第一話 風鈴は、なかった
田舎のおばあちゃんの家。
夏の夜。
聞き慣れた人の声。
それだけなら、怖くないはずでした。
一 仏壇の前
母が線香に火をつけた。隣に座っている私の前を、細い煙が仏壇の前でまっすぐ上がっていく。
目の前には、昼に骨になったおばあちゃんがいた。骨壺と、白い布のかかった桐箱。それが、今のおばあちゃんだった。
おばあちゃん、今日はお疲れさま。
そう思ったけれど、それ以上の言葉は出てこなかった。
火葬場では、親戚の人たちに何度も頭を下げていた。悲しみに耐えているというより、早く終わらせようと、黙々と手順をこなしているように見えた。
このおばあちゃんの家には、私が小さい時に夏休みになるとよく来ていた。けれど、いつからだったろう。母が、田舎に帰りたがらなくなったのは。
父と別れたことも、関係あるのかもしれない。でも母は話さなかったし、私もなんだか聞く気がしなかった。
しばらくして、母が小さく息を吐いた。私はその音に押されるみたいに、立ち上がる。
「お茶、淹れるね」
台所には、急須も湯呑みもまだ置いてあった。勝手に人の家のものを使っているみたいで落ち着かなかったけれど、戸棚から湯呑みを二つ出して、薄いお茶を淹れた。
座卓に戻っても、まだ母の姿勢は変わっていなかった。
「はい」
「ありがとう」
湯呑みを受け取っても、母は口をつけなかった。何となくその横顔を見ていられなくて、私は軒の影に白い日差しが残る縁側の方へ目を向けた。
二 風鈴は、なかった
「あれ?」
「何?」
「最近は、出してなかったのかなぁ」
母の手が止まった。
「……」
「風鈴だよ。ほら、ここにあったよね」
私は立ち上がって、軒先を見上げた。昔は縁側に、いくつも吊るされていた気がする。風が吹くたびに、ちりん、ちりんって鳴っていた。
「それ、おばあちゃんが嫌がるようになったの」
「風鈴のこと?」
「うん」
「どうして?」
母は湯呑みの中を見たまま言った。
「風鈴じゃないって」
「え?」
「電話でね。そう言ってたの。もう、少しぼんやりしていたから」
母はそれ以上、何も言わなかった。
その言い方を聞いていると、電話の向こうにいたおばあちゃんが、私の知らない別の人になってしまったようで怖かった。
しばらく二人で、答えるはずのない桐箱を眺めていた。外では、やけに蝉の声がうるさかったのを覚えている。
三 祭りの音
その日の夕食は、斎場でもらった折詰の残りだった。冷えた天ぷらを口に入れた時、外から太鼓の音がした。
どん。
少し遅れて、笛の音も聞こえる。
ひゅう。
祭囃子だ。
祭りは苦手なはずなのに、その音を聞いた瞬間、胸の奥が浮いた。誰かに手を引かれて、暗くなる前の道を急いでいるみたいな。
「お祭り?」
そう言った瞬間、母の箸が止まった。
「行かないわよ」
「分かってるよ。今日、おばあちゃんを送った日だし」
母は立ち上がって、縁側の窓を閉めた。続けて、カーテンまで引く。
「祭りの音は、聞かなくていい」
聞かなくていい、って。
行かなくていい、じゃなくて?
