イフィルド潜入
左翼での激戦が繰り広げられていた最中、サキルは遥か後方から自らの異能である白銀の右眼の視界を極限まで広げ、風の気流に乗せて敵本陣の動向を克明に観察し続けていた。
乱れ飛ぶ術式や土煙越しに集めた断片的な情報は、サキルの冷徹な思考回路の中で緻密に組み立てられ、やがて一つの揺るぎない確信へと形を変えていた。
ーー……おかしい。今回の反乱の首謀者と言われているクレイグ・レイ・フィローレの姿が、この戦場のどこにも存在しない。
サキルは事前に頭に叩き込んでいた精緻な人相書きの記憶と、右眼が捉える映像を照らし合わせていた。総大将として陣頭指揮を執っていた現当主クロリフィルの姿は、確かに確認できていた。
だが、本来ならばそのクロリフィルと肩を並べ、あるいは背後から全軍のタクトを振るっているはずのクレイグと思しき影は、本陣のどこを探しても見当たらなかったのだ。
決定打となったのは、撤退の合図が鳴り響いた直後の、クロリフィルとタシュアのやり取りだった。クロリフィルの表情に張り付いていた明らかな怒り、屈辱、そして深い絶望。彼がタシュアに対して向けた刃のような敵意と、それを涼しい顔でいなすタシュアの絶対的な優位性。
その力関係の歪みを右眼で捉えた瞬間、サキルの脳内でバラバラだった全てのパズルのピースが、カチリと音を立てて繋がった。
今回の反乱の真の首謀者は、間違いなくあのタシュア・イーライグだ。
そして、本来の首謀者に仕立て上げられたクレイグ・レイ・フィローレは、タシュアによって軟禁、あるいは厳重に監禁されており、クロリフィルは一族の命運を人質に取られたがゆえに、この無謀な『反乱』を引き起こすしかなかったのだ、と。
あくまで仮説に過ぎないが、可能性は高い。
もしその仮説があたっているとするならば、その最重要人物であるクレイグが囚われている場所は、世界中を探しても一箇所しかあり得ない。
フィローレ一族が代々根城とする難攻不落の本拠地——要塞都市イフィルドである。
「調べる価値はありそうだな。」
サキルはそっと呟き、城塞都市イフィルドのある方向へ目を向けた。
***
要塞都市イフィルドは、途方もない厚みを持つ堅牢な外周城壁が四方を囲み、その内側に広がる広大な市街地のさらに中心部を、もう一つの分厚い防壁が囲うという、極めて強固な二重構造を持っていた。
その中心の壁の向こう側に、フィローレ一族が暮らす荘厳な館がそびえ立っている。
サキルが単独で荒野を駆け抜け、イフィルドの城壁外縁に辿り着いた時、折しも敗走してきた反乱軍の数万の軍勢が、地鳴りのような足音を立てて正面の巨大な正門から次々と都市内へと雪崩れ込んでいる最中だった。
大軍を迅速に収容するため、都市全体をドーム状に覆っていた強固な防衛結界は、今この瞬間だけ一時的に解かれている。
サキルは、この千載一遇の隙を決して見逃さなかった。
彼は正門の喧騒や怒号から最も遠い、都市の裏手にあたる切り立った崖に面した城壁へと、影のように音もなく忍び寄る。
ーー……壁上の番兵は二名。一人は欠伸をし、もう一人は正面の喧騒に気を取られている。視線が完全にこちらから逸れるのは、およそ十秒後。
白銀の右眼を微かに光らせ、分厚い石壁の向こう側にいる番兵の呼吸の乱れや視線の動きを正確に読み取ったサキルは、彼らが僅かに気を抜いて雑談を交わしたその一瞬の隙を突き、無音の跳躍を見せた。
