メリッサの逆襲・前編
────ラファシアンが王都を出立するまで、あと四日。
メリッサ=ヴォーテンは、心の奥底に巣食った得体の知れない感情に翻弄され、夜も眠れない日々を過ごしていた。
辺境伯と公女の婚約発表の夜会から、すでに二日。
紅茶を飲もうと持ち上げたカップは、途中で止まったまま。
メリッサはぼんやりと窓の外を眺めている。
脳裏に浮かんでは消えるのは、あの日、自分を救ってくれた辺境伯の姿ばかりだった。
(……どうして、こんなにも彼の姿が頭から離れないのかしら……?)
何をしていても、ふとした瞬間に思い出す。
困惑したような彼の表情。
自分を抱きかかえてくれた温かな腕。
どこまでも礼儀正しく、紳士的な振る舞い。
そして、礼を告げるために再び彼を訪ねた時。
悲鳴が上がった瞬間でさえ、迷うことなく自分を庇うように前へ出てくれた、凛々しい後ろ姿────。
そのすべてが、メリッサの心を揺さぶっている。
(この感情は、一体何なの……?)
胸元へ手を添え、困惑したように息を吐いた、その時。
控えめなノックの音が響いた。
「メリッサお嬢様。マドリナ伯爵家のご子息がお見えになっております」
「……すぐに行くわ」
深いため息を落としてカップを置き、メリッサは応接室へ向かう。
──なぜだろう。
いつもならば、誰かが自分を訪ねてくることを楽しみにしていたはずなのに。
今日ばかりは、その足取りが妙に重い。
理由も判らぬまま、メリッサは応接室の扉を軽く二度叩き、開く。
「ああ……! メリッサ嬢……! 相変わらず、とてもお美しい……!」
「……ありがとう」
無感動な淡々とした返事を、彼女は返す。
マドリナ伯爵令息は、自分に執心している男の一人だ。
髪色も濃茶で美しく、こうして屋敷を訪れては、いつも甘い言葉を囁いてくる。
以前の自分ならば、それを当然のように受け取り、満たされた気分に浸っていた。
自分はそれだけ称賛されるべき存在なのだと、疑うことすらなかった。
なのに────。
今は、何も感じない。
どれほど甘い言葉を並べられても、ただ空虚に響くだけだ。
そんなメリッサの様子など気にも留めず、マドリナ伯爵令息は大げさなほど心配そうな表情を浮かべた。
「そういえば、辺境伯と公女殿下の婚約発表の夜会では、大変な目に遭われたそうですね。……もしや、その腕のお怪我もその時に?」
「え、ええ……」
「それはなんと痛ましい……! もし私が貴女のお側にいたならば、身を挺してお守りしたというのに……!」
その言葉に、メリッサの眉がわずかに動く。
(……よく言うわ。私の取り巻きの中にいたくせに、真っ先に逃げたじゃない。私が気づいていないとでも思ってるの)
あの夜。
悔しさを噛み締めながら帰路につこうとした、その直前まで、自分を持ち上げ、賛辞を送っていた者たちは、確かに周囲にいた。
けれど、あの騒動が起きた瞬間。
誰一人として、自分を助けようとした者はいなかった。
(こんな人たちの言葉に浮かれていたなんて……)
かつての自分は、なんて愚かだったのだろう。
耳触りのいい言葉ばかりを信じて、その人間の本質など何一つ見ていなかった。
メリッサは小さく息を吐き、目の前の男へ冷たい視線を向ける。
「……申し訳ありませんけれど、今日は帰ってくださらない? 私、少し体調が優れませんの」
「え……? メ、メリッサ嬢……!?」
戸惑う声を背に、メリッサは返事を待つことなく応接室を後にする。
自室へ向かう途中。
またしても、脳裏に浮かぶのはあの人の姿だった。
(なぜかしら……)
ふと足を止める。
(以前は、マドリナ伯爵令息の容姿を美しいと思っていたはずなのに……今は、なぜか醜く感じるわ)
容姿だけではない。
仕草も、言葉も、表情も。
何もかもが薄っぺらく感じられる。
それに比べて、辺境伯は────。
一挙一動、そのすべてに品格があった。
まるで『美しい』という言葉そのもの────。
「……!?」
思わぬ思考が顔を出して、メリッサ自身、驚愕したように目を大きく見開く。
(ま、待ちなさい……! メリッサ……! 何を考えているの……!?)
