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【夏のホラー】夏の返事  作者: OwlKeyNote


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第二話 おばあちゃんの手帳

忘れていることと、

忘れさせられていることは、

たぶん少し違います。

一 朝の家


 昨夜、私は踏み外しそうになりながら階段を降りて、母に駆け寄った。


 二階に誰かがいて、布団の上にいて、口のところに濡れた手があって、何から話せばいいのか分からないまま言葉を出していると、母は途中で首を振った。


「今日は一階で寝ましょ」


 最初に返ってきた言葉は、それだった。


「いろいろ、あったからね」


 声はいつもの母だった。けれど、あんな顔は初めて見た。


 母が隣の部屋へ向かう。その背中が襖の向こうへ消える前に、私もついて歩いた。


 ぱち、とスイッチの音が鳴る。


 母は一階の電気をつけていった。仏間、台所、廊下、玄関、階段の下。古い家の中に残っていた暗いところを、ひとつずつ潰していく。


 しばらくして私が落ち着くと、母は座敷に布団を並べてくれた。


 眠った、というより、目を閉じて朝を待った。母はずっと起きていた気がする。私が少しでも寝返りを打つと、そのたびに隣の布団が擦れた。薄い掛け布団の向こうで、母の体がこちらを向くのが分かった。


二 帰る準備


 隣の部屋の物音で目が覚めた。障子の向こうが、ぼんやり白くなっている。外で蝉が鳴いている。


 体を起こして、隣を見る。


 母の布団は、もう畳まれていた。


 ——ここは二階、じゃない。


 止めた息を吐いて、肩の力を抜く。


 布団をまたいで襖を開けると、母は荷物をまとめていた。喪服を畳まないまま、鞄に押し込んでいる。


「……日曜日に帰る予定だったよね」


 母の手が止まった。


 座卓には、役場に出す書類や銀行の封筒が、ペンと一緒に乱雑に広がっていた。まだ、ほとんど何も終わっていないように見える。


「終わらせなくていいの?」


「いい」


 すぐに返ってきた。


「帰るわ」


 母は鞄の中ばかり見ていた。学校の提出物だって、一週間前には全部そろえる人なのに。


 鞄のチャックが、じ、と音を立てて閉じた。


 母はスマホを手に取り、壁掛け時計を見た。


「パパに電話する」


 小さく言って、立ち上がった。


 父と母は、私が小さい頃に別れている。今もたまに連絡は取るけれど、母が父を頼るところは、あまり見たことがなかった。


 母は廊下に出て、少し声を落とした。


「今日、来られない?」


 私は座敷に座ったまま、廊下の声を聞いていた。


「うん。分かってる。でも、今日中に出たいの」


 廊下の床板が、一度だけ鳴った。


「明日じゃ遅い」


 その声だけ、少しかすれた。


「そうね……うん。じゃあ、明日の昼」


 明日の昼。控えめに笑う父の顔が浮かぶ。


 父が来れば、この家から出られる。


 そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。座卓の上のペンを拾って、指先でくるっと回す。


三 黒い手帳


 母が廊下で電話をしている間、私は座卓の前に座って、ペンを指の間で回していた。


 役場に出すらしい紙。銀行の封筒。不動産屋の名刺。通帳と印鑑。もう使わない、おばあちゃんの保険証。


 大人が片づけるものばかりだった。私が見ても、何をどうするものなのか、よく分からない。


 その中に、ひとつだけ黒いものが混じっていた。


 ペンが指から抜けて、書類の上を転がった。


 何だろう。


 銀行の封筒の下から、小さな手帳が半分だけ出ていた。黒い表紙の端がふやけて、波みたいに曲がっている。


「早められたら連絡して。お願い」


 廊下から、母の声が聞こえた。


 私は手帳の表紙に指をかけた。ざらざらした紙が封筒に擦れて、小さな音を立てる。


 表紙には、何も書かれていなかった。


 開くと、最初の方には、買い物の予定や電話番号が並んでいた。日付の横に丸がついていたり、人の名前が鉛筆で消されていたりする。


 おばあちゃんの手帳だ。


 ページをめくっていく。


 七月が終わった。


 次は、おばあちゃんが亡くなった八月。


 ページをめくる。


 黒い線が、紙いっぱいに広がっていた。


 息を飲んだ。


 何……これ。


 目で線を追っていく。


 文字だ。


 鳴らさな……い。聞かない……返さない。


 大きく震えた文字が、重なるくらいの勢いで書かれていた。


 その下に少し離れて、風鈴、とだけ書かれていた。


 でも、その二文字には強い二重線が引かれている。紙が破れそうなくらい、何度も同じところをなぞっていた。


 次のページをめくる。


 白い。


 もう一枚。


 白い。


 それだけだった。


