タシュアの過去① 悪魔が生まれた時
イフィラ王国において、その二人の名は単なる貴族の嫡男という枠を超え、輝ける「次代の象徴」そのものとして語られていた。
大陸の要衝に位置するこの国を支える二大巨頭、イーライグ家とフィローレ家。古くから鉄の結束で結ばれ、国の軍事と政治の双璧を成してきた両家に、ほぼ同時期に生を受けたのがタシュアとクレイグである。彼らが互いを認識したのは、言葉を覚えるよりも、あるいは己の家名を自覚するよりも早かった。広大なイーライグ邸の庭園に咲き誇る四季折々の花々の中を、二人は影のように寄り添い、時には競い合うようにして駆け回る幼少期を過ごした。
六歳。凡庸な子供たちがようやく文字を綴り、貴族としての基礎を学び始めるその年齢で、二人の英才教育は本格的な幕を開ける。
しかし、室内での退屈な礼儀作法や、埃を被った歴史書の朗読、あるいは複雑怪奇な法学の講義において、二人は揃って「問題児」の烙印を押されることとなった。家庭教師が滔々と語る背後で、どちらが先に欠伸を噛み殺せるかを競い、時には窓の外を飛ぶ鳥を眺めては白昼夢に耽る。その奔放な振る舞いに、一族の長老たちは「血の凋落か」と密かに眉をひそめたこともあった。
だが、ひとたび「創術」の訓練場に足を踏み入れれば、評価の天秤は劇的なまでに跳ね上がった。
自身の内なる「創力」を練り上げ、脳内のイメージを物理的な事象へと変換する。その一連の工程において、彼らは常軌を逸した精度を見せつけた。
紡ぎ出される術式の幾何学模様は、熟練の魔導師すら息を呑むほどに美しく、創力の流動には一切の澱みがない。何より、それを現実の破壊力や事象へと昇華させる速度が異常であった。
わずか一年。教育が始まってからたったそれだけの期間で、彼らはイフィラの末端兵士を、経験も筋力も無視して遥か彼方へと置き去りにする領域へ到達したのである。
それは、天から与えられた「才能」という言葉だけで片付けられるものではなかった。
「昨日の自分より、あいつより、一歩でも先へ」
夜の静寂を切り裂くような深夜の素振り、指先から血が滲むまで繰り返される術式の構築。互いを唯一無二の鏡とし、火花を散らすような切磋琢磨。その熾烈な競争心こそが、二人の進化を加速させる何よりの触媒となっていた。
折しも時代は、乱世の影が色濃く世界を覆い始めていた。
イフィラの国境付近では小競り合いが絶えず、イーライグ家やフィローレ家が派兵した家臣たちが、次々と「物言わぬ骸」となって邸宅へと帰還する日々が続いた。
荘厳な大広間に響き渡る、戦死者の遺族が上げる魂を削り取るような悲鳴。夫を、父を、息子を喪った者たちが流す血の涙。
それらを廊下の影から見つめていた二人の幼き天才は、言葉にならない戦慄とともに、同じ夢、同じ祈りを共有した。
彼らの両親や一族の大人たちにとって、末端の兵の命など、家名の品位と領土を保つための「消耗品」にすぎなかった。チェスの駒が盤上から消える程度の、事務的な損害報告。
だが、タシュアとクレイグにとって、それはあまりに重く、あまりに無残な現実であった。
「国も家族も、全部護れるような、めちゃくちゃ凄い大将軍になろう!」
それは子供特有の無邪気な夢想ではなかった。
「誰も死なせない。俺たちの手で、この不条理な悲しみを終わらせる」
そのあまりに純粋で、あまりに高潔な正義感。それこそが、彼らの創力を、限界の壁を突破してさらなる高みへと押し上げる最強の原動力となっていたのだ。
月日は流れ、二人は青年へと成長を遂げた。
タシュアとクレイグは、今やそれぞれの家門を実質的に支える中核の騎士として、あるいはその武勇と知略で国内外に名を馳せる英雄候補として、正に人生の絶頂にいた。
将来を約束された生家の当主としての地位、民からの熱狂的な支持。そして、それぞれの隣には美しく、慈愛に満ちた婚約者たちの存在があった。これ以上ないほどに順風満帆な、誰もが羨む輝かしい未来。イフィラの夜明けは、この二人の手によってもたらされるのだと、国民の誰もが疑わなかった。
だが、残酷な運命の指先は、不気味な静寂とともにタシュアの背後に忍び寄っていた。
