絶望の開戦
翌朝、冷涼な空気が大地を撫でるシャスプ平原は、乳白色の濃密な朝霧の底に沈んでいた。
太陽の光が東の地平からようやく差し込み、その白い帳を溶かしきる前――本来の予定通りであれば、両国の綿密な取り決めに基づいた電撃的な挟撃作戦が、音もなく静かに火蓋を切って落とされるはずだった。
国境を挟んで長年睨み合ってきたゼルグとアルグア。その両雄の間で、今回ばかりは異例の速さで軍事行動に関する秘密協定が結ばれていたのだ。国境地帯の治安を揺るがす武装勢力の存在は、双方にとって看過し得ぬ火種であったからに他ならない。
作戦の骨子は明快かつ堅実を極めていた。
南方に陣を敷いたゼルグ側からは、数々の死線を越えてきた精鋭部隊『熾炎隊』が北上を開始し、正面から敵拠点の前面を圧迫する。
それと時を同じくして、アルグア側からは六千の正規軍が北西の要衝シャルダ方面より猛然と進軍し、敵の退路を断つ形で横腹を突く。
国境の険しい岩山砦に巣食う野盗団を両国の精鋭で完全に挟撃し、一切の逃げ場を与えずに一挙にすり潰す――。
兵力、地形の利、戦術的な連動、そのすべての計算において一点の綻びもない、完璧な包囲殲滅の青写真が描かれていたはずだった。
しかし、その堅牢な目論見は進軍を告げる開戦の銅鑼が打ち鳴らされるよりも早く、あまりにも無残にそして唐突に崩壊の音を立てた。
一体、どこで軍議の機密が漏洩したというのか。
両国の連合部隊が陣容を整え、哨戒網を押し上げて最初の一歩を踏み出すより先に――まるで彼らの配置や進軍開始の刻限を最初から完全に把握していたかのように、野盗団が一斉蜂起を仕掛けてきたのだ。
それは、守勢に回った賊が逃げ惑うような無秩序な足掻きなどでは断じてなかった。
整然とした指揮系統に統率された敵の大部隊は、国境砦の防衛網を嘲笑うかのような恐るべき速度と破壊力で防衛線を突破。
シャスプ近隣に点在する村々へ一斉に雪崩れ込み、略奪と放火を敢行した。それだけに留まらず、国境を越えたアルグア領側の要衝・シャルダ一帯をも同時に猛火と硝煙の渦に包み込み、後方の補給路と警戒網を瞬く間に麻痺させたのである。
だが、何よりも熾炎隊とアルグア軍のを戦慄させたのは、押し寄せてきた敵の「数」そのものの狂気的な跳ね上がりだった。
事前の斥候や裏の情報網が弾き出していた野盗団の規模は、どれほど多く見積もっても三千、あるいは精々三千五百程度。歴戦の正規軍が二方向から押し潰せば、半日も経たずに掃討できる矮小な賊に過ぎないはずだったのだ。
しかし、晴れゆく霧の向こう側、平原の地平線を埋め尽くしていたのは、その事前予測を数倍も上回る、黒々とした巨大な軍勢の絨毯であった。
ここ数日の間に周辺の村々や街道、果ては堅牢なる城の奥から忽然と姿を消していた民や兵士たち――神隠しの如く拉致された者たちが、バルアの暴力と調教によって人間としての意志を砕かれ、感情を塗り潰された生ける肉の兵駒として前線に配備されていた。
さらにその隊列の間には、薬物と術式によって理性を失い、飢餓と殺戮への渇望に咆哮をあげる無数の凶暴化した野獣たちが解き放たれていたのだ。
怨嗟を抱く野盗の荒くれども、肉塊と化した拉致被害者たち、そして牙を剥く獣の群れ。
それらおぞましき異形の戦力が幾重にも束ねられた結果、単なる局所的な野盗の蜂起などという枠組みは完全に吹き飛んだ。
シャスプ平原は瞬く間に両国を丸ごと呑み込みかねない、未曾有の大反乱のるつぼへと変わり果てていた。
対する現在の熾炎隊の総兵力は、四千五百。
前回の要塞都市フィルドにおける凄惨極まる攻防戦で部隊の半数以上を失うという壊滅的な損害を出したものの、本国からの緊急補充によって規定以上の兵力を取り戻していた。
前回の戦の功で規定の四千より五百も兵を増やした四千五百の軍勢として再び陣を張ることが叶っていたのだ。
だが、その実情の内情はあまりにも脆く、薄氷を踏むが如き危うさを孕んでいた。前回の死線をくぐり抜けた古参兵たちは表面上はある程度回復したものの、肉体と精神が完全に回復するにはまだ少し時を要した。