風の創術を極限まで精密に練り上げ、自身の足裏の虚空に高密度の不可視の足場を創り出す。
足音一つ、微かな衣擦れの音すら一切立てることなく、サキルは重力という概念を完全に無視したかのように、数十メートルもの垂直に切り立った防壁を滑るように駆け上がる。
そうして誰一人気づかぬ間に易々と都市の内部へと侵入を果たした。
市街地の屋根から屋根へと、夜の闇に溶け込む影のように伝い歩き、中心部にあるフィローレの館を囲う内壁も、同じ要領で難なく飛び越える。
美しく手入れされた館の敷地内に降り立ったサキルは、まず庭園の暗がりを足早に歩いていた一人の使用人の背後に、一陣の夜風のように忍び寄った。
一切の慈悲も躊躇いもなく、その頸椎を鮮やかな手際でへし折って即死させると、物言わぬ死体を鬱蒼とした植え込みの陰に手早く隠し、奪い取った使用人の衣服で素早く自身の変装を整える。
そこからのサキルの行動は、軍師という表の顔を完全に捨て去った、冷徹で無慈悲な潜入工作員そのものだった。
使用人のふりをして盆を持ち、館の豪奢な廊下を静かに歩きながら、白銀の右眼の視界を館全体の構造へと広げていく。さらに、館内を吹き抜ける微弱な風の気流を操り、館内の動線と人員配置を脳内で完璧な立体図として構築し、分析していく。
ーー……見つけた。一箇所だけ、異常に警備の密度が高く、かつ一般の使用人の立ち入りが極端に制限されている不自然な区画がある。
使用人や兵士の動線がそこだけぽっかりと空いた、不自然な空白地帯。サキルはそこが重要人物——すなわちクレイグの軟禁場所であると確信し、右眼の能力をその奥にある一つの部屋へと絞り込んだ。
幾重にも施錠された分厚い扉の向こう、豪奢だがどこか殺風景な部屋の中央で、一人の男が静かに椅子に腰掛けているのが視える。
年齢は五十代半ば。顔立ちは戦場で見かけたクロリフィルとよく似た面影を残している。
何より、ただ無言で座っているだけでも隠しきれない、幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦の将としての重厚な風格を纏っていた。
間違いない。彼こそが前当主、クレイグ・レイ・フィローレだ。
サキルは手に持った銀の盆の位置を直し、長年この館で働いている使用人の足取りと歩幅を完璧に模倣して、その部屋の前へと向かった。
重厚な扉の両脇には、完全武装した屈強な見張りが二名、油断なく目を光らせて立っている。
「……止まれ。何用だ。ここは当主様の厳命により、立ち入り禁止のはずだぞ」
「はい。旦那様に、お食事をお持ちするようにと直々に仰せつかりまして……」
サキルが歩みを止め、恭しく頭を下げて歩み寄る。見張りが不審げに顔を見合わせ、サキルの身体検査をしようと無骨な手を伸ばした、その瞬間だった。
ヒュッ。
空気を裂く微かな音。サキルが捧げ持っていた盆の下から閃いた二筋の『不可視の風の刃』が、見張りたちの硬い首当ての隙間をすり抜け、彼らの喉笛を音もなく、しかし致命的な深さで正確に掻き切った。
ゴボリ、と血の泡を吹き、彼らが絶望の悲鳴を上げる間すらも与えず、サキルは崩れ落ちる二人の屈強な身体を両手で素早く支え、血の一滴も大理石の床に落とすことなく、静かに壁際へと横たえる。
