忠誠の意味・前編
前世の彼には、主がいなかった。
無論、主君からわずかな土地を与えられた弱小大名の家系だ。その主君こそが、本来なら忠誠を誓うべき相手であり、彼もまた、そのために戦に明け暮れる日々を送っていたことに違いはない。
だが、心から忠誠を誓う相手だったかと問われれば、答えは否だ。
何せ、彼がその主君と顔を合わせたのは、たった一度だけ。
彼の剣術の腕と数々の武功を耳にした主君は、彼に謁見を許した。
だが想像とは違い、少年と見紛うほど小柄な彼の姿を見た途端、興味を失ったように短い労いの言葉だけを義務的に与え、以後、顔を合わせることはなかった。
──たった、それだけの出来事。
そこに感慨へ浸る余韻も、光栄に思う理由もない。
彼はただ、病弱だと罵られ続けた己の存在価値を、周囲へ示すためだけに力を求めた。
誰かを守るためではない。
忠誠を誓う相手もいない。
ただ刀を振り、剣術を極める。
そして兵法を修め、知略をもって敵を制する。
そのことだけに、生涯を懸けて執着した。
だからこそ、人生を終える最期の瞬間まで、彼は理解できなかった。
忠誠という言葉が持つ、本当の意味を。
そして、心の伴わぬ力だけを追い求めることの、決して報われぬ虚しさを────。
**
「本っ当に、申し訳ございません……!!」
婚約発表の夜会、その翌日。
マレグレン公爵邸の応接室に、リュシエリアーナの絞り出すような謝罪の声が響いた。
卓へ両手をつき、今にも土下座をしそうな勢いで額を押しつける娘へ、両親は揃って諦観混じりのため息を漏らす。
「……まったく、お前というやつは……。正直、生きた心地がしなかったぞ」
「そうですよ、リュシー。どれだけ親を心配させたら気が済むのです? これでは心臓がいくらあっても足りないわ……」
二人は揃って頭を抱え、深いため息をつく。
苦虫を噛み潰したような渋面の中に、娘が無事だったことへの安堵を滲ませる両親を、リュシエリアーナは訝しげに見つめた。
「い、いえ……! 私が謝罪をしているのはそういうことではなく……! その……マレグレン公爵家の威厳を、私が失墜させてしまったというか……」
気まずそうに視線を逸らし、口にするのも憚られると言いたげに、しどろもどろと言葉を紡ぐ娘の姿に、両親は揃って目を瞬かせた。
そして互いに顔を見合わせると、どちらからともなく小さく笑みを零す。
「そのことならば問題はない」
「……え?」
「むしろ称賛の声が、あちらこちらから上がっていますよ、リュシー」
「さすがは王家に連なる公爵家の娘だと、皆、口を揃えてお前の武功を褒め称えておった! 私も鼻が高いというものだ」
「い、いえ……! ですが……王族過激派の反乱分子の存在を、誰にも悟られず排除せねばならなかったのではありませんか……? 結局、それも白日の下に晒されて────」
「何を言う、リュシー!」
己の失態を恥じ入るように語る娘の、自嘲を滲ませた声を、公爵の闊達な笑い声が痛快に吹き飛ばした。
「勘違いするでないぞ。──あれは、『絶世の美女である公女に執着した、愚かな男の歪んだ復讐劇』だ」
「……………………はい?」
父の口からあまりにも予想外の言葉が飛び出して、リュシエリアーナは思わず目を瞬かせる。
つい数日前、父から聞かされたのは『王族過激派による、教皇の権威失墜を狙った謀略』ではなかっただろうか。この襲撃が露見すれば、教皇が勅書を行使してまで婚約を推し進めたことへの批判が集まる──そう聞いていたはずだ。
父の真意を測りかね、小首を傾げる娘へ、両親はくすりと笑みを零した。
「そういう形へ収まったのだ。お前と辺境伯が、裏で侵入者をすべて排除してくれたからな。露見したのは、お前に異常なほど執着したジザリの歪んだ愛憎だけ。参列者から見れば、妄執に囚われた男が一人で暴走した──それだけの話だ。これでは猊下に対する批判など出ようはずもない」
くつくつと笑いながら、マレグレン公爵は昨日の一部始終を思い返した。
事態は予想以上に大きくなったが、それ以上に上手く収束したと言わざるを得ない。
リュシエリアーナと辺境伯が、誰にも悟られることなく侵入者を制圧したこと。
その結果、ジザリは水面下で策を巡らせる機会を失い、人目も憚らず本性を露わにして、公女への歪んだ執着を自ら晒したこと。
