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想造世界  作者: 篤
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タシュアの過去⑤ 分たれる道

 フィローレ邸の二階。そこは、この世の喧騒から切り離されたかのような深い静寂が支配する、クレイグのプライベートな領域だった。窓の外には、雲一つない夜空に浮かぶ満月が、青白い光を銀の粉のように降り注いでいる。

 その静寂を、微かな音が叩いた。


 ——コン、コン、コン……。


 控えめながらも、意志の強さを感じさせる確かなリズム。それは、深夜の訪問者としてはあまりに場違いで、どこか非現実的な響きを伴っていた。

 眠りの深淵に沈んでいたクレイグは、その音と、自分の名を呼ぶ幽かな震えを耳の奥に捉えた。


「……クレイグ。……クレイグ、起きているかい?」


 宵闇の粒子に溶け込み、風に乗って耳を擽るような、懐かしい囁き声。

 クレイグは重い瞼をこじ開け、眠け眼をこすりながら意識を浮上させた。最初は夢か、あるいは風が窓を叩く悪戯だろうと考えた。しかし、繰り返されるその声の主を、彼の魂は決して忘れてはいなかった。

 彼は吸い寄せられるようにベッドを抜け出し、冷たい床を裸足で踏みしめて窓辺へと向かった。厚いカーテンを勢いよく引き開け、凍てつく夜気を招き入れるように窓を大きく開け放つ。

 その瞬間、クレイグの全身を強烈な衝撃が貫き、微睡みの残滓は跡形もなく霧散した。


「……タシュア!? なんで……、えっ、どうして、お前がそこに!?」


 驚愕のあまり喉を突き破りそうになった叫びを、クレイグは咄嗟に自らの手で抑え込む。

 目の前に立っていたのは、数日前まで光を失い、死の影に怯えながら病床で喘いでいたはずの親友、タシュア・イーライグだった。


 しかし、その光景はあまりにも異常である。

 フィローレ邸の二階。地上からは数メートルの高さがある。足場などどこにもないはずの空中に、タシュアはまるで堅固な大地を踏みしめているかのような、不気味なほどの自然さで静かに佇んでいた。

 重力という理から切り離されたその浮遊は、彼が「人」としての枠組みを逸脱し始めたことを雄弁に物語っている。

 何より、クレイグの心臓を射抜いたのはタシュアの瞳だった。


 かつてその視覚情報を遮断するために幾重にも巻かれていた忌まわしい包帯は、今はもうない。剥き出しになったその双眸は、闇の中で燐光を放ち、不気味なまでに澄み渡った青紫色に輝いていた。

 それは深淵の底で揺らめく鬼火のようでもあり、あるいは極寒の空に瞬く星のようでもある。


「やぁ、こんばんは。クレイグ」


 タシュアは、つい先刻まで自分の血族を無慈悲に解体し、屋敷を血の海に沈めてきたことなど微塵も感じさせない、穏やかで優しい微笑みを浮かべていた。

 その落ち着き払った態度は、かえってクレイグの背筋に薄寒い戦慄を走らせる。

 混乱し、洪水のように押し寄せる疑問を口にしようとしたクレイグを制するように、タシュアは鈴を転がすような、どこか澄んだ声音で言葉を継いだ。


「心配をかけて悪かったね、クレイグ。……僕は、あの忌々しい病を克服したんだ。そして、その代償として……いや、恩恵として、この新しい力を手に入れたのさ」


「……克服した? 本当に、本当なのか!? ああ、よかった……本当によかった、タシュア!!」


 クレイグの顔に、爆発的な喜びが弾けた。

 タシュアが空中に浮いている理由や、その瞳の異様さ、そして漂ってくる幽かな焦げた匂い。

 そうした数々の違和感は、親友の「回復」という最大級の福音によって、一時的に意識の隅へと追いやられた。

 クレイグは身を乗り出し、窓の外に漂うタシュアの肩を、確認するように力いっぱい掴んだ。


「お前が生きて、またこうして笑ってる。それだけで、俺は……!」


 クレイグの手のひらから伝わってくる、生きた人間の確かな熱量。その純粋な善意と喜びの温度が、血を浴び、憎悪に身を焦がして冷え切っていたタシュアの心に、一瞬だけ、かつての人間らしい安らぎと、胸が締め付けられるような切なさを同時にもたらした。