そして、呼吸一つ乱さず、何事もなかったかのように盆を持ち直し、静かに鍵を開けて扉を押し開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
「……夜分遅くに失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
サキルが机の上に盆を置きながら、わざとらしく怯えた使用人の声色を作って告げる。
だが、部屋の中央の椅子に座っていたクレイグは、持ち込まれた豪勢な食事には一切目もくれず、鷹のように鋭い眼光でサキルを射抜いた。
「……下らぬ芝居はやめろ。お前のその足運びも、纏っている血と硝煙の空気も、震える使用人のそれではない。何より、外に立たせていた熟練の見張りを、扉越しに音もなく始末するような手練れの暗殺者が、我が家門の者にいるはずもない」
歴戦の将であるクレイグの静かな言葉に、サキルはピタリと動きを止めた。
老いたりとはいえ、かつて一族を束ねた男の目は、完璧なはずの変装と芝居すらも一瞬で見破っていたのだ。
「……流石は歴戦の長と言うべきか。ごまかしは通用しないようだな」
サキルは深く、冷たい息を吐き出すと、使用人の芝居がかった卑屈な姿勢を解き、極低温の殺気を纏った本来の冷徹な佇まいへと戻った。
偽装を脱ぎ捨てた彼の白銀の右眼が冷たく発光し、一切の感情を排した視線がクレイグを真っ直ぐに見据える。
「タシュア・イーライグについての情報を言え」
サキルは腰に帯びた剣の柄に静かに手をかけ、低い、しかし絶対的な意志と脅迫を込めた声で告げた。
「あの得体の知れない男の過去と目的、その特異な能力、そして……お前たち一族を巻き込んでまで起こしたこの反乱の真意。知っていることを全て、今ここで吐いてもらう。もしも断るというならば……」
チャキ、と刃が鞘を滑る冷たい音が、静寂の部屋に響き渡った。
「その老体から、力ずくで話を引き出すまでだ」
***
連合軍に与えられた休息が終わりを告げる頃、ゼルグ軍の陣営には、いつもと変わらぬ「冷徹な軍師」の姿があった。
漆黒の外套をなびかせ、白銀の瞳を模した精巧な創具を右眼に嵌めたその男。彼こそが、ゼルグの隠密部隊『名を捨てた者』から送り込まれた影武者である。
サキルが持つ独特の、無駄を削ぎ落とした静かな歩法、そして周囲を突き放すような氷の質感を、彼は完璧にトレースしていた。
「……各部隊、兵装の再点検を急げ。遅れは死に直結する」
その声、抑揚、タイミング。どれをとっても本物のサキルそのものだった。
その隣には、いつもの「気の利く後輩」の仮面を被り直したリノルが、甲斐甲斐しく寄り添っている。
彼女は偽物の僅かな呼吸の乱れや、指示の機微を絶妙な補足でフォローし、周囲の将たちに疑念を挟む隙を一切与えない。
他のネレネスの構成員たちも、一般兵に紛れながら、不自然な視線を送る者がいないか、会話に矛盾が生じないか、張り詰めた神経で周囲を監視していた。
その甲斐あって、ゼルグ軍は表面上、何一つ違和感なく要塞都市イフィルドへの出陣態勢を整えていく。
だが——ただ一人、熾炎隊隊長アーヴィルだけは違った。
軍議を終え、いよいよ全軍が動き出す直前。
アーヴィルは、ふと隣を並走する「サキル」に視線を向けた。
ーー……何だこの違和感は?