そして何より、前回の戦争で失った欠員を埋めるために急造で補充された二千百もの兵卒たちは、アーヴィルが率い、サキルが采配を振るう熾炎隊の変幻自在の戦術に馴染みきれていなかったからだ。
号令一つで呼吸を合わせ、死角を補い合う阿吽の連携など望むべくもない。
急ごしらえの寄せ集めを抱えた四千五百の軍は、実質的な戦闘力においてかつての水準からは程遠い状態にあった。
それでもなお、他部隊の到着を待たずに熾炎隊単独で出陣の決断を下したのには、確固たる理由があった。
盤面の裏側においては、アーズやフィルミアを擁する『名もなき者達』が影として動き、不可解な怪異の捜査と敵の深部への工作を受け持っている。
そして盤面の表側においては、北西のシャルダ方面より進軍するアルグア軍六千との挟撃作戦が成立する手筈となっていたからだ。
総勢一万に達するゼルグとアルグア両国の圧倒的な挟撃網と、裏の世界の『名もなき者達』の最大戦力による暗躍。
それらが噛み合えば、兵卒たちの多少の練度不足や古参の疲労など強引に押し潰し、速やかに事態を鎮圧できる。
サキルの知謀をもってしても、盤上に並べられた要素の総量から導き出される勝算は十分に成り立っていた。そう踏んでいたからに他ならなかったのだ。
だが、冷酷な戦場の現実は、周到に組み立てられた彼らの想定を一片の慈悲もなく踏みにじった。
シャスプ平原の荒涼とした大地に陣を敷いた熾炎隊四千の眼前に、地平線を黒々と塗り潰して現れたのは、かつてこの地を護り抜き、そして祖国ゼルグに冷酷に切り捨てられた英雄――ジエスタが率いる反乱軍の主力部隊。実に八千に及ぶ大軍勢であった。
倍する敵の威容。
かつては誇り高き将兵であった者たちと、死線を彷徨い国への怨嗟を骨の髄まで煮詰めた野盗の凶徒どもだった。
それらに拉致され意志を奪われた者達を加えた混成部隊が、復讐の狂気に血走った双眸を爛々と輝かせながら、地響きを轟かせて押し寄せてきたのだ。
傷の癒えぬ古参兵と、戦術に馴染まぬ補充兵を抱えた熾炎隊四千に対し、二倍の質量を持つ狂気の濁流。正面衝突を前にして、張り詰めた大気は一瞬にして圧死せんばかりの重圧に包まれていた。
そして――それ以上の底知れぬ地獄の釜の底が、国境を隔てた反対側、北西のシャルダ戦線において静かに、しかし絶対的な暴威を伴って開かれようとしていた。
南下してゼルグ側と合流し、挟撃を完成させるべくシャルダを進軍していたアルグア軍六千。
その規則正しい行軍の前に立ち塞がったのは、わずか三千ほどの軍勢であった。
兵力差は実に二倍。戦術の常道に照らし合わせるならば、正規の訓練を積んだアルグアの精鋭六千が、即座に正面から陣形を押し込み、紙細工のように粉砕してゼルグ側へと突き抜けることができるはずの戦力比であった。
そう、本来であれば。
ただ一つ――その三千の反乱兵の最前線に、悠然と立ち塞がっていた「一人の男」の存在を除いては。
「ケケッ……綺麗に出揃ったなァ、アルグアの雑魚どもがよ」
吹き抜ける熱風に、短く刈りそろえられた赤黒い血の如き色の髪を微かに靡かせ、その双眸には獅子を連想させる鋭く凶暴な肉食獣の光をぎらつかせた男。
顔中から首筋にかけて無数の古傷を刻み込み、肩には血錆の浮いた無骨極まる大剣を無造作に担いだ凶漢――『再厄』の一角にして『破滅者』、バルアであった。
男がそこに立ち、ただ喉の奥を鳴らして嗤っているだけで、周囲の大気の温度が数度下がり、草木がその不気味な気配に耐えかねて萎れていくかのようだった。
「怯むな! 全軍、陣形を崩すなッ! たかが三千の賊兵など、数に任せて正面から踏み潰してしまえ!」
アルグア軍の先頭で、地鳴りのような号令を響かせたのは、国境警備の任において幾度となく武勲を立て、アルグア国内でも指折りの剛勇の士としてその武名を轟かせていた将――ガルバス将軍であった。
