破滅者の誘い
要塞都市フィルドの陥落、レルフォ一族の不可解な全滅、そして突如として姿を現した『破滅者』バルアの襲撃――幾重もの不気味な爪痕と最悪の後味を残し、泥沼の戦乱はひとまずの幕を閉じた。
熾炎隊と綺蓮隊は痛手を負った兵たちを連れ、辛うじて本国たるゼルグへと帰還を果たした。
しかし、戦火の世において安息の刻など一瞬の夢に過ぎない。
傷を癒やすための猶予はわずか一週間。連合として行動を共にしてきた綺蓮隊と別れると同時に、熾炎隊には休む間もなく次の出撃命令が下された。
向かった先は、シャスプ平原。
かつてエイリュウとの死闘を繰り広げる直前に布陣した、因縁深き荒涼とした平原であった。
だが、今回この地に陣を敷いた理由は、敵国との正面衝突によるものではない。平原を預かる前線基地から上がってきた、あまりにも不可解で不気味な「怪異」の報告を調査・鎮圧するためであった。
平原に陣を敷いた兵たちの間では、不穏な怪異の噂に加え、もう一つ他愛のない愚痴が口々に交わされていた。
ここ数年、季節の巡りごとにわずかずつ気温が落ちているように感じられていたが、今年のシャスプ平原を吹き抜ける風もまた、去年の同時期と比べてほんのりと肌寒さを増していたのだ。
軍の行軍や日々の運用に支障をきたすほどのものではない。
ただ、夜番に立つ兵たちが薄手の外套を一枚余分に羽織ったり、冷たい夜風に肩を竦めたりする程度の、ごくささやかな寒さ。
だがその微かな冷気の蓄積が、どこか落ち着かない空気を陣営に漂わせていた。
本陣の天幕。
隊長であるアーヴィルを筆頭に、副官のスレイ、弓兵隊を率いるユイン、老練なるディルン、補給を司るクレリッド、そして軍師たるサキルと、その補佐として控えるリノル――熾炎隊の中核を成す面々が、卓上の地図を囲んで重々しい軍議を開いていた。
「……さて、集まってもらったのは他でもない。このシャスプ一帯で起きている異常事態についてだ」
アーヴィルが腕を組み、険しい面持ちで切り出す。
卓上に広げられた広域図には、シャスプ平原を中心に、防衛の要であるシャスプ城、そして隣接するシャウド城の位置が記されていた。
「報告書に目を通したが……にわかには信じがたい内容だな」
スレイが薄手の羽織の襟元を少し引き寄せ、頭を掻きながら唸る。
その報告書に記されていた怪異は、大きく分けて二つ。
一つは、シャスプ平原からシャスプ城、シャウド城を含めた一帯で、生息する野獣たちが突如として異常な凶暴化を遂げ、見境なく人間を襲い始めていること。
そしてもう一つは――街道を歩いていた旅人や農民はもとより、固く門を閉ざした城の中にいたはずの兵士や使用人に至るまで、何の前触れもなく忽然と姿を消し、行方不明者が激増しているという点だった。争った痕跡も、血痕すら残さず、人間だけが煙のように掻き消えているのだという。
「城の内側から人が消えるなど、通常の神隠しや誘拐では説明がつかんなぁ」
ディルンが静かに顎を撫でながら呟く。
「創術による大規模な空間干渉……あるいは、精神を狂わせる類の術が広域に展開されている可能性も否定できません」
「それだけじゃないわ」
ユインが地図の端、国境沿いの一角を指先でトントンと叩いた。
「この怪異が起きている領域から、わずか一キロも離れていない場所……アルグアと我が国の国境地帯に、最近になって大規模な野盗団が住み着き始めたらしいの。周辺の村や補給部隊を略奪して勢力を拡大しているそうよ」
「ほ、補給路の寸断も時間の問題です……! このまま野盗を放置すれば、平原の調査どころではなくなってしまいます」
クレリッドが帳簿を抱えながら焦燥を滲ませて補足する。
「野盗の掃討自体は、我が隊の戦力をもってすれば造作もない。だが……この不可解な神隠しと獣の凶暴化が同時に起きているのが気に食わねえな」
アーヴィルの言葉に、サキルも深く目を細めて同意した。
「ああ。野盗の蜂起が単なる偶然か、あるいは背後にある怪異の陽動か……。いずれにせよ、野盗の拠点を叩いて国境の憂いを断つと同時に、消えた人々の足取りと獣の異変の原因を突き止める必要がある」
軍議は方針を固め、部隊の配置と初動の索敵手順を詰めたところで一旦の散会となった。
将たちがそれぞれの持ち場へと戻っていく中、サキルとリノルもまた天幕を後にする。
