忠誠の意味・後編
「お屋敷が小さくて、驚かれたでしょう?」
ラファシアンの母レティシアンは、リュシエリアーナの前へ紅茶を差し出しながら、柔らかく声をかけた。
それに小さく会釈を返し、リュシエリアーナは静かに口を開く。
「……ええ。ですが、とても温かみのある、居心地のよい屋敷です。私はとても気に入りました」
「ふふっ。お気に召していただけたようで、何よりだわ」
微笑みながら、レティシアンは紅茶を勧めるように手のひらを添える。
それに応えるようにリュシエリアーナがカップへ手を伸ばしたところで、ラファシアンの父ミシェノヴァが口を開いた。
「我々はほとんどを領地で過ごしているからね。……こういう機会でもなければ、王都へ滞在することがない。だから手狭な屋敷のほうが、何かと都合がいいのだよ」
「確か……星屑の落ちる土地までは馬車でひと月の道程だと伺いました。王都へお越しになるだけでも、大変でしょう」
「いや、そんなことはない」
気遣うようなリュシエリアーナの言葉に、ミシェノヴァは笑みを含ませながら首を振った。
「猊下より『転移の門』の使用許可をいただいているからね。……ひと月の道程を律儀に旅するのは、頑固者のラファシアンぐらいだ」
「! 猊下から、『転移の門』の使用許可を……?」
朗らかに笑うミシェノヴァの言葉に、リュシエリアーナは思わず目を見開く。
──『転移の門』は、唯一無二の古代魔道具だ。
この門を起動するには、教皇の膨大な魔力が必要となる。
それゆえ使用が許されるのは、基本的に国難に瀕した時のみと定められていた。
(……ご両親が今回、王都へ来られた件はまだ判る)
長らく婚約が成立できなかった息子の、ようやく訪れた晴れ舞台だ。
その婚約発表の夜会に間に合わせるため、門の使用を許可した──慈悲深い教皇ならば、そう判断しても不思議ではない。
だが────。
(先ほどの父御どののお話では、まるで常日頃から使用しているように聞こえる……)
いくら王都までの道程が長いとはいえ、国宝にも匹敵する古代魔道具の使用を、そのたびに許可するものだろうか──?
思案するリュシエリアーナを見つめながら、ミシェノヴァもまた訝しげに眉を寄せる。そして、その視線を彼女の隣でどこか居心地悪そうに座る息子へと向けた。
父の視線に込められた意図を察したのだろう。ラファシアンは気まずそうに顔を背ける。
その反応だけで、おおよその事情を悟ったミシェノヴァは、小さく息を吐いた。
「……ところで、リュシエリアーナ嬢」
「! ……はい」
思案を打ち切って顔を上げた彼女を、ミシェノヴァは真っ直ぐ見据える。
一拍置いてから、静かに問いかけた。
「不躾なことをお聞きするが……息子との──ラファシアンとの婚約を、本当に望んでおられるのかな?」
「!?」
その問いに目を見開いたのは、リュシエリアーナだけではない。ラファシアンも、そしてレティシアンもまた、驚きを隠せず父を見つめている。
「あなた……! その言い方は失礼だわ……!」
「そうです、父上……! それではあまりに────」
「いえ、構いません」
二人の言葉を、リュシエリアーナは穏やかに遮る。
そのままミシェノヴァへ真っ直ぐな眼差しを向け、にこりと微笑んだ。
「私はラファ様ほど寛容ではありません。望まぬ婚約を黙って受け入れるほど、心の広い人間ではないのです。ミシェノヴァ様」
「そうよ、あなた。一体何を疑っているの? あの夜会をご覧になっていたでしょう? 二人が愛し合っていることくらい、すぐに判ることだわ」
「あ、愛……っ!?」
思いも寄らぬ母の追撃に、リュシエリアーナとラファシアンは同時に頬を染め、気まずそうに視線を伏せる。
『婚約者』という関係を装っている以上、そう思われるのはむしろ理想的なことだ。
だが、面と向かって口にされると、どうにも居心地が悪い。
(……母御どのの攻撃は、存外効くな……)
内心でぼやきながら、リュシエリアーナは取り繕うように小さく咳払いをした。
「……と、とにかく。私がラファ様との婚約を嫌がる道理はございません。どうかご安心ください」
頬に朱を残したままそう言い切る彼女を、ミシェノヴァは静かに見つめた。
脳裏に浮かぶのは、屋敷へ入る前に彼女が口にした言葉──。
(確かに、先ほどの彼女の言葉に嘘偽りはないだろう……)
あれは、息子を心から案じた言葉だった。
それだけではない。
妻の言う通り、昨夜の夜会での彼女の振る舞いを見れば、教皇の勅書に嫌々従っているようには到底見えない。
ラファシアンへ向ける眼差しには、隣に立てる喜びと安心、そして確かな幸福が滲んでいた。
(では、この違和感は……彼女ではなくラファシアンの方に問題があるということか……?)
