タシュアの過去② 狂気の報復
それは、天に浮かぶ月さえもがこの惨劇を予見し、あらかじめ血の気を失ったかのような——不気味なほどに冷たく、澄み渡った満月の夜の出来事だった。
天空の真ん中に鎮座する銀輪は、地上の喧騒を拒絶するような静寂を湛え、広大な要塞都市「イフィルド」の居住区を、そしてそこに建つ荘厳なるイーライグ家の本邸を、慈悲のない青白い光で剥き出しにしていた。草木も、番犬も、そしてこの屋敷を守るべく配された手練れの護衛たちさえもが、抗えぬ深い眠りの淵へと沈み込んでいる。
その静まり返った廊下を、一人の青年が歩いていた。
足音はない。床の軋みさえない。まるで現世の物理法則から切り離されたかのような、優雅で、それでいてどこか「壊れた」印象を与える、踊るような足取り。青年の名はタシュア・イーライグ。
彼の顔を覆っていた忌まわしい包帯は、今はもうない。代わりに剥き出しにされた両の瞳には、かつての純粋な輝きを焼き尽くし、再構築された禍々しい「青紫色」の光が宿っていた。その瞳——《死眼病》が突然変異を遂げた究極の観測器は、暗闇を透かし見るだけでなく、この世界の「理」そのものを剥き出しのデータとして視覚化していた。
屋敷の者は誰も気づかない。否、気づくことさえ許されない。
タシュアは、護衛たちの視線の死角、創力感知の網の結び目、そして人々の意識が「空白」になる瞬間をその瞳で正確に視て、その隙間を縫うように歩を進めていた。誰にも認識されていない、存在しないも同然の自由。彼は己の透明性を楽しむかのように、口元を三日月型に深く、鋭く歪めた。その笑みは、若い青年のものにしてはあまりに酷薄で、愉悦を限界まで煮詰めたような毒々しさを孕んでいる。
やがて、青年はある扉の前で不意に立ち止まった。
そこは、誰よりも残酷に彼を嘲笑った「末の弟」の部屋だった。
重厚な木製の扉を見つめるタシュアの瞳には、尋常ならざる密度の殺意と狂気が渦巻いている。情報の奔流が、脳内で弟の無防備な寝顔や、その脆弱な喉の構造、そしてそこを切り裂いた際の流れ出す血液の量までもを瞬時に演算し、確定させていく。
「……ふ、ふふ……」
悪魔が嗤った。
それは、精緻に組み上げられた時計仕掛けが致命的な欠損をきたし、不規則な音を立てて回り続けるような、壊れた機械の笑い声だった。
彼は理解していた。
これから自分が成すことが、どれほど道徳を逸脱し、どれほど残忍で、救いのない惨劇であるかを。
父を、母を、幼い弟妹たちを、自らの手で「消去」するということが、どれほどの血の海を築くことになるかを。
ーーそしてそれがかつて夢想した夢とはあまりにもかけ離れた真逆の所業だということを。
だが、彼は歓喜に震えていた。
絶望という名の闇に塗りつぶされた青年の心にとって、その惨劇こそが唯一の解放であり、自分を棄てた世界への正当なる報復であった。
狂気に染まった青紫の双眸が、月光を反射して冷たく輝く。
タシュアは、愛おしい玩具に触れるかのような手つきで、ゆっくりと、音もなく扉の取っ手に手をかけた。
復讐という名の幕が、今、静かに、そしてあまりに残酷に上がろうとしていた。
***
「……何が! 一体全体、何が起こっているんだ!!!」
現イーライグ家当主、シュデル・フィン・イーライグは、五十代という年齢を微塵も感じさせない若々しく端正な容貌を、今は底知れぬ絶望と焦燥に激しく染め上げていた。常に揺るぎない自信に満ち溢れていたその額には、厭な粘り気を帯びた汗が滲んでいる。
ーー侵入者か? だが、どうやってこの『イフィルド』へ紛れ込んだ……!
手練れの工作員であれば、外の番犬共を始末することは不可能ではないかもしれない。だが、どうしても納得がいかないのは、凄惨な戦闘音はおろか、創術を行使した際の創力残滓すら、屋敷のどこからも一切感知できないことだ。
外周を固めるのは、王族を護衛するレベルにまで鍛え上げられた精鋭中の精鋭が数十名。百歩譲ってそれらすべてが屠られたのだとしても、何の抵抗も、何の報せもできずに皆殺しにされるなど、この国の理としてあり得るはずがなかった。
シュデルは、つい数分前に己の目で確認してしまった「地獄」を思い出し、せり上がってくる胃液を必死に飲み込んだ。
彼と妻タミラが眠っていた階下の個室——愛すべき息子や娘たちがいたはずの聖域は、もはや人の住まう部屋ですらなかった。
そこにあったのは、もはや原型を留めぬほどにバラバラに解体され、壁という壁を深紅の塗料で塗り潰した肉と骨の残骸だった。
子供たちは、悲鳴を上げる暇さえ与えられなかったのか。あるいは、声帯を真っ先に断たれたのか。四肢は不自然な方向に引き裂かれ、臓物はシャンデリアから無残に滴り、床には踏み場もないほどに肉片が散乱していた。
これほどまで派手に、これほどまで暴力的に肉体を損壊させれば、本来ならば絶叫が、骨を砕く鈍い音が、そして凄まじい血の匂いが屋敷中に充満するはずだ。
それなのに。
シュデルの寝室には、一筋の物音さえ届かなかった。扉一つ隔てた先で「それ」が行われていたにもかかわらず、死の静寂は保たれ続けていたのだ。
ーー馬鹿な……。これほどの惨劇を、どうやって『隠し通した』!?