「ああ、よかった……! なら、明日から俺たちはまた一緒だ! 少し遠回りしちまったが、これでようやく、全力で俺たちの夢に向かっていけるな! 誰も死なせない、最高の軍を……!」


 クレイグの声は、夜の静寂を震わせるほどに熱を帯びていた。

 その瞳は一点の曇りもなく、かつて二人で語り明かした理想の未来——決して仲間を、家族を死なせることのない無敵の軍団を作るという、あまりに高潔で無邪気な「夢」を真っ直ぐに見据えていた。

 その熱量に、タシュアの微笑みが微かに、しかし決定的に震えた。クレイグが掴んでいる自分の肩が、火傷しそうなほどに温かい。

 その温もりが、今のタシュアにとっては救いであると同時に、喉元を締め上げる縄のようにも感じられた。


 彼は唇をキュッと噛み締め、耐え難い情報の奔流を抑え込むように、あるいは親友の眩しすぎる光から逃れるように、静かに目を伏せた。

 数時間前、自らの手で数多の肉親を屠り、血の海を歩んできた。今のタシュアは、人の情愛を捨て、復讐の果てに「悪魔」へと成り果てた存在だ。そんな彼にとって、クレイグだけは——依然として汚してはならない、世界で唯一の、そしてあまりに眩しすぎる特別な聖域だった。


 故にこそ、彼はその聖域を自らの手で壊さねばならなない。

 嘘で塗り固めた再会は、いつかこの親友をより深く傷つけることになる。タシュアは深く、重い吐息とともに、言葉を紡ぎ出した。


「……クレイグ、ごめん。僕たちの夢を目指すことは、もう、できなくなったんだ」


 その声音は、先ほどまでの穏やかさを失い、ひどく冷徹で、乾いた響きを帯びていた。


「……は? 何を言ってるんだよ、タシュア。忘れたのか? 俺たちで、この国の不条理を、悲しみを終わらせるって誓い合っただろう」


 クレイグの顔から困惑の色が広がる。冗談を言っているのだと、そう信じようとする縋るような眼差し。 タシュアは逃げることなく、嫌われる覚悟を、拒絶される恐怖をその瞳の奥に沈め、親友を真っ直ぐに見つめ返した。


「……もう、イーライグ家は僕が壊滅させたよ」


 タシュアの静かな声が、夜風に混じってクレイグの鼓膜を震わせた。その言葉の重みに耐えきれず、周囲の空気が凍りついたかのような錯覚さえ覚える。


「……————、は??」


 クレイグは、発せられた言葉の断片を脳内で結合することさえできず、ただ呆然と口を開けた。理解の範疇を超えた事象を突きつけられた人間の、虚脱した表情。しかし、タシュアの告白は止まらない。


「父様も、母様も。……弟も妹も、イーライグの一族すべてを、僕がこの手で皆殺しにした。僕は、僕をゴミのように虐げてきたあの家が、どうしても、どうしても許せなかったんだ。この病を克服し、理を超える力を得たのも……その、魂に刻まれた消えることのない憎悪があったからだよ」


「な、何を……嘘だろ、タシュア? 何かの冗談だろ……? そんな、お前が、そんなことをするはずが……っ」


 クレイグの手が震え、タシュアの肩から力が抜けていく。親友の「善」を信じたいクレイグの心が、悲鳴を上げていた。


「……てもらった方が、早いかな。僕が何を見て、何をしてきたのか」


 クレイグが拒絶の言葉を紡ぎ切るより速く、タシュアの青紫の瞳が至近距離まで接近した。その不気味な光がクレイグの網膜を捉えた瞬間、《死眼》がもたらす情報の転写機能を発動させた。