歴戦の猛者たるガルバスは、目の前の男から放たれる異様な殺気に本能的な悪寒を覚えながらも、それを歴戦の胆力でねじ伏せ、愛用の重厚なハルバードを両手で構え直した。
ガルバスが創力を一気に解放すると、足元の土砂と岩石が唸りを上げてその全身へと巻き付き、強固極まる岩石の創術装甲を何重にも形成していく。
城門すら打ち砕く質量と、いかなる投射攻撃をも寄せ付けぬ鉄壁の硬度。
その剛腕から放たれる一撃は、過去の戦乱において数十の重装歩兵を一息に薙ぎ払ってきた本物の武威であり、並の武芸者や創術使いでは太刀打ちすることすら叶わぬ、アルグア軍が誇る不沈の巨壁であった。
土煙を巻き上げながら、正面から単身で距離を詰めてくるバルアに対し、ガルバスは咆哮と共に地を蹴った。
全身の創術装甲の質量をすべて推進力へと転換し、渾身の力で大地を深く抉り抜くような必殺の斬撃を、頭上から叩き込む。
「死ねッ、野盗風情がァァッ!!」
大気を引き裂く轟音。音速を超えて振り下ろされたハルバードの刃が、巨大な質量を伴ってバルアの脳天目掛けて一直線に振り下ろされた。直撃すれば、岩山すら両断されるであろう破滅的な一撃。
だが――。
バルアはその場から一歩も動かなかった。
身を躱す素振りすら見せず、肩に担いだ自慢の大剣で受け止めることすらしなかったのだ。
ただ、無造作に伸ばされた素肌の左手。
手甲すら纏わぬ剥き出しの掌が、空中で振り下ろされたハルバードの鋼鉄の切っ先を、まるで飛んできた小石でも摘むかのように、やすやすと素手で掴み取ったのである。
「な……ッ!?」
ガルバスの双眸が、信じがたい現実を前にして限界まで見開かれた。
大地を砕き、堅牢なる鉄門すら一撃で両断するはずの、渾身の力を込めた必殺の斬撃。何百、何千の敵を屠ってきた自負のあるその一撃が、何の防具も纏わぬ素肌の手の平一枚に触れた瞬間――まるで巨大な深淵に吸い込まれたかのように、込められていた質量も運動エネルギーも、すべて跡形もなく霧散させられていたのだ。
衝撃波すら生まれない。ただ、空気が凍りつくような異様な静寂だけが二人の間に横たわっていた。
だが――真の悪夢は、そこから始まった。
「いい創術装甲だ。だがよォ……ちっとばかり強度が足りねえな」
ジュウウゥッ、ジジジジッ……!
肉と金属、そして硬質な鉱石が同時に沸騰し、溶け爛れていくような悍ましい異音が戦場に響き渡った。
バルアの素肌の掌から、どす黒く濁った破壊の波動が奔流となって溢れ出し、ガルバスのハルバードの柄を猛毒のように伝って逆流していく。
鋼鉄の柄が触れたそばから飴細工のようにぐにゃりと歪み、瞬く間にガルバスの両腕、そして全身を覆っていた強固な岩石装甲へと侵入していった。
次の瞬間、城壁すら凌ぐ硬度を誇っていたはずのガルバスの岩石装甲が、まるで灼熱の鉄板の上に落とされた蝋のように、泡を噴きながらドロドロと崩れ落ち始めたのだ。
「ぎ、あ……!? な、何だこれは……ッ!? 私の装甲が……身体が……溶けて……ッ!?」
術式の制御が完全に奪われ、自慢の鎧が崩壊していく激痛と恐怖に、歴戦の勇将が情けなく喉を掻きむしる。創術装甲だけではない。
装甲の内側にある軍服が、そしてガルバス自身の生身の肉体までもが、男の放つ異能によって侵食され始めていた。
「暴れるなよ。お前の力、俺が綺麗に『いただいて』やるからよ」
バルアの口元が、耳元まで裂けんばかりに獰猛に吊り上がった。
男は溶けかけたハルバードを無造作に引き寄せると、逃げようともがくガルバスの太い首根っこを、巨大な左手で真正面から鷲掴みにした。
直後――肉が爆ぜる音と、骨が軋む音が重なり合った。
バルアの手が触れた瞬間、将軍の強靭な肉体が激しく泡立ち、皮膚が紫黒色に変色して破裂していく。血管が浮き上がり、筋肉が沸騰した液体と化し、全身の骨格が音もなく崩壊して肉の塊へと還元されていく。
声帯すら瞬時に溶け去り、断末魔の叫びを上げることすら許されない。
眼球が空虚に窪み、口を絶望に開いたまま――名だたるアルグアの勇将ガルバスは、血の一滴、骨の欠片、髪の毛一本すら残さず、ただの濁った液体となってバルアの掌の中へと吸い込まれ、完全に消滅した。
