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【夏のホラー】夏の返事  作者: OwlKeyNote


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第四話 あの子の名前

十年前の夏。

忘れてしまった名前が、ひとつありました。


今度は、ちゃんと呼びます。

一 暗闇


 母の姿は、もうどこにも見えなかった。


 すぐに追いつけるはずだった。


 母は裸足だった。


 玄関を出たばかりだった。


 そんなに速く歩けるはずがない。


 なのに、見えない。


「お母さん」


 呼びかけそうになって、口を閉じた。


 返事をしちゃだめ。


 母の声だって、もう分からない。


「澪」


 暗闇の奥から、母の声がした。


「澪、こっち」


 何も見えない。


「もう少しよ」


 足が、そちらへ向いた。


 一歩。


 靴の下で、濡れた土が沈む。


「そう。そのまま」


 もう一歩。


 落ち葉を踏んだ。


 かさ。


「ほら、あと少し」


 もう一歩。


 草が足首を擦った。


「澪」


 母の声は、ずっと前にいる。


「こっち」


 足を出しかけた。


 その時、つま先に何も触れなかった。


 止まる。


 足元の落ち葉らしきものを蹴る。


 かさ。


 音が前へ遠ざかる。


 それきり、聞こえなくなった。


 草の擦れる音もない。


 虫の声も。


 でも、空気が動いた。


 線香の匂い。


 その奥に、腐った花みたいな匂いが混じっている。


 揺らぎながら濃くなっていく。


 生ぬるい空気が、頬に触れた。


 動けない。


 じっとりした湿り気が、頬の横を通る。


 耳の下。


 首筋。


 そこで止まった。


「澪」


 耳のすぐ横で、母の声がした。


「どうしたの」


 足を引いた。


「あと一歩なのに」


 もう一歩、後ろへ下がる。


「澪」


 今度は父の声だった。


「帰ってきたのは、お前だけだろ」


 息が詰まった。


「澪」


 おばあちゃんの声。


「十年も忘れてたの」


 首を振る。


「違う……」


「ちゃんと」


 母。


「忘れてた」


 父。


「あなただけ」


 おばあちゃん。


「十年も」


「忘れてた」


「澪」


 耳を塞いだ。


「澪」


「澪」


「澪」


 塞いだ指の奥から、まだ聞こえる。


 頭の上から湿った匂いが耳に、肩に落ちてきた。


「忘れて――」


 ちりん。


 左で小さな鈴が鳴った。


 声が止まった。


 目を開ける。


 何も見えない。


 ちりん。


 もう一度。


 冷たいものが、手に触れた。


「ひっ」


 小さな手だった。


 私の手を掴む。


 暗闇の向こうへ引かれた。


「やっ」


 振り払った。


 その先に、白いものが立っていた。


 泥だらけの膝。


 唇だけが動いた。


 み。


 お。


 もう一度。


 み、お。


 みお。


 私?