そう思ったけれど、口には出さなかった。
夜になると、祭囃子はいつの間にか消えていた。母はまだ、市役所や銀行に出すらしい書類を座卓に広げていた。
どれも私にはよく分からなかった。
「先に寝てなさい」
「お母さんは?」
「もう少しかかるから」
「無理しないでね」
母は疲れた顔を上げて、少しだけ笑った。その顔を見て、私は安心した。ちゃんと、いつもの母だった。
私は二階へ上がった。
四 二階の部屋
二階の部屋は、ほとんど使われていないようだった。畳は乾ききっていて、押し入れの襖は少しだけ歪んでいる。窓の外には、黒い山の影が見えた。
昔、ここで寝たことがある気がする。でも、誰と寝たのかは思い出せない。
布団に入っても、私は眠れなかった。虫の音や、蛙の鳴き声が聞こえていた。そういう音がある間はよかった。誰かが外で生きている音があるだけで、世界は少しだけまともに思える。
でも、いつの間にか、下の気配が消えていた。
母がまだ起きていると分かるような、小さな音が、ひとつもない。
家が、急に広くなった気がした。静かすぎて、耳鳴りが聞こえる。
ちりん。
目を開けた。
風鈴の音。
二階の窓辺のどこかに、まだ残っていたのかもしれない。
でも、母の言葉が耳の奥で引っかかっていた。
風鈴じゃないって。
ちりん。
今度は、窓辺どころじゃなかった。
家の中。
廊下の奥。
襖の向こう。
私は布団の中で息を止めた。その時、廊下の方で床板が鳴る。
ぎし。
誰かが歩いている。
ぎし。
二階の廊下を、ゆっくり。
ぎし。
私の部屋の前で、その音が止まった。
五 母の声
「みお」
母の声だった。布団を握りしめていた手に気づいて、力を抜く。襖の向こうから聞こえるのは、いつもの声だった。
「澪」
「起きてる?」
何、さっきは寝てなさいって言ったくせに。
そう思った。思っただけで、返事はしなかった。
「澪、ちょっと降りてきて」
「……もう」
声に出したつもりはなかった。ほんの少し、息が漏れただけだった。ため息みたいな、返事にもならない音。
その時、布団の上で何かが動いた。
「……!」
叫ぼうとした口に、冷たいものが押しつけられた。
濡れていた。少し、土の匂いがした。
濡れた布。
違う。
顎の上で、それは動いている。
小さな動物。
分からない。
分かりたくない。
息が止まる。
早くどけないと。
腕で払い除けようとして、身体を横にずらす。
けれど、動けない。
布団の上から、何かが覆い被さっている。小さいはずなのに、重かった。
布団ごと、私を畳に縫い付けるみたいに重い。
口を塞いでいるものが、動く。濡れた感触が、私の口の端に触れた。
硬いものが、唇をかすめる。
爪。
指だ。
小さい指。
濡れた、冷たい指。
六 布団の上の子
「澪」
襖の向こうで、母の声がした。
「返事して」
口を塞いでいる指に、さらに力がこもる。声にならない息だけが、指の隙間から漏れていく。
母さん、助けて。
私は目だけを動かした。
見ちゃいけない。
そう思ったのに、見ずにはいられなかった。
布団の上。私の胸のすぐ横。暗がりの中に、誰かがいる。
頬に、冷たい何かが垂れた。濡れた髪。白い頬。白い服。
顔は見えているのに、表情だけが見えなかった。そこに目があるはずなのに、闇が先にあるみたいだった。
ちりん。
布団の上で、小さな鈴のような音がした。
その音で、何かが切れた。
私は布団を跳ね上げる。
口を塞いでいたものも、胸の上の重さも、いっぺんに消えた。
部屋には、誰もいなかった。
私は息を吸う。喉からひゅっと鳴る音が聞こえた。
苦しさは変わらず、頭がくらくらする。
「……お、か……っ」
母を呼ぶ。でも、出たのは声じゃなくて、喉の奥で潰れた息だけだった。
襖を開けようとして、引き手を探る。指が滑った。一度。二度。ようやく引っかかった指で、襖を引いた。
勢いが強すぎて、襖が柱にぶつかる。
だんっ。
大きな音だった。
廊下には、誰もいなかった。ただ、二階の廊下が暗く伸びているだけだった。
その時、母の声がした。
「澪? どうしたの?」
私は、襖に手をかけたまま固まった。
下からだった。
母の声は、階下から聞こえていた。