なお腑に落ちぬ思いは残る。
それでも今はそう結論づけるしかないと、ミシェノヴァは静かに嘆息を漏らした。
そして改めてリュシエリアーナへ向き直ると、ミシェノヴァは深々と頭を垂れた。
「……無礼をお詫びする、リュシエリアーナ嬢。ラファシアンのことになると、どうにも神経が過敏になる」
「!」
「……ラファシアンはご覧の通り、その容姿のせいで幼い頃から醜いと蔑まれてきたからね……。私もそうだが、息子は私以上に周囲からの当たりが強かった。そのせいで息子がどれほど心を痛めてきたかは、親である私たちが一番よく知っている」
「父上……」
「だからこそ息子には、今まで辛かった分、幸せな人生を送ってほしい──そう願うあまり、どうにも疑心暗鬼になりすぎていたようだ」
自嘲するようにため息を落として、ミシェノヴァは二人を見つめる。
「……何やら二人の間に、『婚約者』という関係だけではない空気が流れているような気がしてね」
「!」
ぎくりと表情を強張らせたのは、他でもないラファシアンとリュシエリアーナだ。
言うまでもなく、この婚約が『契約婚』という偽りの関係であることへの後ろめたさと、それを見抜かれたのではないかという焦りからくる緊張である。
二人は取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべ、慌てて釈明を始めた。
「そ、それは! 考えすぎというものです……!」
「そ、そうです、父上……! そのようなことは決して……!」
「そうよ、あなた。二人は愛し合っているのに、失礼だわ」
「……!?」
どうやら母の援護射撃は、敵味方の区別なく放たれるらしい。
再び二人は揃って耳朶まで赤く染め上げ、気まずそうに顔を背ける。
(もう、好きなように解釈してくれ……!)