 みおりん。


 女の子の声が、頭の奥で聞こえた。


――並んだ提灯の明かり


 赤い鼻緒が、土の上を跳ねる


 少し前を走る、白い背中


 何度も振り返って笑う顔


「みおりん、早くいこっ!」


 伸ばされた手を掴んだ


 暗闇


 ちりん


 走るたびに、鈴が鳴る


 泣き声


 ひゅう


 笛の音


 黒いものが蠢いている


 転ぶ


 女の子の叫び声――


 その先だけ、何もなかった。


 目の前の子を見る。


 私、知ってる。


 名前が、喉まで上がってきた。


――おいで。


 ダメ。


 言ったらダメ。


「ナツ……?」


 その子の目が、少しだけ開いた。


 ナツ。


 そうだ。


 ナツだ。


 十年も。


 ずっと忘れていた。


「なぁつ、助けて!」


 私の声が、上からした。


 身体が固まった。


 私、何も言ってない。


 ナツが顔を上げる。


「なつ、ごめんなさい」


 今度は右。


 ナツが振り向いた。


「なつ、おいで」


 後ろ。


 ナツは振り向かなかった。


 一歩下がる。


 ちりん。


 暗闇の奥で、何かが動いた。


 ナツがもう一歩下がる。


 ちりん。


 また動いた。


 今度は、さっきより近い。


「ナツ……」


 ナツが私を見る。


「なつ、助けて!」


 私の声が、その間に入った。


 ナツの肩が跳ねる。


 ちりん。


 暗がりが大きく動いた。


 草が倒れる。


 めりっ、めりっ。


 枝が折れた。


 線香と、腐った花の匂いが濃くなった。


 今まで音しかなかったものが、そこにいた。


 黒いものが、ナツへ伸びる。


 ナツが一歩下がった。


 ちりん。


 黒いものも動く。


 もう一歩。


 ちりん。


 また追う。


「ナツ……」


 右手に力が入った。


 何か硬い。


 竹鈴。


 いつから握っていたのか分からない。


 手の中で、小さく鳴った。


 ちりん。


 黒いものが止まった。


 ゆっくり、黒い塊がこちらに向いた。


 ナツ。


 私の手。


 その間を、黒いものが揺れた。


 ちりん。


 ナツの方から鳴る。


 黒いものが振り向く。


 ちりん。


 今度は手の中。


 またこちらを向いた。


 少しずつ、近づいてくる。


「っ」


 竹鈴が強く引かれた。


 握る。


 もう一度。


 指が開いた。


 竹鈴が落ちる。


 ころ。


 土の上を転がった。


 ちりん。


 黒いものが、一気に覆いかぶさった。


 竹鈴が見えなくなる。


 音も消えた。


「ナツ」


 ナツを見る。


 白い足が、暗闇に溶けていた。


「え……」


 膝から下が見えない。


 黒いものの下で、草が沈んだ。


 ぐち。


 何かを噛むような音。


 ナツの肩が揺れた。


 白い輪郭が、ふっと欠ける。


「ナツ!」


 ぐち。


 もう一度。


 ナツの姿が薄くなった。


 手を伸ばす。


 届かない。


 その時。


 ちりん。


 黒いものの中で鳴った。


 動きが止まる。


 ちりん。


 また。


 今度も中からだった。


 黒いものが、わずかに揺れた。


 ちりん。


 端が持ち上がる。


 自分の中を探すように、ゆっくり曲がっていく。


 ちりん。


 黒いものが、自分の方へめくれ上がった。


 ぐき。


 何かが折れた。


 ひゅう。


 突然、笛が鳴った。


 黒いものが跳ねる。


 どん。


 太鼓。


「澪!」


 母の声。


「おいで」


 父の声。


「なつ、助けて!」


 私の声。


 ちりん。


 黒いものが、また自分へ折れた。


 ひゅう。


 どん。


 誰かの笑い声。


 泣き声。


 虫の声。


 子供の声。


「澪」


「由香」


「なつ」


「おい――」


 声の途中から笛が鳴った。


 笛の途中で、誰かが笑った。


 太鼓に重なって、泣き声がする。


 黒いものが膨らんだ。


 縮む。


 また膨らむ。


 ちりん。


 その内側から鳴った。


 黒いものが大きく捩れた。


 ひゅう。


 どん。


 ちりん。


「澪――」


 どん。


「たす――」


 ひゅう。


 ちりん。


 もう、どれが何の音なのか分からない。


 全部が重なった。


 耳の奥へ押し込まれる。


 黒いものが、もう一度、自分の方へめくれ上がった。


 ぐしゃ。


 音が潰れた。


 黒いものも、真ん中から折れるように沈んだ。


 ひゅう――


 笛が切れた。


 太鼓も。


 声も。


 全部、止まった。


 何も聞こえない。


 暗闇の中で、黒いものが沈んでいく。


 その形も、すぐに分からなくなった。


 しばらく、動けなかった。


 自分の息だけが聞こえる。


 はっ。


 はっ。


 それも、少しずつ静かになった。


 どこかで、


 りぃ。


 小さな虫が鳴いた。


 顔を上げる。


 もう一度。


 りぃ。


 少し離れたところから、別の虫の声が返った。


 草の中。


 木の上。


 あちこちから、夏の夜の音が戻ってくる。


 風が葉を揺らした。


 さわ。


 枝の間から、薄い月明かりが落ちていた。


 地面が見える。


 草。


 木の根。


 濡れた落ち葉。


 さっきまで何も見えなかった場所だった。


 ちりん。


 振り向く。


 少し離れたところに、白い服が見えた。


「ナツ……」


 ナツだった。


 ちゃんと立っている。


 足も。


 肩も。


 さっき欠けていたところも、元に戻っていた。


 ナツがこっちへ来る。


 ちりん。


 一歩。


 相手の足音がしない。


 落ち葉も鳴らない。


 草も揺れなかった。


 ちりん。


 また一歩。


 服の擦れる音もしない。


 息をする音も。


 何も聞こえない。


 鈴だけ。


 ちりん。


 ナツが目の前まで来た。


 私の顔を見上げる。


 じっと見ていた。


 それから、


 にっ。


 笑った。


 胸の奥が、ぎゅっとなった。


 さっき思い出した顔だった。


 提灯の下で。


 何度も振り返っていた顔。


――みおりん、早くいこっ!