彼は『世界で最も醜悪な辺境伯』なのだ。
どう転んでも、美しいなどと感じるはずがない。
これはきっと、命を救われたことで記憶の中の彼を過剰に美化しているだけだ。
そうに違いない。
もう一度会えば、きっと元に戻るはず────。
(……でも、会いに行く理由がないわ)
何せ、婚談の儀では散々な言葉を投げつけたのだ。
今さら、どんな顔をして会えばいいというのだろう。
そう考えた瞬間。
ふと、大切なことに気づく。
────自分はまだ、命を救ってもらった礼を告げていない。
(そうだわ……!)
メリッサは顔を上げる。
(私はこれでも侯爵令嬢よ。命の恩人に礼を尽くさないなんて、淑女として許されることではないわ……!)
曇っていた顔に、一筋の光を得たような輝きが灯る。
メリッサはすぐさま侍女の名を呼んだ。
「メアリー! 今すぐ身支度を整えてちょうだい!」
「! ですが、お嬢様。今のお姿でも十分整っておりますが……」
「これではだめよ……! もっと綺麗にしてちょうだい。彼の前でみっともない姿は見せられないわ……!」
「彼……?」
いつもとは違う主の様子に、侍女は眉を寄せる。
メリッサは、誰かに恋心を抱くような女性ではない。
周囲から向けられる好意を楽しむことはあっても、特定の誰かへ執着することなどなかったはずだ。
──なのに、この浮かれよう。
怪訝な表情を見せる侍女の戸惑いなど気にも留めず、メリッサは瞳を輝かせている。
「ああ、それと……! 彼のお屋敷へ、今から伺うと先触れを出しておいて」
「あ、あの……お嬢様。その『彼』というのは、どちらのご子息でございますか?」
「決まっているじゃない」
メリッサは迷うことなく、朗らかに告げた。
「フォルスタート辺境伯閣下よ」
**
ラファシアンは辺境伯領へ戻る準備を進めながら、王都に滞在した約ひと月を思い返していた。
当初は、これほど長く滞在することになるとは思ってもいなかった。
教皇の召喚に応じて王都へやって来たものの、待っているのは度重なる婚約破棄への叱責だろうと思っていた。その場で今後の婚約を辞退したい旨を教皇へ申し出て、そのまま領地へ戻り、生涯独り身で過ごす覚悟を決めていた。
それなのに──。
どういうわけか、初恋の相手との婚約という、信じ難い幸運が現実となって目の前へ舞い降りてきている。
その奇跡のような出会いが、今でも信じられない。
(……リュシエリアーナ嬢と出会ってから、私の人生は嘘のように変わった)
フォルスタート家の血脈に課せられた宿命に従い、孤独なまま国と民へ忠誠を捧げ、生涯を終えるはずだった。
だが今は、その忠誠以上に大切なものが、胸の奥で静かに育っている。
(その彼女と会えるのも、あとたったの四日……)
いや、今日は彼女と会う約束を交わしていない。そして四日後の朝には王都を発つ。
彼女と過ごせる時間は、実質あと二日しかない。
(……まるで、幸福な夢から醒めるようだな)
思わず深いため息を落とした、その時。
控えめなノックの音が執務室に響いた。
「失礼いたします、ラファシアン様。準備は順調に進んでおりますか?」
扉を開けて顔を覗かせたのは、補佐官のシエルだ。
彼を含めた護衛騎士五名の少数精鋭とともに、領地から王都までひと月かけて旅をしてきた。彼らにとっても、当初予定していた十日を大きく超える滞在は予想外だったに違いない。慣れない王都での生活に苦労も多かっただろう。
ようやく帰れるとあって、彼らの顔は安堵に満ちていた。
そんな彼らの顔を思い浮かべながら、ラファシアンは答えた。
「ああ。……とはいえ、もともとは十日ほどの滞在予定だったからな。準備というほどの荷物もないが」
「確かに、その通りですね」
シエルは笑みを浮かべ、持っていた茶器を卓へ置くと、慣れた手つきで紅茶を淹れ始める。
「旦那様と奥様は、明日『転移の門』で帰られるそうですよ」
「ああ、今朝聞いた」
「息子も一緒に帰ればいいものを、と呆れておられました」
「………………それも、今朝聞いた」
ばつが悪そうに返す主へ、シエルはくすりと笑う。