そう心中で降参しつつ────。
「……あ、愛しているかは、ひとまず置いておくとして」
面映ゆそうに咳払いをひとつ落とし、リュシエリアーナは静かに言葉を続けた。
「……私は『婚約者』である前に、一人の人間としてラファ様を深く尊敬しております」
「!」
「ラファ様は、どのような境遇に置かれようとも、心の清らかさを失うことなく、誠実であり続けてこられました。簡単なようで、それは決して容易にできることではありません」
一度言葉を区切り、リュシエリアーナはラファシアンへと視線を寄せる。
「誰かを恨むことも、誰かのせいにすることもなく、慈愛と誠実さを貫き、常に人を救おうと手を差し伸べる──その静謐なる高潔さは、決して誰にも真似のできない、ラファ様だけの尊さです」
「──!」
驚いて目を見開くラファシアンへ、彼女はそっと微笑みかけた。
そして瞳を閉じ、自身の胸に手を当てる。
「……私は今まで、神仏に祈りを捧げたことも、感謝したこともありません。ですが、ご子息のような尊敬すべき方に巡り会えたことに、私は心の底から神に感謝を告げたい気持ちでいっぱいなのです」
その穏やかな声音と、今まで受けてきた以上の賛辞に、ラファシアンはもう逃げ出したい気分だった。
頬は熱く火照り、とても彼女の顔を直視できない。
思わず口元へ手を添え、そっと顔を背ける。
(そのように……思ってくれていたのか……)
彼女の言葉の一つひとつから、飾ることのない真心が痛いほど伝わってくる。
真っ直ぐ見つめるその瞳には、一点の曇りもなく、揺るぎない信頼だけが宿っていた。
────それは、二十六年間生きてきて、初めて向けられた感情だった。
(嬉しい……)
ただ、素直に嬉しい。
だが──。
(できれば、二人きりの時に聞きたかった……)
両親の驚きと、どこか微笑ましげな視線が痛い。
面映ゆさと居心地の悪さに顔を背けたままのラファシアンを横目に、リュシエリアーナは柔らかな眼差しをふっと引き締め、ミシェノヴァ夫妻へ視線を向けた。
「──ただ一つ! ご両親は誤解しておられる!」
「!?」
「ラファ様は、醜くなどありません!! もともと完成された容姿に加え、その心の清らかさが外見にまで表れているのでしょう。ご子息は間違いなく、人智を超えた美しい容貌をお持ちです!!」
突然の力説に圧倒され、夫妻は思わず目を見開く。
「い、いや……だが髪色が────」
「髪色など、どうでもいい!! ラファ様は、ご両親の美しさをそのまま引き継がれた『絶世の美男子』です!! そこは決して履き違えてはなりません!!」
「──……!」
「………………」
「………………」
応接室に、静寂が満ちる。
唖然とする両親と。
彼女からの心からの賛辞に、未だ慣れることのできないラファシアンは、耳まで真っ赤に染めながら明後日の方角を向いている。
一方のリュシエリアーナも、思わず本音が口をついてしまったことを今さら後悔しつつ、引くに引けない空気と痛いほどの静けさに、内心で硬直していた。
その静寂を破ったのは────。
ミシェノヴァの朗らかな笑い声だった。
「これは……まいった……! シエルから貴女の為人を聞いてはいたが、本当にラファシアンを美しいと思ってくれているのだね……!」
ミシェノヴァの笑い声に、妻の微笑が重なる。
「ええ、そのようだわ……! シエルから聞いた時は、あの子がラファシアンを心配するあまり、大げさに話しているのだと思っていたけれど」
「ち、父上……母上……!」
恥ずかしさのあまり、いたたまれない。
これではまるで、手のかかる息子を周囲が総出で見守っているようではないか。
ラファシアンはげんなりと肩を落とし、顔を覆うように額へ手を当てた。
そんな息子の幸せそうな姿を見つめ、ミシェノヴァとレティシアンは満ち足りたように微笑み合う。
そして、リュシエリアーナへ優しく視線を向けた。
「リュシエリアーナ嬢。どうか息子を、末永くお願いいたします」
心からの願いにも似たその言葉へ、リュシエリアーナは穏やかな笑みで応える。
──その一方で。
そんな優しい両親を欺いているという罪悪感が、胸の奥をちくりと静かに刺していた。
