タシュアの過去④ イーライグの終わり
タシュアの背後、イーライグ家の栄華を象徴していた精巧な彫刻入りの巨大な扉が、大気を震わせる地鳴りとともに変貌を遂げた。
床から這い出した無骨で分厚い土壁が、逃げ場を完全に断つ「絶望の楔」として、出口を音もなく、しかし絶対的な拒絶をもって封鎖したのだ。
「……お前が口を割らないと言うなら、もはや情けをかける理由はない。そのまま口を割らずに、我が術の錆となって塵に消え去れ!!!」
シュデル・フィン・イーライグの叫びは、もはや父が子を叱責するような次元にはなかった。そこには有力貴族としての凄まじい激情、そして目の前に立つ「かつての息子」という名の未知の怪物に対する、剥き出しの畏怖が混ざり合っていた。
その叫びは大広間の高い天井に反響し、イーライグ家当主としての威厳を振り絞った最後にして最大の威令となって空間を支配した。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
直後、大広間全体を揺るがす激震が走り、シュデルの咆哮さえも力技で掻き消すほどの暴力的な轟音が爆発した。
広大な大広間は、すべて巨大な岩の槍が埋め尽くした。槍は床を突き破り、天井へ向けて爆発的な速度で噴出したのだ。
それはもはや「槍」と呼ぶには巨大すぎ、数も多すぎた。数千、数万という岩のモノリスが、床の大理石を粉々に粉砕しながら垂直に隆起する。それらは真っ向から天井を突き破り、白亜の天井板に無数の風穴を無慈悲に穿っていった。
本来ならば、これほどの質量が天井を貫けば屋敷全体がその重みに耐えきれず、一瞬で瓦解し、崩落するはずであった。しかし、夥しい数の岩の槍は、互いに押し合い、高密度で密着し合いながら天井を支える強固な「支柱」へとその役割を変容させていた。歪な石の森が、死を撒き散らしながらも空間の構造を無理やり維持するという、極限の創術の精緻さがそこにはあった。
唯一、槍が展開されなかったシュデルの真上の空間だけが、支えを失って巨大な大理石の破片や瓦礫を雨のように降らせてくる。だが、シュデルはそれさえも冷徹に予見していた。彼は一歩も動くことなく、自身の頭上に強固な「土の傘」を瞬時に展開する。
ズガガガッ、と鈍い音を立てて降り注ぐ瓦礫。
シュデルはその傘の下で、土埃にまみれ、月光さえ遮られた暗澹たる石の森を見据えていた。
かつて豪華絢爛な舞踏会を催し、栄華を誇った大広間は、今や冷たく無機質な岩の牢獄へと作り変えられた。突き立った無数の槍の隙間からは、辛うじて差し込む月明かりが、宙に舞う濃密な粉塵を青白く照らし出し、幻想的ですらある地獄絵図を描き出していた。
かつては月光を優雅に照り返していた最高級の大理石の床は、地中から噴出した無骨な岩の森によって、無惨にも塗り潰されている。
高密度に密着し、空間の隙間さえ許さぬほどに屹立する石柱の群れは、いまや侵入者を拒む土の要塞へと成り果てていた。
シュデルが放ったこの創術は、初撃に見せた「岩の波」とはその本質からして異なっている。
初撃の術が、獲物という「点」を狙い澄まし、確実に仕留めるための精度を追求した刃であったとするならば、この術は「空間」そのものを抹殺することを目的とした広域殲滅型だ。槍の数は数十倍、範囲は広範。槍一本一本の緻密なコントロールを犠牲にする代わりに、その空間に存在する物質すべてを刺し貫き、圧殺し、塵一つ残さず消し去る。まさに規格外の創術であった。
この死の進路に立ち、逃げ場を失ったタシュアが生きていられる可能性など、万に一つもあり得ない。
唯一の懸念であった「術の発動前の脱出」も、あらかじめ施した土壁の封印によって完全に封じている。硬化術を施したあの壁を、一瞬で破る術など存在するはずがなかった。
ーー……これで、終わった。
シュデルがそう確信し、冷たい汗を拭おうとした、その時。
「——ねえ、これで僕を殺せると思った?」
!!??
シュデルの背筋を、氷を突き立てられたような戦慄が駆け抜けた。
聞こえてきたのは、己を護る土壁の「外側」から。死んだはずの、悪魔の声。その声音は、命のやり取りをしている最中だというのにあまりにも軽やかで、滑稽な道化を憐れむような響きを帯びていた。
シュデルは驚愕に目を見開きながらも、即座に術式を操作した。背後の壁を強制解除し、弾かれたように跳躍する。万一のために残しておいた十メートルのスペースへ。できれば、その保険が使われないことを願っていたが、現実はどこまでも無慈悲だった。
着地と同時に、シュデルは己を護る土壁越しに、戦慄を隠せぬ鋭い眼光を正面へと向けた。
ズガアアアアンッ!!