「本当に我が主は、頑固なほど生真面目ですね。少しは貴方に付き従うこちらの身にもなってください」
「……苦労をかけるな」
「自覚がお有りなら、褒美を頂きませんと」
冗談めかして言うと、シエルは大げさな所作で胸へ手を当て、一礼する。
一拍置いて、どちらからともなく笑い声が漏れた、その時だった。
「あの……」
「!」
開け放たれた扉の向こうから、侍従が申し訳なさそうに顔を覗かせていた。
「ご歓談中、申し訳ございません。実は先ほど訪問の先触れがございまして……」
「訪問? 私をか?」
ラファシアンは、訝しげに問い返した。
醜いと蔑まれる自分を、王都の貴族が訪ねてくることなど、これまで一度としてなかったからだ。
──少なくとも、リュシエリアーナではない。
侍従の困惑した様子が、それを物語っていた。
戸惑う主に代わり、シエルが問い掛ける。
「どなたです?」
「それが……その……」
言い淀む侍従は、二人の視線に耐えかねたように観念して口を開いた。
「………………ヴォーテン侯爵令嬢です」
「!」
その名に、二人同時に目を見開く。
だが、次の瞬間。
「今すぐ塩を撒きなさい……! 姿を見かけたら即刻追い出すように……!」
返ってきたのは、シエルの不機嫌極まりない一言だった。
「……こら、シエル。落ち着きなさい」
苦笑しながら窘める主の言葉にも、シエルは鋭い視線を向けたままだ。
「これが落ち着いていられますか!? あのヴォーテン侯爵令嬢ですよ!? 婚談の儀でどれだけラファシアン様へ暴言を吐いたか、もうお忘れですか!?」
「い、いや……忘れてはいないが……」
「私は今でも腸が煮えくり返っております! ラファシアン様より下位貴族でありながら、侯爵家全員が無礼極まりなかった……! その家の娘になど、お会いになる必要はございません!!」
まくし立てるシエルを前に、ラファシアンは苦笑するしかない。
かつての婚談の儀でも、終始彼は自分の代わりにこうやって怒ってくれた。
宥めるのは大変だったが、その怒りはすべて自分を思ってのものだと知っている。
だからこそ、強く咎めることはできなかった。
だが──。
「……すまない、シエル。今回ばかりは私に非がある」
「──え?」
「……彼女を助けるためとはいえ、許しもなく身体に触れてしまったのだ。おそらく、その抗議だろう」
その説明に、シエルはぽかんと目を瞬く。
「…………それがなぜ、ラファシアン様の非になるのです?」
「? だから、許しもなく────」
「助けられたのですよね? ラファシアン様が! 彼女を!」
「あ、ああ……そうだが……?」
「命を助けるための行為を、『非がある』とは申しません!! ラファシアン様は何でもご自分を悪く考える、その癖をいい加減おやめください!!」
声を荒げるシエルに、ラファシアンはもう、たじたじである。
苦笑を落としつつ、ラファシアンは小さく息を吐いた。
「……だがな、シエル。彼女はご令嬢で、私は男だ。どのような事情があろうとも、女性にとって許しなく男に触れられることは、我々が思う以上に不快なものだろう。……まして私は醜い。その嫌悪は計り知れないだろうし、礼を欠いたことに違いはない」
その返答に、シエルは思わず口を開いたまま固まる。
やがて、彼は諦観と降参を含めた深いため息を落とし、文字通り頭を抱えた。
「貴方は本当に……真面目というか、お人好しというか、自己否定の塊というか……!」
それが彼の長所であることも判っている。
だがそれ以上に、心配の種が尽きないのだ。
「……えっと……シエル?」
頭を抱えた彼の顔を覗き込むように、ラファシアンは腰をかがめる。
戸惑う主の声に、シエルは勢いよく顔を上げた。
「判りました!! 屋敷へお通ししても構いません。ただし、一つ条件があります!!」
「じ、条件……?」
「ヴォーテン侯爵令嬢とお会いになる時は、必ず私も同席します!!」
──再び暴言でも吐こうものなら、今度こそ容赦はしない。
そう言わんばかりの覚悟が、その表情からありありと窺えて、とても断れる空気ではない。
ラファシアンは降参したように、小さく呟いた。