**
「……疲れたでしょう、リュシエリアーナ嬢」
両親との挨拶を終え、応接室を出て中庭へ向かう途中、ラファシアンは苦笑交じりに声をかけた。
どこか浮かない表情をしていた彼女は、その声を聞くなり、何事もなかったかのように表情を取り繕う。
「いや、そんなことはない。思っていた以上に、よいご両親だ。ラファ様を息子として心から愛しておられるのが、よく判る」
「心配性な二人で、お恥ずかしい限りですが……」
苦笑を浮かべてそう答えた後、ラファシアンは小さく首を振った。
「──いえ。心配をかけているのは、私のせいでしょう……」
過去十七回の婚約破棄を、誰よりも悲しんだのは他ならぬ両親だった。
自分たちの薄い髪色を継がせてしまったことに罪悪感を抱き、周囲の侮蔑や嘲笑から守るように、必死に自分を育ててくれた。
その恩義を感じているというのに、二十六にもなって、未だ親を安心させることができない。
(……不甲斐ないな、私は)
憂いを帯びて美しい顔に影を落とすラファシアンを、リュシエリアーナはそっと見上げる。
そのどこか物悲しげな表情に、彼女の胸は否応なく疼いた。
「……すまぬ、ラファ様」
「……! ……どうしたのです? 急に……」
唐突な謝罪に、ラファシアンは困ったように笑みを浮かべた。
彼女が詫びるようなことなど、一つもない。
思い当たる節もなく小首を傾げながら、それでも気遣うように微笑む彼の姿が、なおさらリュシエリアーナの罪悪感を刺激した。
「……私が、『契約婚』など持ち出さなければ────」
あの心優しい両親を、欺くような真似などせずに済んだものを。
続く言葉を飲み込み、申し訳なさそうに俯く彼女を見つめて、ラファシアンは目を瞬かせた。
──この『契約婚』を受け入れると決めたのは、他でもない自分自身だ。
彼女を他の男に奪われるくらいならと、迷うことなく彼女との繋がりを選んだ。
それは、自分の欲望から下した決断だった。
なのに────。
(……彼女が、罪悪感を抱くのか……)
その優しさが嬉しく、そして申し訳ない。
ラファシアンは、小さく吐息を零して微笑んだ。
「……あれは、私が決めたことです。リュシエリアーナ嬢」
「だが──」
「私は子供でも、ましてや女性でもありません。一人の男として、そうすべきだと決断しました。その決断の責任を、貴女へ押し付けるような卑怯者に、私が見えますか?」
「──!」
「……誠実だと言ってくださるのなら、どうか私を、そのような卑怯な男にしないでください」
穏やかな声音で、諭すように優しく語りかけるその言葉が、たまらなく胸に響く。
愚かな選択をさせたにもかかわらず、『貴女は悪くない』と言ってくれる彼の優しさが、どうしようもなく胸に痛かった。
リュシエリアーナは、なぜだか泣きたいような気持ちに襲われ、小さく俯く。
「…………すまぬ」
もう一度だけ謝る彼女を、ラファシアンは少し困ったように、それでいて慈しむように目を細めて見つめた。
人と言葉を交わすことに慣れていない彼には、こういう時、どう慰めればいいのか判らない。
しばらく思案した末、まるで子供を宥めるように、そっと彼女の頭へ手を置き、優しく撫でた。
「──!」
その不器用な優しさに、リュシエリアーナは目を見開く。
驚いて見上げる彼女へ、ラファシアンは「大丈夫です」と語るように、穏やかな笑みを返した。
果たしてこれが正しいのかは判らない。
だが────。
「…………私だって、もう子供ではない」
赤らめた頬を小さく膨らませながら、眉間へ軽くしわを寄せるその様子は、『不快』とはまるで正反対なのだと判る。
ジザリのハンドキスから彼女を守った時も、彼女は同じ反応を見せてくれた。
これはきっと、彼女なりの照れ隠しだろう。
普段、人前では決して見せない、小さな『甘え』なのだ。
(かわいい……)
くすりと喉を鳴らして頬を緩める。
こうして少しずつ甘えてくれることが、たまらなく嬉しい。
だが同時に、どうしても考えてしまうのだ。
彼女がこうして甘えを見せるのは、自分が八つも年上だからなのだろうか、と。
(だから私は、『男』として見られていないのだろうか……?)