美しく、しかし底知れない闇を孕んだ静寂。それは、彼らが築き上げてきたすべてを、一瞬にして瓦解させる「終わり」の始まりであった。
幸せの絶頂という断崖絶壁で、タシュアの視界を、そして彼らの運命を塗り替える「異変」が、産声を上げようとしていた。
《死眼病》あるいは《紫蝕病》——それは、イフィラの長い歴史の中でも数例しか記録にない、美しくも無慈悲な終焉の徴である。
ある日、何の前触れもなく、愛を囁くはずの瞳、あるいは未来を見据えるはずの瞳が、深淵のような不気味な青紫色へと変色する。それが「終わり」の産声だ。この病に侵された者の視界は、単なる視覚情報の域を絶望的なまでに踏み越え、世界のすべてを強制的に「解体」し、剥き出しにする呪いへと変貌する。
足元に転がる一粒の石くれを視れば、それが数千年前のどの地層で産まれ、どのような鉱物成分が結合し、いかなる地殻変動を経てこの場所へと辿り着いたのか、その数奇な歴史のすべてが暴力的な情報となって脳へと叩き込まれる。頬を撫でる風が吹けば、大気に含まれる窒素や酸素の正確な比率、一立方センチメートルあたりの気圧の推移、さらにはその風が数キロメートル先でどのような因果を巻き起こすかという演算結果までもが、本人の意志を無視して網膜の裏側に焼き付けられる。
一見すれば、万物の理を掌握する神の如き権能に思えるかもしれない。しかし、その実態は「人間」という矮小な器を内側から破壊するための毒に他ならない。
本来、人間の脳という精緻な器は、不必要な記憶を「忘却」というフィルターにかけることで容量を整理し、自我の恒常性を維持するようにできている。短時間に詰め込まれる膨大すぎる情報を脳が処理しきれなくなった際、人は忘れることでオーバーヒートを免れ、精神の崩壊を防ぐのだ。
だが、《死眼病》に侵された者には、その「忘却」という名の救いがない。
一秒ごとに数万、数十万ページ分に相当する情報の津波が、整理されることなく、淀むことなく、猛り狂う濁流となって脳細胞を蹂躙し、焼き尽くしていく。過去の罹患者たちは皆、発症して最初に眼を開けた刹那、あまりに巨大すぎる情報の質量に脳が耐えきれず、絶叫と共に絶命してきた。
だが——イーライグ家の嫡男、タシュアだけは違った。
脳が千切れ飛び、魂が摩り潰されるような筆舌に尽くしがたい激痛の渦中で、彼は情報の奔流に意識を焼かれながらも、奇跡的に「生」の岸辺に踏みとどまったのである。しかし、その奇跡こそが、彼にとって永劫に続く地獄の幕開けとなった。
「あの稀代の天才タシュアなら、この神罰のような病すらねじ伏せてくれるはずだ」
当初、イフィラの民や一族が寄せた期待は、狂気にも似た熱狂を伴っていた。しかし、過酷な現実は甘くはなかった。光を遮断するために両目を厚い包帯で幾重にも覆い、暗澹とした寝室のベッドから起き上がることすら叶わぬ日々。肉体は衰え、かつての覇気は影を潜め、ただ沈黙の中に蹲るだけの生活が数ヶ月、数年と続くと、周囲の熱は急速に冷え切っていった。
やがてその熱狂は、研ぎ澄まされた刃のような「失望」へと姿を変える。
かつて慈愛と誇りに満ちた眼差しを向けていた父や母の瞳は、期待の星から「一族の面汚しである役立たずの穀潰し」を見る蔑みへと凍りついた。
英雄として兄を慕い、その背中を追っていた五人の弟妹たちは、弱り切った捕食対象を見つけた獣のような、残酷で醜悪な顔へと豹変した。果ては長年仕えていた召使いまでもが、主人の顔色を窺う必要がないと悟るや否や、タシュアに供する食事を露骨に疎かにし、耳元で汚物でも見るかのような舌打ちを隠そうともしなくなった。
日に日にエスカレートする罵詈雑言、冷え切った残飯のような食事、そして反撃の術を持たぬ者への理不尽な暴行。ある時などは、絶望の中で喘ぐタシュアの反応を楽しもうとした弟妹たちによって、彼の唯一の防壁である包帯を無理やり剥ぎ取られるという惨劇さえ起きた。
強制的に開かれた瞳から、再び脳へと雪崩れ込む世界情報の奔流。光の速さで神経を焼き、思考を凍結させる情報の暴力。タシュアは泡を吹いて倒れ、再び死の淵を彷徨ったが、その様子を見ていたイーライグ家の中に、同情の涙を流す者も、救いの手を差し伸べる者も、ただの一人も存在しなかった。