そこに残されたのは、男が着ていた衣服の燃え殻すら存在しない、完全な「虚無」だけであった。
「ふぅ……ま、前菜としては悪くねえ味だ」
ガルバスの存在そのものを完全に食らい尽くし、彼が長年磨き上げてきた能力を自らの血肉へと取り込んだバルアは、満足そうに喉を鳴らし、肩を回した。
男の身体の奥底から、奪い取ったばかりの新たな力が脈打つように馴染んでいく。
開戦の銅鑼が鳴り響いてから、わずか半刻にも満たない短い時間。
自軍の誇りであり、不沈の象徴であったはずの総大将が、文字通り「目の前で跡形もなく消失した」という現実。
それを最前線で直視した数千のアルグア兵たちは、息をすることすら忘れ、ただ瞳孔を開いて立ち尽くしていた。
だが――アルグアの正規軍も、全員がただ怯え惑う烏合の衆だったわけではない。
数多の国境紛争を生き抜き、祖国への忠誠と誇りを胸に刻み込んだ歴戦の将校や精鋭たちが、恐怖を気迫でねじ伏せて即座に動いた。
「怯むなァッ!! 将軍の仇を討て!!」
「奴は化け物だが、肉体を持つなら必ず殺せる! 取り囲んで創術を集中させろ!!」
副将格の手練れ二人を先頭に、数十名の勇敢な手練れたちが陣形を組み直して咆哮を上げた。
風を切り裂く矢の豪雨、炎と雷撃の創術が嵐のようにバルアへと叩き込まれ、副将の二人が左右から神速の刃を繰り出して男の急所を狙う。
指揮官を失った直後の連携としては見事と言うほかなく、並の強者であれば一瞬で肉片へと変えられていたであろう決死の猛攻。
だが――その勇気こそが、さらなる絶望の餌食となった。
「ケッ……威勢だけは認めてやるよ」
バルアは降り注ぐ矢や炎の嵐の中を、避けることすらなく悠然と歩みを進めた。
放たれた創術の弾丸は、バルアに触れても傷一つつけることはできずに爆散する。
そして突き出された副将の剣身を彼は片手で無造作に掴み取った。
「なっ……!?」
「だがよォ、足りねえんだよ。覚悟も、力もな」
ジュウゥゥッ!!
刃を伝って逆流した黒濁の波動が、一瞬にして二人の副将の両腕をドロドロに溶かし、悲鳴を上げる間もなくその喉笛を鷲掴みにする。
将軍と同じく、二人の精鋭は泡立ち、骨を軋ませ、文字通り掌の中で液体となって消失した。
さらにバルアは、奪い取ったばかりのガルバスの岩石創術を解放。
足元の地面を激しく踏み抜くと、大地から巨大な岩の槍が無数に隆起し、突撃してきた勇敢な兵たちを鎧ごと串刺しにして宙へと跳ね上げた。
勇敢に立ち向かった者から順に、跡形もなく消滅させられ、あるいは無残な肉片へと変えられていく。
誇りも、忠誠も、技術も、この理不尽な暴威の前には何の役にも立たない――その圧倒的な格の違いを、最も苛烈な形で突きつけられたのだ。
勇敢な者たちが一瞬で全滅したその瞬間、残された兵たちの心は完全にへし折れた。
戦場に満ちたのは、軍隊としての規律や誇りを跡形もなく吹き飛ばす、狂気染みた絶叫の嵐だった。
「ひ、化け物……! 化け物だぁぁぁッ!!」
「副将たちも……一瞬で溶かされたぞッ!!」
「敵うわけがねえ! 逃げろ、喰われるぞぉぉッ!!」
アルグア軍の指揮系統は、その瞬間を境に完全に粉微塵へと瓦解した。
数千の兵が我先にと武器を投げ捨て、甲冑を脱ぎ散らし、背を向けて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。
しかし――逃げ場など、最初からこの荒野のどこにも用意されていなかった。
「誰が逃げていいっつったよ、雑魚どもが」
背後から響いたのは、乾いた哄笑混じりの低音。
バルアが大地を踏み抜いた瞬間、男の全身から噴き上がったのは、文字通り天を焦がさんばかりの絶対的な「死の重圧」だった。
それは単なる殺気ではない。数千、数万の命を貪り食らい、その存在を消し去ってきた怪物だけが放つ、空間そのものを腐落させるような濃密極まる捕食者の波動。
ドサリ、ドサドサリ……!