直後、タシュアとシュデルを隔てていた巨大な岩の槍の山が、内側から爆ぜるような轟音を立てて粉々に砕け散った。舞い上がる濃密な粉塵。四方八方へと、散弾のような勢いで岩片が降り注ぐ。シュデルは再び重層的な土壁を展開して身を護り、沈黙が訪れるのを待った。
やがて岩片が降り止み、粉塵のカーテンが青白い月光に洗われて薄らいでいく。
その向こう側から、すでに「悪夢」そのものへと変貌を遂げたタシュアが、ゆっくりと姿を現した。
両眼に不気味な青紫の光を宿し、邪悪な笑みを口元に歪める少年。
大柄ではなく、かといって華奢すぎもしないその身体には、土埃さえもついていない。特定の空間にある全物体を穿ち、消し飛ばすはずの術をまともに浴びたはずなのに、その衣類には一筋の裂傷すら見当たらなかった。物理の理すら嘲笑うその姿に、シュデルの心臓は早鐘を打つ。
「如何にして渾身の術を回避した!? ……って顔をしてるね、父様」
「————」
タシュアが皮肉たっぷりに驚いた声真似をして見せるが、シュデルは返す言葉を持たなかった。回避不能の「面」の攻撃。それをどうやって、塵一つ纏わぬまま凌いだというのか。
「教えてあげてもいいんだけどなぁ。……でも、まだダメだよ。あんたには、もっと深い絶望をプレゼントしなきゃいけないからね」
タシュアは愉悦に目を細めると、くすくすと壊れた時計のような笑い声を漏らした。
「さっき僕が術を失敗したように見えただろ? ……残念、あれは演技だよ。僕はね、母様が逃げたあの進路に、あらかじめ術式を『置いて』おいたんだ。あんたが派手に岩をぶち上げて僕を殺そうとしている間に、向こうでは既に、最高に綺麗な『作品』が完成しているよ」
「……何だと?」
「母様はもう、絶命してる。あんたが放ったのと同じ、鋭い土槍に貫かれてね」
「嘘を吐くなぁぁぁッ!!」
シュデルの怒号が大広間を震わせた。
「あり得ん……術式をあらかじめ空間に設置し、遅延発動させるなど、極限の集中力と緻密な創力制御が必要な高等技術だ。病床に臥していた貴様に、そんな真似ができるはずがない!」
「ふふ、そんなに僕を過小評価しないでよ。……じゃあ、自分の目で確かめてみなよ。証拠はそこにあるんだから」
タシュアは、まるで観客の拍手に応える名優のような、あるいは獲物の末路を確信した捕食者のような、残酷なほどに美しい嘲笑を浮かべた。
彼は音もなく背を向け、悠然とした、どこか躍るような足取りで、タミラが逃走を図ったはずの大広間の奥へと退がっていく。
シュデルは、その背中に罠の存在を直感し、強烈な警戒心を抱きながらも、その足を止めることはできなかった。
最愛の妻の安否、そして目の前の怪物が吐いた不吉な言葉の真偽を確かめねば、彼の理性が崩壊してしまうからだ。崩れ落ちた岩片の山を乗り越え、立ち込める土煙を切り裂いた先――シュデルの視界に、それは唐突に、そしてあまりにも鮮烈に姿を現した。
「…………ああ……、ぁ……」
絶句。肺から空気がすべて叩き出されたような、絞り出すような喘ぎがシュデルの口から漏れる。
そこには、出口へ向かって必死に手を伸ばした姿勢のまま、物言わぬ肉塊へと成り果てたタミラがいた。床の大理石を凄まじい勢いで突き破った太い土槍が、彼女の背後から心臓を、寸分の狂いもなく正確に射抜いている。彼女が纏っていた純白の寝巻は、噴き出した鮮血によって見るも無残な深紅に染まり、月光の下でどす黒く光っていた。苦痛を感じる暇さえなかったのか、その瞳は驚愕に見開かれたまま、凍りついている。
「あはははは! 最高だ、その顔! まるで世界の終わりでも目の当たりにしたような、その絶望に染まったマヌケな顔! 期待以上だよ、父さん!!」
背後から、タシュアの狂った哄笑が、冷え切った大広間に吸い込まれていく。その笑い声は、シュデルの耳の奥に突き刺さり、彼の正気を真っ赤な激情へと塗り替えた。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁッ!! よくも、よくもタミラをォッ!!」
シュデルは、家門の誇りも理性の均衡もすべてかなぐり捨て、創力を暴走させた。足元の床が激しく震え、タシュアを千々に引き裂くための新たな土槍が構築されようとする。だが、その術式が完成し、事象として結実するよりも、タシュアの指先が動く方が遥かに速かった。
ズドォォッ!!