 ナツが手を伸ばした。


 一瞬、身体が固まる。


 あの冷たい手。


 玄関で、私の足首を掴んだ手。


 でも。


 私も手を伸ばした。


 小さな手を握る。


 冷たかった。


 ちりん。


 ナツが笑った。


 そのまま私の手を引く。


 一歩。


 二歩。


 少し先まで行って、振り返った。


 また笑う。


「……もう」


 声が震えた。


 十年前と同じだった。


 ナツがまた私の手を引く。


 ちりん。


 その鈴についていった。


⸻


二 母


 少し歩いたところで、ナツが止まった。


 手が離れる。


 ちりん。


 白い腕が上がった。


 暗い木の根元を指している。


「何?」


 目を凝らす。


 白いものが見えた。


 人だった。


「お母さん!」


 走った。


 母は木の根元に倒れていた。


 膝をつく。


「お母さん」


 肩に触れる。


 温かい。


「お母さん、お母さん」


 母の瞼がゆっくり開いた。


 私を見る。


 唇が動いた。


「……」


 声が出ない。


「お母さん?」


 母の喉が動いた。


「……み……」


 掠れた息だけが漏れた。


 もう一度、口が動く。


 声にはならなかった。


 母の手が上がった。


 頬に触れる。


 温かかった。


 その手に、自分の手を重ねる。


「お母さん……」


 今度は私の方が、その先を言えなかった。


 母に抱きつく。


 背中に腕が回った。


 りぃ。りぃ。


 虫の音、森の音が広がる。


 そのあと、どうやって祖母の家へ戻ったのかは覚えていない。


⸻


三 朝


 目を開けると、祖母の家の天井があった。


 しばらく、動けなかった。


 明るい。


 天井が見える。


 蝉の声がした。


 じいじい、じいじいと、窓の外から何匹も重なって聞こえている。


 昨日まで聞いていた、うるさいくらいの蝉の声だった。


 ゆっくり息を吐いた。


 身体を起こす。


 隣に母がいた。


「お母さん」


 母は畳の上に横になっていた。


 布団もかけず、服のまま丸くなっている。


 顔を覗き込むと、呼吸に合わせて肩がゆっくり上下していた。


「……お母さん」


 もう一度呼ぶと、母の眉が少し動いた。


 それだけで、肩から力が抜けた。


 どうして二人ともここで寝ているのかは分からなかった。


 昨夜、母を見つけたことは覚えている。


 ナツがいた。


 手を引かれた。


 そのあとも、少しだけ覚えている。


 でも、どこから祖母の家へ戻って、いつ畳の上に横になったのか、そのあたりになると急に何も残っていなかった。


 立とうとして、足首が痛んだ。


「いた……」


 座り直して見ると、赤い跡が何本も並んでいる。


 細い指で強く掴まれたみたいな跡だった。


 触ると、まだ少し痛い。


 昨日、あの冷たい手を必死に振りほどいたことを思い出した。


 母にも目を向ける。


 足の裏には、小さな傷がいくつも残っていた。


 母はまだ眠っている。


 今度はちゃんと息をしているのを確かめてから、私は部屋を見回した。


 朝の光が障子を白くしていて、座布団も、壁際の箪笥も、昨日までと同じ場所にある。


 その中で、座卓の上に竹鈴がちょこんとのっかっていた。


 手を伸ばして取った。


 竹ひごは少し冷たかった。


 振ってみる。


 ちりん。


 小さな鈴が一度だけ鳴った。


 昨夜あれほど怖かった音なのに、朝に聞くと、ずいぶん小さな音だった。


 竹ひごの隙間から中を覗く。


 小さな鈴がひとつ。


 その横を見る。


「あれ……?」


 昨日まであった黒いものがない。


 向きを変えて、反対側からも覗いてみたけれど、やっぱり見当たらなかった。


 竹鈴を傾ける。


 ころ。


 何かが中で転がった。


 もう一度傾ける。


 ころ。


 鈴とは違う。


 竹鈴を目の前まで持ち上げて、隙間から覗き込んだ。


「……何これ」


 小さな金平糖が、一粒入っていた。


 白っぽい、どこにでもありそうな金平糖だった。


 竹鈴を傾けると、ころころ転がって、鈴の横で止まる。


 昨日まで黒いものが入っていた場所に、今日は金平糖が入っている。


 どう考えても意味が分からない。


 しかも、よく見ると金平糖は竹ひごの隙間より少し大きかった。


「これ、入らないでしょ」


 竹鈴をくるくる回していると、一本だけ竹ひごが外側へ少し曲がっているのに気づいた。


 指で押してみる。


 そこだけ、ほかより隙間が広い。


 無理やり広げて、そこから押し込んだように見えた。


 誰が。


 そこまで考えて、竹鈴の中の金平糖を見る。


 ころ。


 転がった。


「……何してるの」


 思わず口にしてしまう。


 指で、歪んだ竹ひごを軽く押す。


 昨日まであれほど怖かった竹鈴が、今は不思議と怖くなかった。


 むしろ、こんな小さな隙間にわざわざ金平糖を押し込んで、竹ひごを一本曲げたままにしていった誰かの姿を想像すると、なんだか馬鹿みたいだった。


「ふふっ……またね」


 返事はなかった。


 窓の外では蝉が鳴いていた。


 遠くで鳥の声もした。


 風が入るたび、庭の葉が擦れている。


 昨日までと同じ、うるさい夏の音だった。


 私は、竹鈴を座卓の上にそっと戻した。


 少しだけ眺めてから、人差し指で竹鈴を軽く弾いた。


 ちりん。


 金平糖が、ころ、と小さく転がった。




   了


 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


ホラーなのに、しんみり終わる。

少しホラーらしさからズレているかもしれませんが、私はハッピーエンドが好きなんです。ムフッ


少しでも怖さと、最後に幸せな気持ちを味わっていただけたなら、とても嬉しいです。


——ちりん


2026.08.24 19:59


制作方法については、AI利用に関する備考にも記載しています。

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