 それは単なる視覚情報の伝達ではない。タシュアが感じた血の臭い、肉を断つ感触、そして脳を焼き尽くすような愉悦と狂気。それらすべてが、濁流となってクレイグの脳内へと強制的に流れ込んだ。


 ——廊下を赤く染め上げる、無数の血飛沫。


 ——絶叫を上げる暇さえなく、モノのようにバラバラに引き裂かれた弟妹たちの残骸。


 ——そして、タシュアの足元で、無様に命乞いをしながら炭となって崩れ落ちていった父・シュデルの、絶望に歪んだ最期の顔。


「あああああーーーーーッ!!!」


 あまりにも凄惨で、暴力的な記憶の奔流に、クレイグは耐えきれず獣のような叫び声を上げた。彼は両手で自らの顔を覆い、狂ったように頭を振りながら、窓際から部屋の奥へと後退した。その瞳に今も焼き付いているのは、タシュアが創り出した「地獄」そのものだった。


 タシュアは表情を動かさず、ただ悲しげな色を宿した瞳で、取り乱す親友をじっと見守っていた。

 クレイグは震える手で窓枠を掴み、吐き気を催すような衝撃に耐えながら、信じられないというように何度も首を振った。そして、呼吸を荒らげながら、恐る恐る、目の前の「怪物」へと視線を戻した。

 そこには、月の光を背負い、青紫色の瞳で自分を見つめる、かつての親友であり——今はもう、誰にも救うことのできない「悪魔」が立っていた。


「本当に……本当にお前が……自分の家族を、一人残らず、皆殺しにしたのか?」

 クレイグの震える声が、静まり返った寝室に重く響いた。その問いは、今さっき脳内に直接流し込まれた地獄のような光景を、何かの間違いだと、悪質な幻覚だと言ってほしいという、魂の叫びでもあった。


「ああ、本当だよ、クレイグ。僕が殺した。一人ずつ、丁寧に、この手でね。……もう、耐えられなかったんだ。僕を人間としてではなく、ただの使い捨ての道具や、目障りな廃棄物としてしか見ないあいつらの視線に。あいつらが作り上げた、この腐りきったイーライグの血の匂いに」


 タシュアは、まるで幼い頃の思い出話を語るかのように、静かに、そしてあまりにも寂しげに笑った。

 その瞬間、クレイグの全身に、毛穴という毛穴が逆立つような本能的な戦慄が走る。

 目の前に立っているのは、間違いなく親友のタシュアだ。

 その顔も、声も、自分を呼ぶ響きも。しかし、彼が纏っている空気は、もはやクレイグが知る「人間」のものではなかった。

 彼の背後から滲み出す、ドロリとした重苦しい「負のオーラ」。それは隠しきれない殺意と、数多の命を奪ったことで変質した創力が混ざり合い、深淵の底から這い出してきた怪物の影のようであった。

 クレイグは、喉の奥が引き攣るのを感じた。

 かつて肩を組み、背中を預け合うと誓った親友に対し、身体が勝手に「生存本能」としての恐怖を訴え、ジリジリと部屋の奥へ、暗闇に佇むタシュアから遠ざかるように後ずさりした。


「……クレイグ。驚かせて、怖がらせてしまったのは謝るよ。でも、君にだけは、嘘を吐きたくなかったんだ。隠し事をして君の隣にいるなんて、僕には耐えられそうにないから。だから、僕のすべてを……僕の犯した罪も、手に入れたこの力も、全部君に見せたんだ」


 親友が自分に怯え、後ずさる姿。その光景がタシュアの胸を鋭く抉ったのだろう。青紫色の瞳が、微かな悲しみに揺れ、傷ついた獣のように細められた。しかし、彼は震える声を懸命に押し殺し、この世で唯一、自分の魂を繋ぎ止めてくれる少年へ、最期の、そして本心の願いを告げた。