だが――陣の内外を吹き抜ける風の気流に、ごく微かな「揺らぎ」が混じった。
サキルの右眼の白瞳が、気配を完全に殺して陣幕の影に潜む一つの影を捉える。リノルもまた、気配の異変に即座に気付き、そっと視線を走らせた。
「……サキル様、リノル様」
大気と同化するようにして現れたのは、『名もなき者達』の使者だった。
周囲の将兵には決して悟らせぬ極限の隠密術。使者は音もなく膝をつき、二人の耳元へ低く囁いた。
「今回のシャスプ一帯の事件……我ら『名もなき者達』も、正式に介入を開始いたします。お頭がお呼びです。どうかこちらへ」
サキルとリノルは互いに視線を交わし、無言で頷き合った。
夜の帳が降りるのを待ち、二人は風の死角を突いて熾炎隊の本陣を抜け出した。
使者の案内によって導かれたのは、軍の哨戒網からも外れた切り立った岩山の裂け目――外界から完全に遮断された薄暗い洞穴の奥だった。
洞穴の奥、かすかに揺らめく創術の淡い光の下で、二人の人物が静かに待っていた。
『名もなき者達』の筆頭格――アーズ、そしてフィルミア。
裏の世界で生き、表の軍隊では決して解決し得ない闇の任務を葬り去ってきた、ネレネスの最高幹部たちである。
顔中に無数の刀傷と火傷痕を刻み、特に右目の周りが痛々しく焼け爛れた異様な威圧感を放つ巨躯の偉丈夫、アーズ。その無傷の左目は、薄暗がりの中でも爛々とした鋭い光を放っている。
対照的に、その傍らに佇むのは小柄で細身の女――フィルミア。深く被ったフードの隙間から覗くのは、灰色の艶やかな髪と同色の冷徹な瞳、そして透き通るような白い肌。一切の気配を霧散させ、そこに立っていることすら錯覚させるほどの極限の隠密性を纏うその佇まいは、数年前、サキルの喉元へ一瞬で短剣を突きつけたあの神速の暗殺者そのものだった。
彼らとこうして対面するのは、サキルがネレネスに足を踏み入れたばかりの時以来――実に数年ぶりのことだった。
「来たか、サキル」
アーズが鋭い眼光を向け、低く太い声で口を開く。その佇まいは、数年前と変わらず研ぎ澄まされた刃そのものだった。
「数年ぶりだな。……あの時、お前が組織に入ったばかりの頃に言ったはずだ。『長生きできれば部隊の戦力になる』とな。見事に生き残り、今や熾炎隊の軍師として盤面を動かすまでになった。俺の目利きも捨てたもんじゃない。満足のいく育ち方をしてくれたよ」
豪快に歯を見せて笑うアーズは、満足げに腕を組み、隣の小柄な相棒へと視線を投げる。
「そう思わないか、フィルミア? お前がアレを仕込んでやった雛鳥が、今じゃ立派に軍を動かしてやがるぜ」
だが、冷徹な気配を纏って腕を組むフィルミアは、微動だにせず、灰色の瞳をわずかに動かすことすらしなかった。
微塵の興味もなさそうに小さく鼻を鳴らしただけで、完全にスルーを決め込む。
かつて「あなたを好敵手だと認めたことはない」「いずれ私の手で葬る」と冷たく言い放った時と何一つ変わらぬ、氷のように冷淡な態度。アーズは苦笑を漏らし、頭を掻いた。
「相変わらず愛想のない奴だ。……まあいい。本題に入ろう」
アーズの纏う空気が、一瞬にして冷徹な任務の色へと切り替わる。冗談めかした声音は消え失せ、死線を潜り抜けてきた歴戦の重みが洞穴の空気を満たした。
「今回のシャスプ一帯の事件、背後に『再厄』が噛んでいる可能性がある」
サキルの瞳が僅かに細められた。
「……確証はあるのか?」
「確たる証拠はまだない。だが、裏の情報網のあちこちから不穏な糸がこの地に集まっているという話が出ている。国境の野盗どもは表の軍――お前たち『熾炎隊』が正面から叩けば済む。だが、人が忽然と消え、獣が狂う現象の裏には、表の軍勢では対処できぬ深い闇が巣食っているはずだ。野盗がいるから軍が出るが、事件も同時に起きているからこそ、我ら裏部隊も同時に動く」
かつてサキルに「自分の術は隠し、相手の術は暴くのが情報管理の鉄則だ」と叩き込んだアーズらしく、その分析は敵の能力と盤面の裏を徹底的に見据えていた。
続いて、フィルミアが一歩前に出る。その歩みには足音すらなく、ただ冷気が滲み出るようにして言葉を継いだ。
