に放棄して、部隊に休息の一秒すら与えずに昼夜兼行で全力疾走してこなければ絶対に辻褄が合わないのだ。
あまりにも都合が良すぎる援軍。
まるで、熾炎隊がこのシャスプ平原で四倍の敵に包囲され、壊滅の危機に陥るその瞬間を、数日前から正確に予見していたかのような参戦の早さだった。
――何かがおかしい。だが……。
サキルの思考の裏で、本能的な警鐘がけたたましく乱打される。
背筋を這い上がる得体の知れない悪寒。
しかし――軍師としての冷徹な現実認識が、疑念に囚われることを許さなかった。
理由がどうあれ、『綺蓮隊』がこの瞬間に突入してくれなければ、あと数分と経たずに熾炎隊の陣形は瓦解し、全軍が荒野の土へと圧殺されて消滅していた。
綺蓮隊の電撃的な側面強襲によって、無敵を誇っていたジエスタ軍の隊列は大きく乱れ、各翼にかかっていた狂気的な圧力が急速に霧散していく。崩壊しかけていた戦線は、奇跡的に均衡を取り戻したのだ。
九死に一生を得た――その事実だけは、如何なる疑念を差し挟もうとも動かしようがなかった。