この強固な警備をことごとく無力化し、内側から食い破るなど。
「イフィルド」の厳格な統制と、二十四時間交代の結界維持。国家にとって最重要の「駒」を輩出するための、鉄壁の防陣。それが、濡れた紙細工のようにあっけなく突破され、芸術的なまでに残酷な解体現場へと作り変えられた事実に、シュデルの理性は崩壊の一途をたどっていた。
血を飛び散らせ、骨を砕きながら、それでいて誰一人として目覚めさせぬ。その矛盾した神業、あるいは悪魔の所業。侵入者は、この屋敷の構造を、そして「理」そのものを、支配しているとしか思えない。
「…………」
隣を駆ける妻、タミラ・フィン・イーライグもまた、蒼白な顔面を絶望に歪め、ただ無言で走り続けていた。
雪のように白い肌は、病的なまでに生気を失い、極度の混乱で瞳の焦点は定まっていない。
我が子らがモノのように引き裂かれた光景。その地獄を網膜に焼き付けながらも、二人は生存を、あるいは「それ」を成した怪物の正体を確かめるべく、大広間へと通じる階段を死に物狂いで駆け降りた。
荘厳な装飾が施された螺旋階段を下りるたび、鼻を突く血の匂いだけが、音もなく濃密になっていく。
シュデルの背筋を、冷たい氷の指が這い上がるような戦慄が駆け抜けた。
この先に待っているのは、正体不明の暗殺者か、あるいは——。
崩れ去った鉄壁のプライドと、沈黙の内に繰り広げられたあまりに凄惨な殺戮。
その理解不能な現実が、イーライグ家の終わりを告げる弔鐘のように、シュデルの鼓膜を打ち鳴らしていた。
***
見慣れたはずの荘厳な装飾が、今は冥府の入り口のように不気味に沈んでいる。
かつてはイーライグ一族の権威を象徴していた白亜の柱や金色の彫刻は、差し込む月光に洗われて冷たく、無機質な墓標の列へと成り果てていた。
頭上を見上げれば、十数メートルはある暗澹とした天井が、塗りつぶされた夜空のように重くのしかかる。その巨大な虚無は、逃げ場を失った二人を冷酷に取り残し、ただ沈黙を強いていた。
「待て……何故……何故お前がここにいる!?」
「何で……何でなの!? 何であなたが……」
シュデルの裏返った咆哮と、タミラの甲高い悲鳴が大広間の隅々にまで木霊し、重苦しい空気を震わせる。震える手で剣の柄を握るシュデルと、腰を抜かさんばかりに崩れるタミラ。
二人の視線の先に立つのは、数刻前まで絶望の淵で死を待つだけだと思っていた「廃棄物」であった。
そして――
「こんばんは父様、母様。今宵は最高の夜だね」
悪魔の応えが、どこまでも透き通った声で、冷たく返された。
少年は、背後に死の深淵を背負いながら、一歩前へ踏み出す。
「早速だけど死んでくれるかな?」
月光を浴びたその双眸が、妖しくも不気味な青紫の異彩を放つ。《死眼病》によってもたらされたその光は、もはや情報を処理できずに破綻した病者のそれではない。世界の構造を、因果を、そして生命の急所を余すことなく捉え、支配する超越者の眼光だった。
狂った笑みを浮かべ、タシュア・イーライグは獲物を追い詰めた獣のように、愉悦を込めて言い放った。
「「なっ!!??」」
実の息子の口から、慈悲もなく飛び出した「死の宣告」。二人は先ほど以上の驚愕に射抜かれ、今度こそ言葉を失う。脳裏をよぎるのは、共に過ごした幸福な記憶などではなく、目の前の「怪物」を虐げ、都合よく捨て去ろうとした冷酷な計算の日々だ。
タシュアはその滑稽な様子を、微動だにせず凝視していた。待ち焦がれていた瞬間。積み上げてきた憎悪が報われる至高の時。彼はそれを一滴もこぼさぬよう享受するように、満面の笑みを深めた。
「そうだその表情だ!その表情が見たかったんだよ!その絶望に歪み、世界の終わりを見るような滑稽な表情!あー、最高最高最高最高最高最高!!!本当に今宵は最高の夜じゃないか!僕の人生史上最高の夜だよ。僕は全てから解放されたのさ!父様と母様が僕を操り人形に仕立てていた糸はもうとっくに引き千切れている!もう僕は父様と母様の思い通りに動く手駒なんかじゃない!今まではあんたらの思い通りに動いてやったが今は違うんだ!あんたらの指図通りになんてならない!あんたらが積み上げてきた全てを僕がぶち壊してあげるよ!!!ああ、ああああ実に、実に実に実に実に実に素晴らしい夜だよ!!!」