そして、その暴走したジザリを、他ならぬ公女と辺境伯が救ってみせたこと。
──何よりも一番の功労は。
人身御供にされたと思われていた公女が、その実、辺境伯へ偽りのない信頼と情を寄せていることを、誰の目にも明らかにできたことだろう。
(……あれだけ見せつけられれば、誰も猊下の判断を蛮行だとは断じまい)
リュシエリアーナは終始、辺境伯を気遣い、常にその隣へ寄り添っていた。
社交界では今や、教皇の婚約推進の勅書ですら、公女たっての願いを後押しした結果ではないか──そんな噂まで囁かれ始めている。
(……辺境伯の、想像を絶する氷魔法の威力に、皆一度は恐れ慄いた。だが、リュシーの機転で微笑ましい一幕にすり替わったからな)
あれが決定打になったことは、もはや疑いようがない。
──とはいえ。
(…………親としては、複雑な気分だ)
これまで異性にまるで興味を示さなかった愛娘が、辺境伯に対してだけは隠そうともせず親愛を向けている。
喜ばしい。
喜ばしいことではあるのだ。
だが同時に、胸のどこかがひどく寂しい。
(……これが、子離れできていないということなのだろうか)
そう思わずにはいられない。
たまらず小さく肩を落とし、自嘲めいた嘆息を漏らす公爵の隣で、夫の内心を察した公爵夫人は、どこか微笑ましそうに苦笑を浮かべている。
そんな親心など露ほども知らぬリュシエリアーナは、不意に表情を硬くして、静かな声で問いかけた。
「ジザリ──グラウザー侯爵家の処罰はどうなったのです?」
ジザリの実兄の様子を見る限り、おそらくグラウザー侯爵家は今回の件と無関係だろう。
グラウザー侯爵家は王族派の主要貴族であり、その中でも穏健派として知られている。一族ぐるみで犯行へ加担したとは考えにくい。
十中八九、ジザリ一人による犯行だろう。
──とはいえ、侯爵家からあれほどの暴動を起こした者を出したのだ。無罪放免というわけにはいくまい。
その意味を含ませた娘の問いに、公爵は一拍置き、静かにため息を漏らした。
「……ふむ。爵位剥奪という意見もあったのだがな……。結局、領地没収と伯爵位への降格が命じられた」
「! ……ずいぶんと軽い処分ですね」
あれほどの騒動を引き起こしたのだ。死者こそ出なかったとはいえ、負傷者はかなりの数に及んでいる。
どう考えても、爵位剥奪が妥当な処罰だろう。
訝しげに眉を寄せるリュシエリアーナの表情には、いかにも納得がいかないという憤りが滲んでいる。
そんな娘を見つめ、公爵はどこか複雑そうに息を吐いた。
「──猊下が、そう望まれたのだ」
「! リオンおじ様が?」
──当初、グラウザー侯爵家現当主は、爵位返還と共に、自らの命をもって罪を償うと申し出た。
それを止めたのが、他ならぬ教皇だった。
『あの場は、マレグレン公爵令嬢とフォルスタート辺境伯の婚約発表の夜会。本来ならば、皆の祝福を受け、二人の晴れやかな門出となるはずの日だった。その喜ばしい日を、血で汚す真似はしたくはない。……せっかく、あの二人が皆を守り、死者を出さずに済んだのだ。ならばグラウザー侯爵の命もまた、奪うべきではないだろう』
──そう、皆を説得したのだ。
「……リオンおじ様が、そのようなことを……」
「お前と辺境伯を思っての判断だ。納得がいかぬ気持ちも判るが、猊下の御心を汲んでやりなさい」
静かに明かされた事実に、リュシエリアーナもまた黙って頷く。
──慈悲深き教皇。
そう称えられる彼の英断には、いつもながら驚きと敬服を覚えずにはいられない。
思って、ふと気づく。
(……そうか。ラファ様の慈悲深さは、リオンおじ様によく似ているのか)
どのような状況であろうと、相手を思いやる心を決して失わない。
その底知れぬ慈悲深さと懐の深さは、まさしく教皇そのものだ。
その奇妙な一致に、『何か』が妙に腑に落ちる。
──腑に落ちたはずなのに。
肝心の、『何か』が判らない。
その答えを探るように思案に耽る娘を、両親はそうとは知らずに一瞥して、互いにそっと目配せを交わした。
そして公爵は、改まった様子で口を開く。
「リュシエリアーナ」
「!」
「……遅くなったが、約束を果たそう」
「え……?」
一拍置き、公爵は静かに告げる。
「──神殿騎士になることを、許可する」
