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【夏のホラー】夏の返事  作者: OwlKeyNote


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第三話 明日の昼に来るはずだった

知っている声なら、安心できる。


――本当に?

一 玄関の向こう


「祭りがあるんだ。澪も、母さんも、一緒においで」


 玄関の向こうで、父の声がした。


 遠くで笛が鳴る。


 ひゅう。


 昼間、神社で聞いた祭囃子。


 母は私の腕を掴んだまま、少しも動かなかった。


「急に呼ぶから、何かと思ったけど」


 父の声が、少し困ったように笑う。


「まあ、せっかく来たんだし。帰る前に祭りくらい、どうかなと思って」


 母の指から、少しだけ力が抜けた。


「……あなた?」


 父から答えは無かった。


 遠くの祭囃子が止まった。


 笛も。


 太鼓も。


 虫の声まで聞こえなくなった。


 何も聞こえない。


 母は口を押さえたまま、身体を固めた。


 少しして、父の笑い声だけが返ってきた。


「……由香だな」


 その言い方が、嫌だった。


 父は母を名前で呼ぶ。でも、今のは違った。


 確かめたみたいだった。


 母の手が、私の腕を強く掴み直す。


「不安だったろ。もう大丈夫だ」


 さっきまでと同じ、父の声だった。


「澪もいるんだろ」


 母が振り返った。


 口を押さえていた手を、そのまま私の方へ伸ばす。


 答えちゃだめ。


 声には出さなかった。でも、母の目がそう言っていた。


「澪」


 玄関の向こうから呼ばれた。


「いるんだろ」


 返事はしない。


 ひゅう。


 笛が鳴る。


 さっきより少し大きい。


「祭りの音、聞こえるだろ」


 どん。


 どん。


 少し遅れて、太鼓が鳴った。


 胸の奥が、ふっと浮いた。


 行きたいわけじゃない。


 祭りなんて、むしろ苦手だった。


 なのに、笛と太鼓を聞いていると、外へ出たくなった。


「ほら、楽しそうだろ」


 父の声が笑う。


「澪も行きたいって、言ってごらん」


 喉が動いた。


 違う。


 言いたくない。


 そう思っているのに、唇が少し開いた。


 ひゅう。


 笛が、また近くなった。


「澪」


 父の声も近い。


「お父さんだぞ」


 違う。


 父は明日の昼に来る。


 母と電話していた。


 私は聞いていた。


 それなのに、声は父だった。


 いつも電話で聞いている声。


 少し気弱で、困ると笑ってごまかす、父の声。


「返事をしなさい」


 唇が動きかけた。


「答えちゃだめ!」


 母が叫んだ。


 同時に家が揺れたような音。


 思わず首をすくめる。


 白い破片だけが、玄関いっぱいへ散らばった。


 下駄箱の上の花瓶だ。


 割れた破片が、一つ転がる。


 ちりん。


二 聞こえた


「ああ……」


 笑ったように聞こえた。


「やっぱり、お前かぁ」


 その奥に、男の人とも女の人とも分からない声が重なっている。


 何人もの声が、同じ言葉を一緒に口にしているみたいだった。


 ひゅう。


 笛の音が高く跳ね上がる。


 どん。


 どん、どん。


 さっきまで遠くで鳴っていた祭囃子が、家の外を回り始めたように聞こえた。ガラスが震える。


「由香」


 思わず振り向いた。


「おいで」


「……おいで」


 玄関の向こうじゃない。


 目の前から聞こえた。


 母が首をすくめる。


 耳の下の髪が、ふっと持ち上がった。


 持ち上がった髪に引かれるように、襟元が少しずれてゆく。


 何かの熟れた匂い。


 母の唇が震えた。


「な、何これ…」


 私は首を振った。


 声を出さないで。


 そう言おうとして、私も口を閉じる。


 母の手が、私の腕から離れた。


「お母さん?」


 母の足が、床板を擦った。


 玄関の方へ、一歩。


 私は腕を掴んだ。


「待って」


 母が振り返った。


 目を見開いたまま、首が左右へ小刻みに動いた。


 足が、また一歩進んだ。


 私は両手で母の腕を引いた。


「待ってよ」


「おいで」


 母の肩が跳ねた。


「……おいで」


「待ってよ」


 声が震えた。


 両手で母の腕を引く。


 母は上がり框の前まで来ていた。


「お母さん、待って」


 今度は、うまく声にならなかった。


 母の裸足が玄関へ下りる。


 パキッ。


 白い破片が、足の下で割れた。


「お母さん!」


 母は止まらなかった。


 もう片方の足も玄関へ下りる。


 ぱき。


 小さな破片が鳴った。


 母は引き戸に手をかけた。


 私は腕にしがみつく。


「やだ。待ってよ」


 戸がズレて開いた。


 笛と太鼓の音が、いっきに流れ込んできた。


 家の中全体が、祭りの音で埋め尽くされた。


「っ」


 両手で耳を塞いだ。


 目を細めて、外を見る。


 誰もいない。


 軒下の明かりが、白い砂利を照らしている。


 ひゅう。


 音が右から左へ抜けた。


 どん、どん。


 今度は後ろから響く。


 子供の笑い声が混じっていた。


 じゃり。


 母の裸足が、白い砂利へ下りていた。


「お母さん!」


 追いかけなきゃ。


 靴に足を突っ込んだ。


 片方の踵が入らない。


 そのまま外に向かって踏み出す。


 その時、足首に冷たいものが巻きついた。


「なっ」


 上半身だけが斜めに前へ出た。


 手を出す間もなく、土間に肩から落ちる。


 ぱりっ。


 顔のすぐ横で、白い破片が砕けた。


 息が吸えない。


 振り返る。


 濡れた青白い両手が、私の足首を掴んでいた。


 上がり框の下。


 黒い髪が、電灯の光をちらちら返していた。


「いや……」


 足を引く。


 抜けない。


 小さな指が、足首に食い込んでいる。


「いや、いや」


 もう一度、足を引く。


 指がさらに食い込む。


「離して……ごめんなさい、ごめんなさい」


 もう、何を言ってるのか分からなかった。


 外で砂利が鳴った。


 じゃり。


 母だ。


「お、お母さん」


 身体をねじって、外を見る。


 じゃり。


 また鳴る。


 さっきより遠い。


「お母さん、お母さん……待って、お願い、置いてかないで!」


 思いきり足を何度も引いた。


 靴が脱げる。


 冷たい指が滑った。


 一本。


 もう一本。


 最後の指が外れた。


 肘をつく。


 手のひらで土間を押した。


 身体がうまく起きない。


 じゃり。


「お母さん!」


 膝をついたまま立ち上がる。


 片方の靴もそのまま、遠ざかる音へ飛び出した。


 ちりん


 暗かった。


 庭が見えない。


 門も。


 道も。


 向かいの家の明かりも見えなかった。


 後ろを振り返る。


 祖母の家まで見えない。


 嘘だ。


 今、そこの玄関から出たはず。


 それなのに、光はどこにも見えない。

4話完結です

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