「…………できるだけ、お手柔らかに頼む」
**
「フォルスタート辺境伯閣下……! 突然のご訪問にもかかわらず、お時間をいただき、本当にありがとうございます……!」
侍従に案内されたメリッサは、応接室の扉が開き、ラファシアンの姿を認めるや否や、眩いばかりの笑顔を浮かべ、弾んだ声で感謝を述べた。
その予想だにしない反応に、ラファシアンとシエルは揃って目を見開く。
「あ……え、ええ……! ようこそおいでくださいました、ヴォーテン侯爵令嬢」
我に返ったラファシアンは慌てて立ち上がり、対面のソファへと手を差し向けた。
「どうぞ、お掛けください」
メリッサが腰を下ろすのを見届けると、ラファシアンも静かに着席する。
そして、一息置いてから深く頭を下げた。
「……申し訳ございません、ヴォーテン侯爵令嬢。本来であれば私から侯爵家へ正式に伺い、お詫び申し上げるべきでした。……無作法を、どうかお許しください」
「え……?」
突然の謝罪に、メリッサは困惑して眉を寄せる。
「二日前の夜会で、許しもなく貴女のお身体に触れてしまいました。そのことを、改めてお詫び申し上げます」
「──!?」
再び深々と頭を垂れるラファシアンの姿に、メリッサは慌てて立ち上がった。
「ち、違います……! 謝罪を求めて参ったのではございません……! どうか、お顔をお上げくださいませ……!」
「え……?」
その言葉に意表を突かれて、ラファシアンとシエルは揃って目を丸くする。
二人とも、彼女は抗議に来たのだと、微塵も疑ってはいなかった。
婚談の儀で見せたあの苛烈な態度を思えば、命を助けられた程度で心証を変える人物には到底思えなかったからだ。
だが。
先ほどからの言葉遣いも、立ち居振る舞いも、婚談の儀の彼女とはまるで別人のようにしか見えない。
ラファシアンとシエルは不思議そうに顔を見合わせ、改めてメリッサへ視線を向ける。
「……僭越ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
控えめに切り出したのはシエルだった。
「本日は、我が主にどのようなご用件で?」
問われたメリッサは、恥じらうように視線を伏せる。
「そ、その……! た、助けていただいたお礼を、まだお伝えできておりませんでしたので……!」
そう答えたかと思えば、頬をほんのりと染めながら、熱を帯びた眼差しをラファシアンへ向けた。
「あの時は本当に、ありがとうございました……! このご恩は!決して忘れませんわ……!」
メリッサの一連の様子に、シエルは直感する。
(……………………ラファシアン様、よりにもよってヴォーテン侯爵令嬢を落とされたか……)
誰が見ても判る。
彼女の表情は今まさに、恋する乙女の顔だ。
本人に自覚があるかどうかは別として、ラファシアンへ向ける熱を帯びた視線は、『恋』という言葉以外では説明がつかない。
そんな判りやすい好意を前にして──。
「わざわざお礼を伝えに来てくださったのですか……! ありがとうございます」
当のラファシアンは、自分へ好意が向けられているなど露ほども思わず、純粋に礼を言いに来てくれたのだと受け取り、柔らかな笑顔を返していた。
その笑顔を受けたメリッサはさらに頬を染め、居たたまれなくなったように俯く。
そんな彼女を見て、ラファシアンは「どうかなさいましたか」とでも言いたげに、不思議そうに小首を傾げていた。
その光景に、シエルはとうとう堪え切れず、大きくため息を吐いた。
(貴方は本当に……純粋というか、鈍感というか、自己肯定感がないというか……!)
これだけ判りやすい好意に、なぜ気づかない。
(…………まあいい。どのみち、ラファシアン様はもう公女殿下の婚約者だ)
今さら彼の魅力に気づいたところで、もう遅い。
──仮にもっと早く気づいていたとしても、彼女のような気性の激しい女性と主を結ばせるつもりなど、毛頭ないが。
その本音を胸の奥へ押し込み、シエルは営業用の笑みを浮かべる。
「さあ。立ち話も何ですから、お二人とも、どうぞお掛けください」