胸中に秘めた底無しの闇が、爆発的な感情となって満月に照らされた広間に響き渡る。その叫びを聞いたシュデルの思考は、皮肉にも、当主としての冷徹な義務感によって瞬時に凍りついた。最悪の、そして唯一の結論が、喉の奥から絞り出される。
「この異常者が!!! お前が屋敷の者達を手に掛けたのか! この役立たずの穀潰しが! 処分せずに置いてやったというのに調子付きやがって!!!」
「なんで……なんでこうなるのよ……。あなたはもう私の息子なんかじゃない! ただの悪魔よ!!!」
内側から、食い破られたのだ。どれほど硬い皮膚を持つ獣でも、内側に潜んだ病原菌や寄生虫といった侵食には抗えない。
鉄壁の警備の謎は解けた。かつてイーライグ家最大の「期待」であったその才覚が、今や牙となって喉元に突き立てられている。だが、別の謎が残る。
何故、《死眼病》に侵されたタシュアが、これほど自由に動けるのか。
本来ならば、目を開けることすら苦痛のはずの脳が、何故この惨劇を完璧に制御できているのか。
焦りと恐怖で冷静さを失った二人の内心を、タシュアは透かし見るように嘲笑う。
「ふふ、ふふふふふふ、そっちから縁を切るなんて言ってくれてありがとうございます父様、母様。でもね、そっちが言いだす前から僕はもうあなた達のことを父と母なんて思ってない。むしろ、勝手に親面しないで欲しいね。僕は知ってるんだよ?誰が自分を奴隷商人に売ろうとする親を親と思う?白々しいにも程があり過ぎてもう笑っちゃうくらいだね。いつから道化に成り下がったんですか?それ全部含めて精査して何故、あんた達が言う『悪魔』が生まれたのかよく考えてみてよ」
正論という名の刃を突き立て、タシュアは慈悲を一切排除し、二人を精神の淵まで追い詰めていく。
復讐とは、ただ肉体の息の根を止めることではない。
彼らが守りたかった名誉を、築き上げてきた人生の誇りを、完膚なきまでに叩き潰し、汚泥に塗れさせることから始まるのだ。
「…………」
タミラは返す言葉もなく、ただ自分たちが生み出した「業」に目を伏せる。
だが、シュデルは違った。彼はこの絶望的な状況にあってなお、一族の長としての傲慢なプライドを殺意へと変換した。
「黙れこの悪魔が! 堕ちるところまで堕ちたお前の言葉など誰が耳を傾けてやるものか! お前はここで俺が殺す! 己の所業の罪をその身で贖え!」
瞳に憎悪を宿し、かつて息子だった「怪物」へと鋭い殺意を迸らせる。
タミラもまた、悲しみを捨て、守るべき矜持のために凛と前を見据えた。二人の手に、創力の光が灯る。
その激情、その足掻きを、正面から浴びて、タシュアは沈痛な表情を――
「はははははは、いいねいいさいいよ!そうこないと殺し甲斐がない!そうやって無駄に無為に無意味に無謀に足掻いて足掻いて足掻いて足掻いて足掻いて足掻いてその末に絶望してもらった方が最高だからね!!!最期には本当にこの世の絶望を全部、全てを詰め込んだような最高の死に顔を僕へのプレゼントとして欲しいなぁ。ああああ、他の奴らの死に顔も最高だったけどあいつらの死に顔は前菜のようなもんだよ。あんたらの死に顔は正にメインディッシュ!!!さぁさぁ、さぁさぁさぁ早く見せてよ。あんたらの絶望迸る死に顔を!!!」
少しも歪めることなく、ただ不気味に、愉しげに嗤った。哀しみなど一滴もなく、ただ親の死に様を「料理」として心待ちにするその姿。
壊れている。狂っている。
タシュアの様態に、二人は本能的な恐怖を刻み込まれた。冷酷な軍事貴族として生きてきた彼らですら、これほどまでの純粋な「悪意」を前にしては足が竦む。脳の突然変異は、もはや彼を人間という倫理の枠組みから完全に解き放っていた。
だが、そんな悪魔の心の最奥、情報の奔流のさらに奥底に、たった一つ、消えずに残る澱があった。すべてを憎み、すべてを壊すと誓った絶望の底で、彼を辛うじて繋ぎ止めていた、唯一の親友。
――……クレイグ……待っててね。こいつらを始末して、君も『一族』という牢獄から解放してあげるから。
狂気の仮面の下で、親友への歪な、しかし純粋な執着を呟く。タシュアは口元を酷薄に歪め、死の舞踏の始まりを告げるように、指先をしなやかに動かした。
「さて、それじゃあさっさと始めようか」