「……ガハッ!?」
地響きとともに、シュデルの真下から一本の鋭利な土槍が隆起した。それは、身を護る間さえ与えず、彼の腹部を深々と貫通する。シュデルの肉体は無慈悲に跳ね上げられ、血を滴らせながら宙へと吊るし上げられた。
「——残念。そこにも、さっきから『置いて』おいたんだよ。父様と会う前、他の皆を殺した時ーーつまり最初からね」
タシュアは、激しく吐血し、身悶えする父を見上げ、その瞳を冷ややかに細めた。わざと急所は外してある。脊椎を避け、主要な臓器をかすめる程度に。死なせず、逃がさず、ただ生きたままその身を焼くような激痛だけを永劫に味わわせるための、計算し尽くされた殺意の配置。
「……ぐ、お……っ、……貴様、のような……、化け物、に……っ!!」
シュデルは腹を貫かれ、四肢を震わせながらも、まだその精神を折ってはいなかった。
口の端からドロリと溢れる鮮血を撒き散らし、タシュアを呪い殺さんとする憎悪に満ちた眼光で、息子であったはずの怪物を激しく睨みつける。
その瞳の奥底には、まだイーライグ家当主としての、そして創術師としての、執念深い誇りが消えぬ火のように灯っていた。
「いいね、父様。その目だ。死にかけてもなお、僕をゴミのように見下そうとするその傲慢な輝き。……そうでなきゃ、壊し甲斐がない」
タシュアが、愛おしい玩具を愛でるような手つきで指先を振る。
刹那、不可視の鋭利な刃が走り、宙に浮くシュデルの右腕を肘から先へ、一瞬で、鮮やかに切断した。
「ア、ガァァァァァァァァァァッ!!!」
シュデルの喉が裂けんばかりの絶叫が大広間を震わせる。噴き出す鮮血。だが、彼は残された左手で自身の太腿を、指が食い込むほどに強く握り、凄まじい精神力でその意識を繋ぎ止めた。
脂汗を流し、激痛で顔を歪ませながらも、なおもタシュアを射抜くような憎悪の視線を逸らさない。
「《治癒術》……ほら、止血はしてあげたよ。まだ、死なせるわけにはいかないから」
タシュアが手をかざすと、不気味な緑色の光が切断面を包み、瞬時に肉を塞ぎ、止血を完了させる。
次にタシュアは、シュデルの左腕に掌を向け、その温度を奪い去った。
「次は炎だね。こっちの方が、神経に響くよ」
ゴォォッと、音を立てて噴き出した青白い炎が、シュデルの左腕を包み込む。肉が焼け焦げる嫌な臭いが立ち込め、骨まで焦がす熱量がシュデルの精神を蹂躙した。
絶叫はもはや声にならず、ただの喘ぎへと変わる。 だが、タシュアは再び治癒術を施し、その腕を「再生」させた。
斬っては治し、焼いては治し、また別の箇所を砕いては繋ぐ。
タシュアの《死眼》は、シュデルの体内を流れる創力の血流も、神経の反応速度も、痛みの閾値さえも、すべてを無機質な「数値」として捉えていた。
意識が飛ぶ寸前で最大級の苦痛を与え、回復の光でその痛覚を再び鋭敏に研ぎ澄ませる。
それは、医学的に完璧に管理された、終わりなき冒涜の輪舞であった。
十数回目か、あるいは数十回目か。
繰り返される死以上の苦悶と、強制的な蘇生。
シュデルを支えていた「怒り」という名の燃料は、激痛の果てしない津波に磨り潰され、蒸発していった。
当主としての矜持、一族に息子や娘、タミラを奪われた悲しみ、復讐の念――それらすべてが、ただ「痛みを止めてほしい」という、獣のような生存本能に塗りつぶされていく。
ついに、シュデルの瞳から、タシュアを射抜いていたあの鋭い光が消失した。
焦点は定まらず、瞳孔は恐怖に支配されて激しく泳いでいる。
かつての堂々たる体躯は、今はただ一本の槍に吊るされた、震えるだけの惨めな「肉」へと成り果てていた。
「……ゃ、めて……くれ……。もぅ……っ、やめて、くれ……。タシュア……」
カサついた、乾いた声が、シュデルの震える唇から漏れ出た。
もはや、そこにはイーライグ当主の威厳など微塵も、欠片も残っていない。