そう思うと、胸の奥にわずかな寂寥が差した。
ラファシアンはその感情を胸の奥へそっと押し込み、気持ちを切り替えるように、中庭へ続く扉を開く。
「どうぞ、リュシエリアーナ嬢」
「──!」
開かれた扉の向こうに広がる光景に、リュシエリアーナは思わず息を呑んだ。
そこに広がる、色とりどりの世界────。
「これは……! 圧巻だな……!」
小ぢんまりとした庭園には、まるで絨毯のように色とりどりの花々が所狭しと咲き誇っていた。花の海を歩いているかのような光景に、リュシエリアーナは思わず感嘆の声を漏らす。
「まるで『花の海』だな……!」
「……ありがとうございます。ですが、マレグレン公爵邸にある庭園のほうが、ずっと立派でしょう?」
「いや、そんなことはない」
リュシエリアーナはラファシアンより一歩先を歩きながら、静かに首を振った。
「私の家の庭園は確かに広い。だが、これほど花々が密集して咲くことはない」
規模が大きいだけに、花々は庭園のあちこちへ点在しているのだ。
季節ごとの花を楽しめるよう趣向が凝らされ、確かに『美しい庭園』と呼ぶに相応しい。
だが、緑豊かな駿河の国で育った前世を持つリュシエリアーナにとっては、人の手で整えられすぎていて、どこか味気なく映ってしまう。
それに比べれば、フォルスタート邸の庭園は、小さくともずっと趣があった。
年相応に花々を眺めて目を輝かせる彼女の後ろ姿へ、ラファシアンは微笑ましげな眼差しを向けながら、ゆっくりと歩みを合わせる。
「……リュシエリアーナ嬢は、どの花がお好きですか?」
「! わ、私の……好きな花、か?」
思いがけない問いに、リュシエリアーナは思わず足を止めた。
何せ外見は女でも、中身は戦国時代を生きた男だ。それも剣術一筋で生きてきた身であり、花を愛でた記憶など一度もない。
そんな自分に、一番縁遠い問いが投げかけられている。
返答に窮して思案する彼女の脳裏へ、不意に前世の鮮やかな景色が蘇った。
「そうだな……私が好きな花は────桜、だったな」
「!」
(──『だった』?)
聞き覚えのない花の名。
そして、どこか過去を懐かしむようなその言い方に、ラファシアンは小さく眉を寄せる。
「……『サクラ』ですか? 初めて耳にする花の名ですね」
「そうか……やはり、この世界にはないか」
どこか寂しげに笑う彼女を見て、ラファシアンの胸がわずかにざわつく。
「……どのような花なのです? どこでご覧になったのか教えていただければ、私が探してみますよ」
その申し出に、リュシエリアーナはわずかに目を見開き、吐息交じりに微笑んだ。
その笑みには、乾いた諦観が静かに滲んでいる。
「……いや。見たのは、もうずっと遠い昔だ。春にだけ咲く、淡い桃色の花でな。ほんのわずかな間だけ一斉に咲き誇り、そして短い生を終えて潔く散っていく──散り際こそが何より美しい花だった」
────『花は桜木、人は武士』
高名な僧が詠んだと言われる、狂歌の一節だ。
桜の散り際の潔さを、主君のため命を惜しまぬ武士へ重ねた歌だと聞いたことがある。
『武士たる者。忠誠心とは、かくあるべきだ』
誰もが口を揃えて、そう語っていたことをよく覚えている。
(……今でも忠誠の意味はよく判らない。それでも、桜の散り際の潔さには、自分もかくありたいと思ったものだ……)
────もっとも、その前に病で死んだのだから、我ながら締まらない最期ではあったが。
(…………情けない死に様だな)