輝かしい栄光の頂から、暗澹たる絶望の深淵へ。
タシュアを繋ぎ止めていた人間としての絆は、情報の津波に飲み込まれるよりも早く、身内という名の怪物たちの手によって、無残に引き裂かれていったのである。
——……いつか、身体が治れば、またあの頃のように二人で競い合い、腹の底から笑い合えるはずだ。
氷の檻に閉じ込められたような、地を這う絶望の日々。情報の奔流に焼かれ続ける精神をかろうじて「人間」の側に繋ぎ止めていたのは、唯一の親友であるクレイグの存在に他ならなかった。
クレイグは、一族の誇りを背負う多忙な身でありながら、わずかな合間を縫ってはイーライグ家を覆う冷酷な沈黙を切り裂き、タシュアの病室へと飛び込んできた。彼という光が部屋を照らしている間だけは、普段は獣のようにタシュアを虐げる屋敷の者たちも、その醜い牙を隠し、虐待の手を止めた。
「いいかタシュア、俺たちの夢はまだ終わってねえ。絶対、絶対に治る。俺だけは、何があってもお前の味方だ。たとえイフィラ中の奴らが、いや、世界中の奴らがお前の敵になったとしても、俺が盾になってお前を護り抜いてやる!」
クレイグの語る言葉はいつも明るく、そして火傷しそうなほどに暑苦しい。だが、その愚直なまでの信頼と夢の断片こそが、暗澹たる深淵に沈むタシュアの心に唯一灯る、消え入りそうな灯火だった。
だが、その微かな光さえも、イーライグ家という血脈が抱える底無しの闇は、無慈悲に飲み込もうとしていた。
「……ねえ、聞いた? あの役立たず、ついに売ることに決まったらしいわよ」
「奴隷商人に? まあ、それが妥当な処置よね。家の恥をこれ以上晒し続けるよりは、せめて一族の端金くらいにはなってもらわないと」
扉の向こう、かつては兄と慕ってくれたはずの末の妹たちが、わざとタシュアの耳に届くように楽しげに、残酷な笑みを交わして語り合う。
その言葉が、タシュアの中で張り詰めていた最後の一糸を、あまりにも容易く、完膚なきまでに断ち切った。
信じ、愛していたはずの両親が、自分を息子としてではなく、使い古した「廃棄物」として処分する決断を下したのだ。
これまで孤独に耐えてきた地獄のような時間も、必死に守ろうと縋り付いていた家族の絆も、相手にとっては「価値のない駒」を捨てる際の煩わしい手続きに過ぎなかった。
——僕は、お前たちの所有物じゃない。便利な道具でも、使い捨てのゴミでもないんだ。
——僕を見るな。その蔑んだ目で、汚物を見るようなその目で、僕を見るなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
その夜、身を焼くような絶望が極致に達したとき、タシュアの脳内で「生存」のための劇的な突然変異が引き起こされた。
一度ならず二度までも、脳を物理的に破壊する情報の奔流に晒され続け、死の淵で抗い続けたタシュアの脳細胞。それが極限のストレス下で生存本能と共鳴し、情報の激流を無制限に受け止め、処理し、保持するための「人を超越した器」へと進化したのである。
タシュアは、震える指先で自らの顔を覆い続けてきた厚い包帯を、乱暴に引き千切った。
剥き出しにされた瞳。そこには、かつての純粋な少年の面影など欠片も残っていない。
不気味な青紫の光を宿し、底冷えするような異彩を放つその双眸は、自分を裏切り、虐げ、棄てようとした世界のすべてを、ただ「解体し、破壊すべき無機質なデータ」として冷徹に見据えていた。
「……ごめん、クレイグ。君との約束は、もう果たせそうにない」
口元に刻まれたのは、殺意と狂気を孕んだ、歪な微笑。
彼は窓の外、銀色の月光が降り注ぐ夜の静寂を見つめ、喉の奥から低く、乾いた笑い声を漏らした。
「けど、安心して。君だけは、僕が一緒に連れて行ってあげるから」
闇と沈黙に包まれたイーライグ家の屋敷に、復讐という名の惨劇の幕が上がる音が、静かに響き渡った。
それは、一人の「イフィラを担う天才」タシュア・フィン・イーライグが死に、《紫蝕病》に侵されながらそれを超克した存在、『紫蝕の悪魔』タシュア・イーライグが誕生した瞬間であった。