「お前は表の軍として動きながら、何か掴んだらこちらと情報を共有しろ。我々も裏から嗅ぎ回る。……言っておきますが、相手が『再厄』なら、無意味に突っ込んで犬死にすることだけは許しませんよ。勝てないと判断すれば退く。常に合理的な選択をしなさい」
かつてサキルに説いた「生き残るための第二の条件」――敵の力量を瞬時に見抜き、感情に流されず冷徹に判断せよという教えを、念を押すように告げるフィルミア。
「了解した。……だが、話はそれだけか?」
サキルが問うと、張り詰めていた空気を自ら破るように、アーズは肩の力を抜き、ふっと意地の悪い笑みを浮かべた。その鋭い左眼が、サキルの後ろへと向けられる。そこに佇むリノルをじろじろと上から下まで眺め回した。
「いやぁ、それにしても驚いたぜ。……おいおい、すっかり見違えちまったな、グンドル」
かつて男として裏の任務に身を置いていた頃の名を呼ばれ、リノルは眉をひそめて苦笑いを浮かべた。
「その名前はもう捨てましたよ、アーズさん。今はリノルです」
「ハッ、違いねえ! だがよ、昔の泥臭い面影はどこへやら、今じゃすっかり綺麗な女の顔になりやがって。男のフリをしてた頃より余程毒気が抜けたんじゃないか?」
からかうように言うアーズは、再びフィルミアへと肘を小突くように促す。
「おいフィルミア、お前もそう思うだろ? うちの連中は化け損ねが多いが、こいつの化けっぷりは大したもんだ」
しかし、フィルミアは横を向いたまま、冷たい視線をアーズの肘に投げつけることもせず、再び完全にスルーした。
取り合う価値すらないとでも言いたげな態度に、アーズは肩をすくめて大袈裟に嘆息する。
「まったく、なんで世を捨てた裏部隊に限って美人が集まるかねぇ。……で、サキル。お前はどっちが好みだ? 昔馴染みの化け狐か、愛想ゼロの氷女か」
「下らない冗談を言っている暇があるなら、捜査の配置に戻れ」
サキルは眉一つ動かさず、冷徹に一蹴した。
「ケッ、相変わらず堅物な野郎だぜ。……まあいい、行くぞ」
アーズは背を向け、フィルミアと共に暗がりへと足を踏み出す。
二人の気配は、まるで最初から存在していなかったかのように、洞穴の深い闇の奥へと音もなく溶け込んで消え去った。
「……戻るぞ、リノル。軍が動き出す前に」
「はい、サキル様」
表部隊としての『熾炎隊』による野盗掃討、そして裏部隊たる『名もなき者達』による怪異の深層究明。
光と影の両面から、シャスプ平原に渦巻く不気味な異変の核心へと切り込む――新たな戦いが、人知れず幕を開けようとしていた。
***
アルグアとゼルグの国境にほど近い、険しい岩山に築かれた巨大な砦。
かつて防衛の要所として使われ、打ち捨てられていたその廃墟を根城に、夥しい数の武装した男たちが蠢いていた。単なる略奪集団の規模を遥かに超えた、数千もの兵力を擁する巨大な野盗団。
その最奥の広間で、粗末な木製の玉座に深く腰を下ろし、冷え切った眼差しで抜き身の長剣を見つめている一人の男がいた。
野盗団の頭目――ジエスタ。
無精髭に覆われた無骨な面魂、その全身に刻まれた無数の刀傷。荒くれ者たちを束ねるただの首魁に見える男だが、その立ち居振る舞いの端々には、かつて軍を率いていた歴戦の将としての威厳が色濃く染み付いていた。
ジエスタ。
かつて彼が、このシャスプの地で「英雄」と讃えられていたことを知る者は、今や少ない。
かつてのジエスタは、シャスプ一帯を治める忠義篤き領主だった。
国境を接する隣国アルグアからの激しい侵略に対し、彼は領民と祖国を守るため、幾度となく最前線に立って防波堤となり、敵の猛攻を退け続けた。
だが、繰り返される迎撃戦の中で兵は磨耗し、物資は底を突き、軍は極限まで疲弊していった。
彼は本国たるゼルグ中枢へ、幾度も必死の援軍要請を送った。
だが――当時、ゼルグは別の主要戦線に全戦力を割いており、辺境のシャスプに兵を回す余裕などなかった。上層部は彼の要請をなぁなぁにして先送りにし、「いずれ送る」「耐え抜いてみせよ」と空虚な美辞麗句を繰り返すだけで、援軍が承認されることはついに一度もなかった。
責任感の強い男だった。
ゼルグ上層部の苦境も、他方面の戦局の厳しさも、彼には痛いほど理解できていた。
だからこそ、見捨てられつつある現実を受け入れながらも、恨み言一つ漏らさず、援軍のないまま孤軍奮闘を続けたのだ。
しかし――奇跡にも限界はあった。