そう自嘲していた彼女は、不安そうに覗き込むラファシアンと目が合い、ようやく我へ返った。
「……大丈夫ですか?」
「ああ、何でもない。少し思い出に浸っていただけだ」
「そう……ですか。それなら、いいのですが……」
何となく、聞いてはいけないことへ触れてしまったような罪悪感を覚えながら、ラファシアンは西洋風東屋へ彼女を促す。
そこに備え付けられた円卓には、シエルが手際よく用意した紅茶がすでに並べられていた。
傍らに控えるシエルへ小さく礼を告げ、二人は席へ腰を下ろす。
「何かお困りごとでもあるのなら、私でよければ相談に乗りますが……」
「い、いや……! 心配事などない……! 大丈夫だ、ラファ様……!」
心底案じるような彼の声音に、リュシエリアーナは慌てて首を横へ振る。
彼がここまで心配するほど、自分は暗い顔をしていたのだろうか。
もともと優しい気質で、両親譲りの心配性ゆえか、不安げな表情を崩さないラファシアンを安心させるように、リュシエリアーナは明るく話題を変えた。
「ああ、そういえば……! 心配事ではなく報告があったのだ。聞いてくれ、ラファ様。父上が、ようやく神殿騎士になることを許してくれた……!」
「!」
「ただ、母上からは、婚約者であるラファ様の許可を得てからと釘を差されている。それでラファ様に────」
嬉しそうに彼へ視線を向けた、その瞬間。
目の前にいたラファシアンは、まるで衝撃を受けたかのように目を見開き、呆然と彼女を見つめ返していた。
思わず言葉を止め、リュシエリアーナは不思議そうに首を傾げる。
「ラファ様……? どうした?」
「! あ、ああ……いえ。──それは……とても喜ばしい報告ですね」
取り繕うようなその微笑には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
その様子に、リュシエリアーナはわずかに視線を落とし、意を決したように彼へ向き直る。
「……ラファ様。私が神殿騎士になることに何か問題があるのなら──」
「ああ、いえ……! そういうわけではないのです……! ただ、その……あまりにも神殿騎士になることを望んでおられるようでしたので、何か理由がおありなのかと……」
「理由……?」
「……やはり、猊下へ忠誠を誓っておられるのですか?」
静かに投げかけられた問いに、リュシエリアーナは困惑した。
その問いに対する答えを、自分は持っていなかったからだ。
(……私は、なぜ神殿騎士になりたかったんだろうか……?)
剣術を極めたかったから────。
それが一番の理由なのは間違いない。
騎士になれば、剣を磨く大義名分が手に入る。
だが、それならば王国騎士団でもよかったはずだ。
(そうだ……神殿騎士にこだわったのは、陛下よりもリオンおじ様のほうが、騎士になることへの反発が少ないと判断したからだ)
それは、とても忠誠心などと呼べる高尚な理由ではない。
もちろん、リオンフェルドに忠誠を誓う価値がないわけではない。
人を揶揄する悪癖こそあるものの、それ以上に慈悲深く高潔で、心から尊敬できる人物だ。
だからこそ兄は、彼へ忠誠を誓い、その剣となり盾となることを望んだ。
だが、自分にはどうしても、その『忠誠心』という感情が湧いてこないのだ。
彼へ抱く感情は、ただ一つ。
親愛の情だけ────。
(……いや、そもそも忠誠心というのは、どういう感情なのだろうか──?)