論理的に説明できることは何もない。
見た目はサキル。声もサキル。先ほど天幕で話していた内容との整合性も完璧だ。
しかし、アーヴィルの並外れた野性の直感が、喉の奥にこびりつくような奇妙な不快感を訴えていた。
ーー言葉では説明できないが、いつものサキルと何かが違う。
それは、本物だけが宿す意思の強さまではトレースしきれなかったとでもいうのか。
アーヴィルは確信を得るべく鎌をかけようと口を開きかけたが、すぐに思い直してそれを飲み込んだ。
今ここで軍師の正体を疑えば、疲弊しきった熾炎隊、ひいてはゼルグ軍全体の士気が瓦解しかねない。要塞都市という未知の地獄へ向かう今、この「偽りの安寧」を壊すのは得策ではないと判断したのだ。
「……後で聞くしよう」
アーヴィルは口の端を不敵に吊り上げると、あえて違和感に気づかないふりをして、兵士たちの前へと馬を進めた。
「皆の者、よく聞けぇッ!!」
アーヴィルの咆哮が、静まり返った平原に轟く。
「左翼のアルグアや中央のイフィラに対して俺達は多くの戦友達を失った。苦しく厳しいこともわかる。だがまだ戦は終わってはいない。この後で全てが決まるだろう。ならば下を向いている暇などない。苦しいならば俺についてこい。絶望に目の前が見えなくなったならば俺が熾した炎を追ってこい!」
アーヴィルは力強く剣を抜き放ち、曇天の西の空を指し示した。
「ゼルグの誇りを、熾炎隊の意地を見せてやるぞ! 追撃だ! 俺たちが熾した炎で全てを巻き込み焼き尽くしてやれ!!」
「「「「うおおおおおおおおおっ!!!」」」」
一万の損害を出し、満身創痍のはずのゼルグ軍から、爆発的な勝鬨が上がった。
その狂熱の渦の中で、偽物のサキルは静かに頷き、リノルは影の中で密かに、そして冷酷な笑みを深めた。
罠が待ち受ける要塞都市イフィルドへ向けて、連合軍、そして「巨大な秘密」を抱えたサキルなき一隊が、ついに行軍を開始した。
***
扉の向こう、熟練の見張りが悲鳴を上げる暇もなく「処理」された気配を、クレイグ・レイ・フィローレは静かに、そして鋭く察知していた。
椅子に深く腰掛けたまま、クレイグは入ってきた「使用人」を眺める。歩法、重心の置き方、そして隠しきれない死線の匂い。それが一族の者でないことなど、一目見れば明白だった。
「……流石は前当主と言うべきか。ごまかしは通用しないようだな」
目の前の青年が芝居を捨て、冷徹な殺気を解き放つ。片目が白銀に発光し、凍てつくような眼差しが突き刺さる。名は知らぬが、ただ者ではない。これほどの手練れが、この混乱の最中に単独でここまで辿り着いたというのか。
「タシュア・イーライグについての情報を言え」
青年の要求は、あまりに直球だった。クレイグは微動だにせず、逆に問いを投げ返す。
「……何故、タシュアについて知りたい? 命を賭してまで、軟禁された老いぼれに聞きに来るほどの理由が、貴殿にはあるのか」
「ゼルグ国の命令だ。軍師として、タシュアの情報を掴むよう命じられている」
事務的な、そして完璧に整えられた回答。だが、クレイグはそれを受け流した。目の前の男の身体は、理性的であろうとする言葉とは裏腹に、どす黒い情念で小刻みに震えている。白銀にギラつく右眼の奥で燃えているのは、職務への忠実さなどではない。それは、抑えきれない焦燥と、魂を焼くような激しい「怒り」だ。
「いや、違うな。お前の本当の目的を教えろ」
クレイグは確信を持って問いただした。
「たった一人でこの要塞都市に潜入し、私の前に立つ。それがただの『国の命令』だと? 笑わせるな。お前のその眼に宿る火は、義務感などで灯る種類のものではない。……タシュアを追うために国を利用しているのか、あるいはその逆か。どちらにせよ、お前の中にあるのは抑えきれん焦燥と怒りだ」
青年はわずかに歯を噛み締め、低く、突き放すように言った。
「……お前には関係ない」