「──!」
突然の宣言に、リュシエリアーナは言葉を失った。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
その真っ白な世界へ、父の言葉だけがゆっくりと輪郭を表していく。
そしてもう一度、脳裏に父の言葉を思い浮かべた瞬間──。
「ほ、本当ですか……!? 父上……!!」
思わず卓へ勢いよく手をつき、跳ねるように腰を浮かせる。こちらへ向けられた娘の瞳は、期待と喜びに満ち、眩しいほどに輝いていた。
──この瞬間を、十八年間ずっと夢見てきたのだ。
もう許しを得る日は来ないのではないか。
半ば諦めかけていた矢先に訪れた、この上ない吉報。
これを、喜ばずにいられるはずがない。
「もちろん、婚約者である辺境伯からも許しを得てからですよ、リュシー」
「判っております!!」
子供のように無邪気な笑顔を浮かべ、元気よく返事をする娘を、両親は目を細めて見つめる。
「確か……今日はこの後、辺境伯のご両親に会いに行くのだったな?」
「はい……! 昨日の夜会では、あの騒動で結局お会いできず、ラファ様が気を利かせて、この場を設けてくださいました」
「では、その後に辺境伯へ願い出てみなさい、リュシー」
母の言葉に、リュシエリアーナは確信する。
心の広いラファシアンならば、きっと頭ごなしに反対することはないだろう。
むしろ、自分の背を押してくれるはずだ。
夢への扉がついに開かれたことを確信し、リュシエリアーナは満面の笑みで頷いた。
「────はい!!」
**
専属侍女ヴェルに身支度を整えてもらったリュシエリアーナは、ラファシアンの補佐官であるシエルの迎えを受け、フォルスタート邸へと向かった。
馬車に揺られること十数分。
それほど離れていない場所で、馬車は静かに止まる。しばしの静寂の後、扉がゆっくりと開かれた。
その先に立っていたのは、礼服に身を包み、優雅に手を差し伸べるラファシアンだった。
「ラファ様……!」
「ようこそ、おいでくださいました。リュシエリアーナ嬢」
陽光を受けて輝く白銀の髪を揺らしながら、ラファシアンは穏やかに微笑む。
そんな彼に、リュシエリアーナも自然と目を細めた。
そして、差し出された手をそっと取り、ゆっくりとした足取りで、馬車を降りる。
地に足をつけた彼女の視界に広がったのは、辺境伯の屋敷とは思えないほど質実な佇まいの屋敷と、その玄関先で今か今かと待ちわびるように立つ壮年の夫婦だった。
「あのお二人が……?」
「ええ、私の父と母です」
答えながら、ラファシアンは彼女の手をそっと自らの腕へ導く。
あまりにも自然でさりげないその所作は、いかにも彼らしい穏やかなエスコートだ。
リュシエリアーナはくすりと笑みを零し、彼と歩調を合わせて屋敷へと歩み始めた。
屋敷へと続く道には、まるで訪問者を歓迎するように、左右へ色とりどりの花々が咲き誇っている。左手の奥には、丁寧に手入れされた庭園と、ゆったりと寛げそうな西洋風東屋が見て取れた。
小ぢんまりとしていながらも、どこか温かみのあるその屋敷は、まるでラファシアンの人柄そのものを映し出しているようだった。
「……あまり、驚かないでくださいね。リュシエリアーナ嬢」
「……?」
景色に見入っていた彼女へ、ラファシアンは不意に声をかける。
見上げれば、どこか困ったような笑みを浮かべる彼と目が合った。その様子に、リュシエリアーナは不思議そうに小首を傾げた。
その時────。
「まあ……!! なんて可愛らしいの……っ!!」
弾むような声が響いたかと思うと、次の瞬間には誰かの腕に体ごと抱き寄せられていた。
気配すら感じさせずに近づいてきたその人物に、リュシエリアーナは目を大きく見開く。
「見て……! ラファシアン……!! こんなに小さな体で大の男を投げ飛ばしただなんて、奇跡に近いわ……!」
「え……! い、いや……あの……っ!」
「………………母上。玄関先でお待ちくださいと、あれほど念を押したでしょうに……」
「だって、こんなに愛らしい婚約者を、貴方だけが独り占めするなんてずるいわ……!!」
「…………母上」
勢い余った母の行動に、ラファシアンは堪らず額へ手を当てた。