そう思案に耽っていたリュシエリアーナは、不思議そうに自分を見つめるラファシアンへと、ゆっくり視線を向けた。
「……ラファ様は、忠誠とはどういうものだと思う?」
「!」
思いがけない問いに、ラファシアンは目を見開く。
少しだけ思案するように視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……『忠誠』の形は、人によって様々でしょう。命を賭して守り抜くことを忠誠と呼ぶ者もいれば、肩を並べ、互いに背を預け合う関係を忠誠と呼ぶ者もいる。主の判断に常に付き従うことだと言う者もいれば、道を誤ればそれを正すことこそ忠誠だと言う者もいます」
一拍置いて、穏やかに微笑んだ。
「……結局のところ、『これこそが忠誠だ』と言い切れる明確な形は、ないのかもしれませんね」
その答えを受けて、リュシエリアーナは静かに考え込む。
やがてもう一度、彼へと視線を向けた。
「では、ラファ様の忠誠とは何だ?」
「! ……私、ですか?」
少しだけ口ごもり、ラファシアンは彼女を見つめる。
そして静かに目を伏せた。
「──私は、国に忠誠を誓った身です。この身が朽ち果てるまで、国のため、民のために尽力する。それだけです」
「それは……実にラファ様らしいな」
くすりと笑いながら、リュシエリアーナは改めて思う。
自分の中には、力を振るうための大義名分が、何一つない。
空っぽのまま、ただ力だけを求め続けている。
(なぜだろう……ひどく──虚しいものだな)
前世の時には、決して抱かなかった思いだ。
リュシエリアーナは肩を落として、小さく嘆息を漏らした。
「私に、忠誠の意味が判る時が来るのだろうか……?」
独白のような小さな呟きが、風に乗ってラファシアンの耳へ届く。
彼は何か言葉をかけようとして、わずかに唇を開いた。
だが、その言葉は飲み込まれ、代わりに穏やかな声音が響く。
「……もう夕暮れ時です。そろそろ、マレグレン邸までお送りしましょう」
**
「ありがとう、ラファ様」
礼を告げながら、リュシエリアーナはマレグレン邸の前で止まった馬車から、ラファシアンのエスコートを受けて地面へ降り立った。
「次は、いつ会える?」
「……ご連絡します」
「判った。待っている」
朗らかに言い残し、屋敷へ向かって歩き出す彼女の背へ、ラファシアンは柔らかな声をかけた。
「──リュシエリアーナ嬢」
「!」
振り返る彼女へ、穏やかに微笑む。
「神殿騎士の件ですが……私は、いつでも貴女の味方です。どうか、ご自身の思うようになさってください」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、リュシエリアーナの瞳は燦々と輝いた。
「ありがとう、ラファ様……!」
満面の笑みを浮かべ、屋敷へ駆けるように戻っていく彼女の後ろ姿を、ラファシアンは慈しむように見送りながら──それ以上に深い寂寥を胸に抱えて眺めていた。
「──よろしかったのですか?」
その背へ、従者が静かに声をかける。
「…………何の話だ」
「公女殿下へ、お伝えになるおつもりだったのでしょう。──五日後には王都を発ち、辺境伯領へ戻ることを」
シエルの言葉に、ラファシアンは深く息を吐いた。
「……言って、どうする」
小さく呟き、視線を落とす。
「彼女はようやく、神殿騎士になるという夢を叶えられる。……言えば、彼女を困らせるだけだ」
ラファシアンは無意識に、耳元で揺れるイヤーカフに触れた。
──本当は、ついて来てほしいと伝えるつもりだった。
婚約者同士であれば、領地が遠く離れている場合には婚前同居も認められる。
もちろん両家の許可は必要だが、それもマレグレン公爵へ願い出るつもりだった。
だが────。
(あれほど嬉しそうに夢を語る彼女へ、『夢より私を選んでほしい』とは、とても言えない)
神殿騎士になるということは、王都に留まるということだ。
彼女がその道を選ぶなら、辺境伯領へ連れて行くことはできない。
「……会おうと思えば、いつでも会える」
そう言い聞かせるように、静かに呟く。
「彼女には、自分の信じる道を歩んでほしい」
まるで自分自身を納得させるようなその言葉に、シエルは諦観を滲ませながら息を吐いた。
(……ご自分のことよりも、相手の幸せを願うラファシアン様の優しさには、いつもながら頭が下がる)
だが、その優しさこそが、彼自身の幸せを遠ざけている──そう思えてならなかった。
幼い頃から尊敬し、誰よりも幸せになってほしいと願ってきた主の背中を見つめながら、シエルは静かに口を開いた。
「……ラファシアン様」
振り返らない主へ向け、静かに告げる。
「公女殿下の夢を優先させたいお気持ちは、痛いほど理解しております。ですが──人には、決して譲ってはならないものというのがあるのですよ」
その声には、諭すような響きと、切実な願いが滲んでいた。
「──どうか、その見極めだけは、お誤りになりませぬよう」