「いや、答えてもらう。タシュアに——あいつに対して、何故そこまでの敵愾心を抱くのか。理由はいくらでも考えられるくらいに、あいつは世の中を狂わせている。だが、それを止めようとする者が、奴を討つに足る動機を有しているか……それは私にとって、何よりも大事なことだ」
青年の冷静な仮面が、初めて目に見えてひび割れた。
「黙れ! 時間がないんだ! 話さないというならば、力ずくで引きずり出すまでだッ!」
激昂。冷静沈着な軍師だと推測していたクレイグだったが、タシュアの名が出た途端、この青年は脆い。だが、その危うさこそがクレイグに決断をさせた。憎悪が、執念が、この男をここまで突き動かしたのなら——。
「……よかろう。ついてこい」
クレイグは立ち上がり、壁の一角に手を触れた。精緻な仕掛けが作動し、音もなく隠し通路が口を開く。クレイグは迷わず中へ足を踏み入れた。背後で、青年が疑り深く、強い警戒心を抱いたまま立ち止まっているのがわかる。
「どうした、早く入ってこい」
「……謀るつもりか」
「タシュアの過去を知りたくないのか?」
その一言で、サキルの呼吸が止まった。数瞬の葛藤の後、彼は毒を飲むような覚悟で、恐る恐る隠し通路へと足を踏み入れる。
通路の先には、窓一つない簡素な小部屋があった。机と椅子が二つ。殺風景だが、どこか隔絶された静謐さがある。部屋に入ったクレイグに対し、青年は未だ扉のそばで剣の柄を握り、周囲をスキャンするように警戒を解かない。
「そう警戒するな。お前の察する通り、私は首謀者に仕立て上げられ、軟禁されているだけの力なき存在だ。ここでお前を襲うつもりも、ましてや謀って誰かに襲わせるつもりもない。そんな手間をかける価値も、今の私にはないのだよ」
クレイグの自嘲気味な言葉に、青年は無言でクレイグの全身を観察した。嘘偽り、あるいは伏兵の気配。それを右眼で精査し、ようやくゆっくりと扉を離れて歩み寄る。
「……わかった。なら疾く話せ。軍がフィルドへ到達するまで、猶予はないんだ」
尚も焦りを隠せない青年に、クレイグは奥の椅子に腰掛け、穏やかに促した。
「まぁ落ち着け。まずはそこに腰掛け、名を名乗れ。焦りは判断を鈍らせるぞ」
「いや、時間稼ぎには乗らない」
青年の拒絶に、クレイグは薄く微笑んだ。
「わかった。なら、これならどうだ?」
パチン、とクレイグが右手の指を鳴らす。瞬間、青年の感覚が歪んだ。部屋の空気が一変し、まるで世界から切り離されたような、耳の奥が詰まるような奇妙な違和感。
「……何をした」
「この部屋を、私の創った空間術式で覆った。この中は外の時間の流れから隔離されており、通常の時間の十倍の遅さで時が流れる。つまり、ここで一時間を過ごしても、外では六分しか経っていない。これならば、君が焦る必要もなくなるだろう?」
青年は絶句し、周囲の空間を凝視した。術式の構築を読み取ろうとしているのだろう。だが、やがて彼は理解した。
「……それが本当かどうか……いや、違うな。ここに至っては、あんたが協力的なのは間違いない。その時間の話も本当だろう。だが……」
サキルは白銀の瞳をクレイグに向け、鋭く問う。
「何故、俺にそこまでしてタシュアの話をしようとする? あんたに何の得がある」
クレイグは数瞬、深い沈黙に落ちた。その瞳に、後悔と悲哀の色が混ざる。
「……奴を——あの悪魔を止めてくれる者を探していた。奴について真実を話すタイミングもだ。だが、今のように奴自身が敢えて見逃していない限り、話すタイミングなど起こり得ないのだよ」
「!! 待て……つまり、俺が今ここにいて、あんたから話を聞こうとしていることも……タシュアには全て筒抜けだというのか?」
青年の顔に戦慄が走る。
「ああ。おそらく、あの悪魔は全てを知った上で静観しているのだろう。無論、私が奴に伝えたわけではない。そもそも私は奴を誰よりも敵視している。……だが、単純に奴の力が規格外なのだよ。筒抜けであることを防ぐ術など、この世には存在しない」
真実を吟味するように、青年は沈黙した。時間は十倍に延ばされているとはいえ、無限ではない。青年は意を決したように、クレイグの向かいの椅子に腰を下ろした。