「頼む……殺して……っ、頼むからもう殺してくれ……タシュア……助けて、くれ……っ! お前の言う通りにする……家も、爵位も、すべてお前にやる……だから……頼む、頼むから、もう許してくれ……っ!!」
涙と鼻水に塗れ、身体を無様に痙攣させながら、己を貫く槍の上で情けなく命乞いをする男。
かつて自分が「廃棄物」と呼び、冷酷に見捨てた息子に対し、その男は今、魂を売り払って這いつくばっていた。
それをしばらく、冷え切った好奇心で見守っていたタシュアだったが。
不意に、その表情から熱が、狂気さえもがすうっと消えた。
「……つまんない」
冷たく、乾いた声が大広間に落とされた。
タシュアにとって、かつて超えるべき壁であり、憎悪の象徴であった「父」が、これほどまでに脆く、底の浅い生き物へと成り下がった。
その瞬間に、この復讐という名の「遊戯」は急速にその鮮度を失い、無価値なゴミへと成り果てたのだ。
「もういいや。あんたの価値は、その汚い死に顔だけだ。……それさえ、もう飽きちゃったけど」
タシュアが両手を広げる。その仕草には、もはや怒りも愉悦も宿っていない。
ただ、不要なものを処分する際のような、ひどく事務的な冷たさだけがあった。
その最期に贈るには、あまりにも慈悲がなく、空虚な「飽きた」という宣告。
タシュアの両手から放たれた灼熱の渦は、単なる炎ではなく、対象を分子レベルで情報の根源から崩壊させる悪魔の術式であった。
ゴオオオオオオオオォォッ!!!
空気が膨張し、咆哮を上げる。青白い熱波に包まれたシュデルの肉体は、人の身が耐えられる限界を遥か彼方へと飛び越えた。視界は白一色に染まり、喉の奥から上がろうとした最後の悲鳴は、声帯が炭化するよりも早く熱風に飲み込まれ、霧散した。
内側から細胞のひとつひとつが弾け、燃え尽きていく。
かつて最強の創術師として、この国の頂の一角を担ったシュデル・フィン・イーライグ。その肉体は、たった数秒の静寂の後、もはや生物であった痕跡すら留めない「黒い残骸」へと成り果てた。
ドサッ……。
無機質な音が床に響く。そこには、かつての威厳も、無様な命乞いの残響もない。ただ、くすぶる黒煙を上げる炭の塊が転がっているだけだった。
「あはは……あはははは! あはははははははははは!!」
月光の下、タシュアは高らかに嗤った。親を殺し、家を滅ぼし、自らのルーツを灰にした少年の哄笑が、冷酷なまでに澄み渡った大広間に吸い込まれていく。 その笑い声には復讐を終えた安堵などなく、ただ壊れきった精神から溢れ出した狂気と、底知れない愉悦だけが渦巻いていた。
周囲は地獄の縮図だ。自ら仕掛けた術式で貫かれた母タミラ。炭と化した父シュデル。バラバラに引き裂かれた弟妹たちや同胞達の肉片が、瓦礫の山を赤く塗り潰している。
イーライグという名の檻は、今、自らの内側から産まれた悪魔の手によって粉砕された。
「……ふう」
ひとしきり嗤ったタシュアは、ふっと笑みを消した。青紫色の瞳に宿る光は、すでにこの死体安置所には向いていない。
「……さあ、行こうか。クレイグ。君を迎えに行くよ」
その独り言は、驚くほど穏やかで、かつての少年らしい純粋さを孕んでいた。だがその純粋さこそが、彼の持つ最も深い狂気である。
タシュアは一度も後ろを振り返ることなく、歩き出した。背後では、歴史あるイーライグ本邸が、紅蓮の炎に包まれながら崩落を始めている。夜空へと舞い上がる火の粉は、まるで滅びた一族の慟哭のようであった。
燃え盛る屋敷を一顧だにせず、タシュアは夜の闇の中へと消えていく。彼の向かう先には、唯一の「親友」が待っている。この美しくも残酷な世界で、唯一彼が壊さず、独占し、共に歩むと決めた光。
イフィラ王国の月は、なおも冷たく、少年の進む血塗られた道を青白く照らし続けていた。