 母は昨日、おばあちゃんは少しぼんやりしていたから、と言っていた。


 でも、この字は、ぼんやりした人が書いたようには見えない。紙の裏までへこむくらい、強く書かれている。


 仏壇のおばあちゃんの写真を見てしまう。


 笑っている写真なのに、さっきまでとは違う顔に見える。


「澪」


 心臓が跳ねた。


 手帳を閉じそこねたまま顔を上げると、母が座敷の入口に立っていた。スマホを握った手が、まだ耳の近くに残っている。


「それは触らないで」


 さっきまでと、声が違った。


 母は座卓の前に膝をつくと、私の手から手帳を取り上げた。


「これ、何」


「知らなくていい」


「昨日のことと関係あるの?」


「他人のものよ。あなたには関係ない」


「でも、私のおばあちゃんだし……」


 母は小さく息を吐いた。


 手帳を封筒の中へ押し込み、座卓に広がっていた書類も、順番を見ないまま重ねて入れていく。


「行くわよ」


「どこに?」


「今日で終わらせるの」


 立ち上がった母は、私を見なかった。


四 祭りの音


 その日、私は母について村を回った。


 村の通り沿いには、赤い提灯とのぼりが飾られていた。


 通り沿いの役場、銀行、不動産屋。どこも白い蛍光灯がついていて、人の声がしていた。番号札を呼ぶ機械の音や、自動ドアの開く音、入口についた小さなベルの音。


 呼ばれるたびに、母は世間話もせず、書類の要点だけを確認していた。


 税金とか、登記とか、相続とか。知らない言葉が何度も出てきた。ちゃんとは分からない。


 不動産屋では、家の中に残っているものをどうするのか聞かれた。


「必要なものだけ先に持ち出していただいて、残った家財はこちらで処分することもできますよ」


「必要なものだけ……」


 母はそこで言葉を止めた。


「いえ。全部、処分してください」


 母の顔を見る。口を固く結んでいた。


 それを見て、一つだけ分かった。


 母は、あの家を手放すことしか考えていない。


 渡された書類を封筒にしまうと、小さく呟いた。


「もう、これで十分」


 立ち上がった母について不動産屋を出ると、蝉の声が耳に戻ってきた。


 昼の村は、普通だった。畑の横を軽トラックが走り、役場の前ではおばあさんたちが立ち話をしている。


 母のあとを歩いていると、人通りが少しずつ増えていった。


 道の先に、神社の大きな鳥居が見えてくる。


 境内には赤い提灯が並び、屋台や櫓が見えた。法被を着た子どもたちが走り回り、スピーカーから祭囃子が流れていた。


 昼間なのに、境内の方から笛の音が聞こえた。


 ひゅう。


 少し遅れて、太鼓が鳴る。


 どん、どん。


 私は足を止めた。


 母がすぐに私の手を握った。


「聞かなくていい」


 昨日と同じ言葉だった。


「でも、普通のお祭りでしょ」


 母は返事をしなかった。私の手を引く力だけが強くなって、指が痛かった。


 母に手を引かれたまま歩いていると、祭りの音は少しずつ遠ざかっていった。


 祖母の家へ着く頃には、笛も太鼓も風に紛れるくらい小さくなっていた。


 母は玄関の前で一度立ち止まった。鍵を持った手が、引き戸の前で少し迷う。


 がちゃ。


 玄関を開けると、母の背中越しに朝のままの家の中が見えた。


 仏間も廊下も明るいのに、誰もいなかった間の空気が畳の上に沈んでいる。少し湿った匂いがする。母は靴を脱ぐと、そのまま座敷へ行き、集めた書類を広げ始めた。


「荷物、まとめておいて」


「うん。明日の昼に帰るんだよね」


「そうしたいけれどね」


 母は書類から目を上げず、ため息をつきながら答えた。


 二階へは行きたくなかった。着替えも鞄も上にあるけれど、父が来るまで急いで取りに行く必要はない。階段の方を見るだけで、胸の奥がざわつく。


 母はときおりスマホを見ていた。画面を開いては、閉じる。その繰り返しだった。外は少しずつ暗くなっていく。


 庭の鈴虫の音が窓越しに聞こえる頃、座卓にはコンビニで買ったおにぎりが並べられた。今日の夕食だ。母は手をつけなかった。


「……お母さん」


「何」


「あの手帳、何なの」


 母はお茶のペットボトルを持ったまま、動きを止めた。


「知らなくていいって言ったでしょう」


「でも、昨日のことと関係あるんでしょ」


「夢よ」


「じゃあ、なんでお母さんも二階に上がらないの」


 母は黙った。


「……分からないのよ」


 独り言みたいな声だった。


「何も、分からないままなの」


 母は一度、唇を噛んだ。


「最後に、あの人が電話なんてしてくるから」


「あの人って……おばあちゃん?」


 母は、わずかに頷いた。


「何を言われたの?」


「風鈴じゃないって」


 母の声は小さかった。


「それから、あなたのことを聞かれた」


「私?」


 母は私を見なかった。


「もう終わったと思ってたのに」


「終わったって……前に、何かあったの?」