「奴が何故ここまでの力を手にしたのか。その過去を知れば、自ずと理解できるはずだ。奴の力の理屈と、それ故に正攻法では決して敵わないこと。……そして、僅かな『弱点』があることも。だから今、ここで話させてくれ」
青年は拳を握り、じっとクレイグを見つめた。タシュアに見透かされているという恐怖を、情報の価値が上回った。
「……名はサキル・セルフェウス。話を聞こう」
クレイグは満足げに頷き、遠い記憶を辿るように視線を落とした。
「奴も、最初から化物だったわけではないのだ。奴も最初は……私の幼馴染であり、唯一無二の親友であり、そして……誰よりも大切な、未来を語り合える仲間だったのだよ」
そうして、クレイグは静かに、地獄の始まりとも言えるタシュアの過去を目の前に座る青年ーーサキルへと語り始めた。
***
要塞都市イフィルドの正門。
そこでは連合軍の主力部隊が大地を震わせるほどの咆哮を上げ、鉄錆と血の匂いが混じり合う攻城戦の幕がついに切って落とされようとしていた。
しかし、その喧騒から遠く離れ、凍てつくような静寂に支配された本陣裏手の霧深い一角では、もう一つの「語られざる戦場」が音もなく胎動を開始していた。
そこは陽光すら届かぬかのように澱んだ空気が満ち、戦場の熱狂が嘘のように遠く、くぐもって聞こえる。
その場所には、白銀の装飾が施された豪奢な総大将天幕とはあまりに不釣り合いな、漆黒の外套を纏った数名の男女がいた。
彼らは感情を剥ぎ取られた石像のように、湿った土の上に微動だにせず跪いている。
彼らこそ、連合軍のどの部隊表にも記されていない、イフィラ国の最高権威を象徴する者たちが抱える「闇」の執行者——『清算人』たちであった。
彼らの眼前に立ち、広大な戦場に背を向けている人物は、静かに、しかし有無を言わさない絶対的な冷徹さを孕んだ声で、一通の密命を下す。
「……あれが何処の産まれであるか。あの忌まわしき種が、何処の土壌で芽吹き、誰の手によって育てられたのか。それを正しく識る者は、最早この世界に数えるほどしか残っておらぬ」
言葉の主は、手元に広げていた古びた羊皮紙を無造作に焚き火へと投じた。炎は一瞬にして紙を舐め、そこに記された国家最深部の機密を黒い灰へと変えていく。
「我が国の礎には、決して拭い去ることのできない泥が刻まれている。もしもあの男の出自が白日の下に晒されれば、我らが戴く『光』の権威は地に落ち、民の清廉なる信仰は一瞬にして瓦解するだろう。……わかるな。我らがイフィラ国の清廉さは、たとえどのような犠牲を払おうとも、永久に守り抜かねばならぬのだ。たとえ、そのためにどれほどの血を流し、どれほどの闇を積み上げようともな」
跪く影の一人が、仮面の奥から低く、一切の感情を剥ぎ取った声で応える。
「……生かしてはおけぬ、ということですね。その真実を語り得る『根源』を」
「左様。イガートやエイリュウといった将たちが功名心に駆られ、あの老いぼれ(クレイグ)を捕虜として生け捕りにする前に。……あるいは、クレイグ・レイ・フィローレの口から、決して語ってはならぬ過去の一片が漏れ出す前に。その命、永遠の静寂の中に沈めよ」
命を受けた影たちは、もはや返答すら必要としなかった。一陣の不気味な風が吹き抜けた瞬間、彼らの姿は濃霧の中へと溶けるように、音もなく周囲の闇へと消失した。彼らが向かうのは、正規軍が激突する正門ではなく、誰も知らぬ隠された「道」。
サキルとクレイグが、外の世界の喧騒から隔離された「十倍に引き延ばされた時間」の密室の中で対峙していることも知らず、その部屋のすぐ外側には、一国の存亡と恥辱を隠蔽せんとする最強の暗殺者たちが、死神の如き足取りで迫っていた。
彼らの目的はただ一つ。
タシュア・イーライグという「絶望」がこの世に生み落とされた真の源流を知る最後の一人——クレイグ・レイ・フィローレの口を、永遠に封じることである。