息子の婚約者を愛おしむように抱き締め、その顔を自身の胸元へ埋めさせる母の腕から、リュシエリアーナは何とか身を引き抜く。
その瞬間──。
「──!」
目の前に飛び込んできた光景に、彼女はさらに大きく目を見開いた。
そこに立っていたのは、淡い白茶の髪を持ち、壮年でありながら目を奪われるほど端正な容貌を湛えた女性だった。
「これは……! 何と美しいご婦人か……!!」
思わず漏れた心からの賛辞に、女性はぱちりと目を瞬かせる。
「あらやだ……! お世辞まで得意だなんて……!!」
「え……! い、いや……! 決してお世辞などでは────」
「……これ、レティシアン」
二人の会話へ、穏やかな声音が割って入る。
叱責でありながらもどこか優しさを含んだその声に、リュシエリアーナは振り返った。
「彼女が驚いているではないか……。少し落ち着きなさい」
嘆息を漏らしながら歩み寄ってきた、その人物────。
淡い金髪を揺らすその容姿は、歳を重ねてなお、一目で人智を超えた美しさを備えていると判る。まるでラファシアンがそのまま年齢を重ねたかのような端麗な容貌に、リュシエリアーナは思わず息を呑んだ。
そうして隣で、頭を抱えるように肩を落とす、一際壮麗なラファシアンを見上げる。
(……道理で、ラファ様の容姿が神がかり的に美しいわけだ)
彼の家族は皆、髪色こそ淡いものの、その容貌は筆舌に尽くしがたいほど美しい。
美男美女の血筋を受け継いでいるからこそ、これほど完成された美貌を授かったのだろうか。
一人得心している彼女の心中など知る由もなく、ラファシアンは呆然と立ち尽くす彼女へ、申し訳なさそうに声をかけた。
「……申し訳ありません、リュシエリアーナ嬢。母には何度も釘を差したのですが……彼女は可愛いものに目がなくて……」
「まあ……! そんなことはないわ、ラファシアン。醜いと言われる貴方のことだって、私は愛おしくて仕方がないのよ」
「──!」
思わぬ母の一撃に、ラファシアンは狼狽え、耳朶まで赤く染めながら俯く。
「は、母上……!!」
「貴方は昔から、照れ屋なところが可愛らしいわ」
「……これ、レティシアン」
息子で遊ぶ妻を、父は嘆息を漏らしながら窘める。
そんな普段とは違う、『息子』としてのラファシアンの姿を、リュシエリアーナは微笑ましさと共に、稀有な宝物でも見つけたかのような眼差しで見つめていた。
(……よい仕事をしておられる、母御どの)
親指を立てたい衝動を必死に堪えながら、心中で惜しみない賛辞を送る。
そんな彼女へ、父は申し訳なさそうな視線を向けた。
「……申し訳ない、公女殿下。騒々しいお迎えになってしまったことを、お詫びいたします」
頭を下げる父の謝罪に、リュシエリアーナは静かに首を横へ振った。
謝罪を受ける理由など、どこにもない。むしろ、このひとときは褒美と言ってもいいくらいだ。
礼を述べたいほど満ち足りた気持ちで、リュシエリアーナは満面の笑みをフォルスタート一家へ向けた。
「いいえ。どうかお気になさらないでください、フォルスタート卿。お二人がどれほどラファ様を慈しみ、大切に育ててこられたのか。それがよく伝わってきて、とても安堵しております」
「──!」
思いがけないその言葉に、夫妻は揃って目を見開く。
その声音には、ラファシアンを案じ、慈しむ想いが、何一つ飾ることなく滲んでいる。
『醜い』と蔑まれ続け、それでも変わらぬ優しさを失わずに育った息子を、彼女は誰よりも理解しようとしてくれている。
その事実が、二人には何よりも嬉しく、奇跡だと思えるほど有難い。
呆然とリュシエリアーナを見つめる夫妻へ、彼女は柔らかく微笑んだ。
「それと、私のことはどうか、リュシエリアーナとお呼びください」
その申し出に、二人は穏やかな笑みを交わし、小さく頷く。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない。私はラファシアンの父、ミシェノヴァ=フォルスタートと申します。そして、こちらが私の妻、レティシアンです」
丁寧に名乗り、端正な所作で一礼して迎え入れる夫妻へ、リュシエリアーナもまた、美しいカーテシーで応える。
「改めまして。私はリュシエリアーナ=マレグレンと申します。どうか末永く、よろしくお願いいたします」