逃げようと背を向けた前列の兵士たちが、まるで目に見えない巨人に頭上から叩き潰されたかのように、白目を剥いて地面に昏倒していく。
心臓を直接握り潰されたかのような錯覚、あまりの恐怖に肺が呼吸を拒絶し、血を吐いてその場に崩れ落ちる者、失禁して膝の震えを止められず泥水に顔を突っ伏す者が続出した。
生きている人間としての防衛本能が、「この男に逆らえば、存在ごと消される」と骨髄に直接警鐘を乱打していた。
「骨のある奴らは全員綺麗に平らげちまったぞ。……おい、残ったてめえらの中に、まだ俺に溶かされたい物好きはいるか? あァ?」
バルアがぎらついた血色の瞳を走らせ、肩の大剣を無造作に地面に突き立てる。
ズドォォン、と大剣が突き刺さった亀裂から岩石創術の余波が地を裂いて走り、逃げ遅れた百余名の兵士たちの足元を硬質な岩の檻となって瞬く間に拘束した。逃走の退路は、完璧に物理的にも心理的にも塞がれたのだ。
さらに、バルアの背後から迫る三千の反乱兵――かつて同じように精神を砕かれ、感情を塗り潰された狂戦士たちが、冷酷な目でアルグア兵たちを包囲し、無言のまま刃を突きつけていく。
「ひ……っ、た、助けてくれ……!」
「降伏する! 従う、従いますから……どうか、命だけは……ッ!!」
一人が槍を投げ捨てて地面に額を擦り付けると、それは一瞬にして伝染病のように五千の軍勢全体へと広がった。
誇り高きアルグアの精鋭たちは、涙と鼻水に塗れ、泥を啜りながら、たった一人の凶漢の足元へ次々と平伏していった。
反抗心など、爪の先ほども残っていない。死の恐怖、存在を消し去られる恐怖によって完全に精神をへし折られた五千の兵士たちは、バルアの放つ暴力の檻に飼い慣らされた「家畜」へと成り下がったのだ。
「ケケッ、聞き分けのいい犬どもだ。……おい、てめえら。生き残りたきゃ、あのゼルグの連中を後ろから残らず噛み殺せ。逃げようとした奴から順に、将軍たちと同じように溶かして俺の腹の足しにしてやるからよ」
バルアの残酷な一言に、五千の兵士たちは震え上がりながら一斉に頷いた。
こうして、シャルダに進軍していたはずのアルグア軍六千は、半刻にして跡形もなく消滅した。将を喰われ、勇士たちを粉砕され、恐怖によって完全に調教された残存兵五千は、そのままバルアの軍門に降り、反乱軍の新たな牙として塗り替えられてしまったのだ。
――そして。
その最悪を幾重にも塗り固めた凶報は、シャスプ平原でジエスタの八千と対峙していた熾炎隊の本陣へと、容赦のない鉄槌となって叩きつけられた。
「ほ、報告ッ!! アルグア軍壊滅! ガルバス将軍、戦死いたしましたッ!!」
全身の血の気を失い、泥にまみれて転がり込んできた伝令の悲鳴のような絶叫が、張り詰めた天幕の空気を切り裂いた。
「残存したアルグア兵五千は……敵に寝返りました! バルア率いる軍勢、総勢八千が……背後からこちらへ向かって急速に進軍中!!」
「な……んだと……!?」
スレイが顎を強張らせ、愕然として息を呑む。
アーヴィルの顔もまた、かつて見たことがないほどの苦渋と怒りに歪んでいた。
前方に立ち塞がるのは、かつて祖国に見捨てられ、復讐の炎に身を焦がす英雄ジエスタ率いる反乱軍の主力八千。
そして背後から音もなく迫り来るのは、正規軍六千を丸ごと呑み込んで自らの駒とし、人知を超えた怪物バルアが率いる反乱軍八千。
挟撃するはずだった陣形は、最悪の形で完全に反転していた。
前回の死闘の傷も癒えきらず、戦術に馴染まぬ急造の補充兵を抱えた四千五百の熾炎隊は、「一万六千」という約四倍もの圧倒的な敵軍と対峙する事態に陥った。
既に撤退する時もなく、例え時があったとしてもバルアが許す筈がない。
吹き抜ける荒野の冷たい風の中で、サキルは静かに右眼の白瞳を開いた。
大気と意識を擬似共有し、風の流れに乗って届く戦場の気配を冷徹に捉える。
肌を撫でる風には、濃密な血の匂いと、迫り来る圧倒的な暴威の残滓がべっとりと混じり合っていた。
逃げ場のない、圧倒的な戦力差の中での戦い。
絶望の檻の真ん中で、サキルという獲物を力ずくで喰らい尽くさんと哄笑する野獣の足音が、刻一刻と、確実に近づいていた。