最後の戦いで防衛線は決壊し、ジエスタは敗北した。
シャスプはアルグア軍によって一時的に制圧され、城は落ちた。だが、その直後にゼルグ本国が取った行動こそが、彼の魂を地獄へと叩き落とすことになる。
ジエスタ軍との死闘によってアルグア軍が満身創痍となり、ボロボロに疲弊しきった絶妙の好機を見計らい――ゼルグは出し惜しみしていた大軍を送り込み、やすやすとシャスプを奪還したのだ。
最初から、彼とその部下たちは「敵を消耗させるための肉壁」として使い潰されたに過ぎなかった。
国のために命を懸け、忠義を尽くした果てに待っていたのは、冷酷極まりない国家の打算と裏切り。
祖国に利用され、すべてを奪われて泥の底へと堕ちたジエスタは、死線を彷徨った末に野盗へと身をやつした。
義を捨て、忠を捨て、胸に宿るどす黒い復讐心だけを糧にして生き延び、各地の凶徒を束ねて野盗団の規模を膨らませていった。すべては、己と部下たちを使い捨てにした祖国ゼルグを、この手で地獄の業火に叩き落とすためだけに。
「頭、各隊の配置、完了しましたぜ」
側近の野盗が進み出て頭を下げる。
現在の野盗団の兵力は、数年前の倍以上に膨れ上がっていた。
だが、その急激な膨張を支えたのは、ジエスタの手腕だけではない。砦の陰から響く、重苦しい足音と不気味な気配――。
「ケケッ、いい面構えになってきたじゃねえか、元英雄殿よォ」
暗がりから足音を響かせて現れたのは、短髪に刈りそろえた赤黒い血の如き色の髪に、同じく血の色の瞳を宿した男――『再厄』の幹部にして『破滅者』、バルアだった。
顔中から首筋にかけて無数の古傷を刻み込んだその風貌は、飢えた肉食獣の如き凶悪さを剥き出しにしており、肩に担いだ血錆の浮いた大剣が無骨な威圧感を放っている。
ジエスタの復讐に手を貸したのが、この凶漢であった。
シャスプ周辺の村や街道、果ては堅牢な城の内部から忽然と姿を消した人々。彼らは皆、バルアの手によって密かに攫い集められた者たちだった。
気に入った能力を持つ者は跡形もなく溶かして捕食し、その力を己の血肉として奪い尽くす。そして残った使えそうな駒には、容赦のない暴力と脅迫を叩き込んで精神をへし折り、感情を殺した肉の兵駒として仕立て上げた。そうして集められた者たちを、バルアはジエスタの野盗団へ惜しげもなく合流させたのだ。
神隠しの如く消えた者たち、凶暴化させた獣たち、そして復讐に狂う野盗たち。それらが合わさり、いまや一国の正規軍をも脅かす巨大な「反乱軍」へと変貌を遂げていた。
「……バルアか」
ジエスタは感情の抜け落ちた声で応じる。
「貴様のやり口は気に食わんが、兵力としては申し分ない。この力があれば、ゼルグの喉笛を喰い破れる」
「目的が果たせりゃ何だっていいだろうが。てめえは国を滅ぼして復讐を遂げりゃ満足、俺は俺で……極上の獲物をいただく。利害の一致ってやつだ」
バルアの獰猛な双眸が、暗がりの中でギラギラと狂暴な輝きを放つ。
彼がシャスプの地でこの大掛かりな反乱劇を仕掛け、舞台を整えた真の目的。それはジエスタの復讐を支援することなどではない。
――サキル・セルフェウス。
あのフィルドの要塞で味見をした、タシュアの「最高傑作」。
あの変態野郎が後生大事に囲い込み、他人に触れさせまいと隠し育てていた極上の獲物。
軍部に守られ、手を出そうにも大軍の壁に阻まれるあの男を、白日の下に引きずり出すための餌。それがこの国境地帯の反乱劇だった。
あいつが手塩にかけた宝物を横から丸ごと奪い取り、その肉体も、内に秘めた特別な力も残らず解体して食らい尽くしてやる。そうして絶望するタシュアの顔を想像するだけで、バルアの全身の血が歓喜に沸き立っていた。
国境を侵されたアルグア軍。
怪異と反乱の鎮圧に駆り出されたゼルグの精鋭『熾炎隊』。
そして、闇に潜む元凶を暴かんと動く裏部隊『名もなき者達』。
それらを迎え撃つのは、復讐に燃えるジエスタ率いる巨大野盗団と、すべてを蹂躙せんとする『破滅者』バルア。
三つ巴の策謀と武力が、このシャスプの荒野で激突する瞬間が刻一刻と迫っていた。
「あの時の続きだ」
バルアは肩の大剣の腹を掌で叩き、口元を耳元まで裂けんばかりに醜悪に吊り上げた。
「楽しみだぜ……サキル。お前の中の力ごとお前を喰らい尽くしてやるよ」