 母の眉が寄った。固く結ばれた唇が、少しだけ震えている。私と目が合うと、何かを言いかけるように口を開き、それから俯いた。


 長く息を吐いて、母はゆっくり立ち上がった。


「待ってて」


 それだけ言って、仏間へ向かった。


五 竹の鈴


 母は仏壇の前で膝をつき、下の引き出しに手を伸ばした。中を探り、白い和紙の包みを取り出すと、それを持ったまましばらく動かなかった。


「それ、何」


 母は仏壇の前に置かれた桐箱を一度見てから、立ち上がった。


 座敷へ戻り、私の前に座る。包みを開く母の指が、少し震えていた。


 和紙の中から出てきたのは、竹ひごで編まれた小さな鈴だった。丸い籠みたいな形をしていて、中には小さな鈴が一つ入っている。


 母がそれを私の手に置こうとした。


 指が勝手に引っ込んだ。


 竹鈴は手に触れないまま落ち、畳の上を、ころ、と転がった。


 音はしなかった。


「……ごめん」


 謝るつもりなんてなかったのに、声が出た。


 母は竹鈴を見つめたまま、首を横に振った。


「いいの」


 聞こえるかどうか分からないくらい、小さな声だった。


「これ、何」


「あなたのものだったの」


「私の?」


「そう」


「こんなの、知らない」


「それでいいの」


 母の声は、吐き出すようだった。


「覚えてなくてよかったの」


「どういう意味?」


 母は黙ったまま、畳の上に転がった竹鈴を見つめている。拾おうとはしなかった。私も触れなかった。


 竹ひごの隙間から見える小さな鈴。その横に、黒いものが入っていた。


「誰かにもらったの?」


 母の唇がわずかに開いた。


 何かを言いかけて、また閉じる。竹鈴から目を離さないまま、膝の上で指を握り込んだ。


「あなたに、仲の良い子がいたの」


 母は私を見ないまま言った。


「あの日も、一緒だった」


「あの日って?」


 母の指が、さらに強く握られる。


「祭りの日よ」


 昼間に聞いた笛の音が、耳の奥へ戻ってくる。


「その子がいなくなった日」


 私は何も言えず、次の言葉を待った。


「帰ってきたのは、あなただけだった」


「その子は?」


 母は首を横に振った。


「いいの。忘れなさい」


「忘れなさいって、そんなの無理だよ」


「無理じゃないわ」


 母はそこで初めて、私を見た。


 泣きそうな顔だった。


「あなたは十年、ちゃんと忘れてた」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 忘れてた。


 私が?


 誰を?


六 鳴った音


 畳の上に転がった竹鈴が、目に入り込む。


 さっきは触れなかった。見ただけで指が勝手に開いた。それなのに、今は目をそらせない。


 私はそっと手を伸ばした。


 母が何かを言いかけて、やめる。


 竹鈴を拾い上げる。


 思ったより軽かった。


 さっき落ちたときと同じように、音はしない。


 竹鈴を手のひらに乗せ、竹ひごの隙間を覗いた。小さな鈴が一つ。その隣に、黒く乾いた実のようなものが入っている。何なのかは分からないけれど、長く見ていたくなかった。


 軽く振ってみた。


 音はしない。


 鈴なのに、鳴らない。


 昨日のことも、これも、十年前のことも、仏壇の前の桐箱まで、知らない人のものに見える。


 もう一度、振った。


 この鈴から音が出れば、少しだけ普通に戻れる気がした。


 さっきより強く振る。


 竹ひごの小さな籠が、手の中で跳ねた。


 母の肩が、ほんの少し動く。


 仏壇の前の桐箱。座卓に残ったおにぎりの包み。母の手元に置かれたペットボトル。


 家の中の音が、そこで止まった。


 りん。


 音がした。


 私は反射的に、手の中の竹鈴を見る。


 竹鈴に変わりはなかった。


 母は息を止めている。


 私も竹鈴を握ったまま、動けなかった。


 竹鈴以外の何かが、もう一度鳴るのかを待った。


 そのときだった。


 玄関の外で、砂利を踏む音がした。


 じゃり。


 母が畳に手をついた。


 じゃり。


「由香。澪。着いたぞ」


 父の声だった。


 肩の力が抜けた。


 早く会いたい。


 片膝を立て、立ち上がろうとする。


「澪、大丈夫か」


 いつも電話で聞いている父の声だった。


「迎え、遅くなって悪かったな」


 腕を強くつかまれた。


 振り向くと、母の顔は真っ青だった。泣きそうな顔で、頭を左右に振っている。


 その顔を見て、ようやく思い出した。


 父が来るのは、明日の昼のはずだ。


 玄関の向こうで、父の声が優しく笑った。


 遠くで、笛が鳴る。


 ひゅう。


 続いて、太鼓の音がした。


 どん、どん。


「祭りがあるんだ。澪も、母さんも、一緒においで」

4話完結です

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