「その上で、君に頼みがあるんだ」


「……頼み? なんだ……、何を、頼むつもりだ……?」


 クレイグの瞳には、友情よりも先に、明らかな「警戒」の色が宿っている。それは裏切り者に対するものではなく、得体の知れない強大な力を持つ「災厄」に対するそれだった。

 タシュアは一瞬、心臓を直接握り潰されたかのような、絶望的な表情を見せた。しかし、すぐに縋り付くような熱を込めて、堰を切ったように言葉を捲し立てた。


「僕と一緒に、この国を出てくれないか? こんな腐敗したイフィラなんて、もうどうなったっていい。僕について来てくれれば、君を二度と退屈させない。何があっても、世界のすべてを敵に回してでも、僕が絶対に君を護り抜く。地位も、名誉も、君が望むことなら、この力ですべて君の足元に跪かせてあげる。君が理想とする世界を、今度は僕が、僕一人の手で作って、君に捧げるから……! だから、僕について来てくれないか? クレイグ、僕には……僕には、君だけが必要不可欠なんだ……!」


 それは、夢を、家族を、そして己の人間性さえも壊し尽くした悪魔が、最期の未練として捧げる、あまりに歪で、あまりに重すぎる執着の告白だった。

 クレイグは、タシュアの青紫色の瞳を、逃げることなく正面から見つめ返した。

 その深淵のような瞳の奥には、禍々しいオーラに塗りつぶされながらも、確かに、かつての心優しいタシュアの残滓が、消え入りそうな灯火のように揺れている。

 タシュアは、クレイグという光を失えば、今度こそ完全に「怪物」として完成してしまう。それを、クレイグは誰よりも理解していた。

 クレイグは、長く、苦しい瞑目の後、すべての迷いを断ち切るように静かに目を開けた。そして、震える唇を噛み締め、きっぱりと告げた。


「……すまない、タシュア。俺は、お前について行くことはできない」


「…………そうか。……そう、答えるんだね」


「ああ。俺は……家族や一族を誇りに思っていた。そして何より、お前と一緒に見た、あの『誰も死なせない最高の軍を作る』という夢を、今さら捨て去ることなんてできない。お前と一緒に歩む道は、もう消えてしまったのかもしれない。それでも……俺は、俺たちの誓ったあの夢の続きを、この国で、この足で、生きていく。それが俺の選んだ道だ」


「そうか。……うん。君なら、そう言うと思ったよ。君のそういう真っ直ぐなところが、僕は……大好きだったからね」


 タシュアは、今にも泣き出しそうなほど哀しげに、しかし同時に、自分の愛した親友が、自分がかつて目指した「光」を失っていなかったことに満足したように、穏やかに笑った。


 未練を断ち切れないように、クレイグの方へと右手を伸ばしかけたが、途中でその指を激しく震わせ、空中でそれを静かに横に振った。

 その手はもう、クレイグの温かい肩に触れることは許されないのだと、悟ったかのように。


「じゃあね、クレイグ。たとえ道が分かたれても、離れていても……僕たちは、ずっと親友だ。君がピンチの時は、地獄の底からでも、世界の果てからでも、僕が必ず君を助けに行く。……誰にも邪魔はさせないよ。——また、会いに来る」


 タシュアは翻り、窓の外、虚空へと背を向けた。


「おい、待て! タシュア!!」


 クレイグが窓から身を乗り出し、夜の闇へと溶けゆく背中に必死に手を伸ばす。

 だが、青紫色の美しい、しかし禍々しい光跡を月夜に残して、タシュアは一度も、ただの一度も振り返ることなく、宵闇の彼方へと消え去っていった。

 残されたのは、ただ冷たく吹き抜ける夜風と、一晩ですべてを失い、親友さえも失ったクレイグの、震える吐息だけだった。

 満月の光は、無慈悲に地上を照らし続ける。

 二人の少年の運命の道は、今この瞬間、決定的に、そして永久に分かたれたのである。

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