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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う  作者: 枢氷みをか
第一章・漆黒の公女と白銀の辺境伯

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婚約発表の夜会・終編

 ジザリは、濃い霧の中で焦っていた。


 あの謎の液体を飲み干した直後、今まで一度たりとも感じたことのないほどの魔力が、体の隅々まで満ち溢れる感覚に支配された。


 まるで、自分という器に収まりきらないほどの力が、内側から湧き上がってくるようだった。


 これならば、あの国随一と言われる魔法の手練──氷の辺境伯ですら、容易く凌駕できる。


 多少、制御が利かないことなど問題ではなかった。

 その力によって周囲の貴族たちが傷つこうが、知ったことではない。


 重要なのはただ一つ。


 自分が圧倒的な力を手に入れたという事実だけだ。

 能力の大部分は扱えている────その事実さえあれば、何も問題はないはずだった。


 ──なのに。


(力が……落ちてきている……!)


 全身を満たしていたはずの魔力が、少しずつ失われ始めていた。


 いや。

 失われているだけではない。


 まるで、燃え盛る炎が最後の輝きを放つように、残された力を無理やり引き出しているような感覚だった。


 呼吸が荒れる。

 心臓が痛い。


 獣のように口端から零れ落ちた(よだれ)が、床へと落ちる。

 足元は覚束なくなり、立っているだけでも身体が重かった。


(このまま……私は死ぬのか……)


 魔力暴走を起こせば、その先に待っているものは確実な『死』だ。


 それ自体は、大したことではない。

 あの得体の知れない男から受け取った謎の液体を飲み干したことに、何ら後悔はなかった。

 むしろ、あれがあったからこそ、ここまでの力を得ることができたのだ。


 だが────。

 何より許し難いことがある。


 公女を殺せず、自分だけが死ぬこと。


 それだけが、耐え難いほど不愉快だった。


「出てこい!! 公女よ!! 他の者がどうなってもいいのか……!?」


 ジザリは周囲を見渡しながら、怒声を響かせる。


 張り上げた声と共に吐き出された息は、白い吐息となって宙へ浮かぶ。

 その吐息が霧に紛れ、姿を消した瞬間──。


「!」


 視界の端で、何かが光った。

 反射的に、ジザリは顔を向ける。


 そこにいたのは────。


「……そんなに私が欲しいか? ジザリよ」


 白い霧の中で、美しい姿のまま凛然と立つ公女だった。


 ようやく見つけたその姿に、ジザリの瞳が狂気じみた光を宿す。


「ああ……!! 欲しい……!!」


 それは、歓喜に震える声だった。


「貴女をこの手に収めて……そして、この手で八つ裂きにしてやりたい……!! きっと素晴らしい光景になるだろう……!! 貴女のその白磁のような素肌に、鮮血はきっとよく映える……!」


 視線が、リュシエリアーナの白い肌へ絡みつく。

 もう彼の中に、正常な思考など残っていないのだろう。


 常軌を逸した言葉に、リュシエリアーナは小さく息を吐いた。


「……判った。お前のもとへ行こう」

「──!」

「だが、約束してほしい」


 そこで一度、言葉を切って、真っ直ぐにジザリを見据えた。


「ラファ様にだけは、手を出さないでくれ」

「!」


 一度、歓喜に輝いたジザリの瞳は、彼女のその嘆願に、わずかに濁る。


「……辺境伯を? ここにいる全員ではなくてか?」

「ああ、ラファ様だけだ」


 迷いなく告げるその言葉が、ジザリには何よりも癇に障った。


 これは、『公女から辺境伯へ向けた愛の言葉』だ。

 自分のもとへ来ると言いながら、彼女の心は最後まで自分ではなく、あの男を選んでいるのか。


 胸の奥が焼けるように熱くなる。

 怒りで、腸が煮えくり返りそうだった。


 だが、ジザリは不承不承(ふしょうぶしょう)とそれを呑み込んだ。


(……まあいい)


 公女を殺して、自分も死ぬ。

 そうすれば、あの辺境伯は二度と公女を手に入れることはできない。


 自分がいなくなった世界で二人が結ばれるくらいなら、この方がずっといい。


 ジザリはゆっくりと口元を歪め、公女へ向けて笑みを返した。


「判った。約束しよう……!」


 ジザリは両手を広げるようにして告げる。


「さあ、私のもとへ来るのだ、公女よ……!!」


 リュシエリアーナは一度、不満そうにしかめた顔を伏せ、覚悟を決めたようにゆっくりと歩き始めた。


 一歩。

 また一歩。


 霧の向こうから、少しずつ彼女の姿が近づいてくる。

 俯いているせいで、その表情までは判らない。


「ああ……! いい子だ、公女よ……!」


 もう少しで。

 もう少しで、彼女は自分のものになる。


(──あと三歩)


 ジザリは、歪んだ笑みを浮かべた。


(こちらへ来た瞬間、その華奢な体を貫いてあげよう)


 一歩。

 二歩。

 ────三歩。


「これで終わりだ、公女よ!!」


 瞬間。

 ジザリは制御できる限界の黒い閃光を、一直線に彼女の腹部へ放った。


 二人の距離は、あまりにも近い。

 いくら公女といえど、この距離では避けられないだろう。


 ────黒い閃光が彼女の腹部を貫いたのは、一瞬の出来事だった。


「は……はは……!」


 濃霧の中、ジザリの乾いた笑い声が響く。


 肉を裂く感触は、想像していたものよりも妙に硬い。

 だが、そんな些細な違和感など、悲願を果たしたジザリにとっては、すでにどうでもいいことだ。


「ようやく……!」


 歓喜に震えながら、ジザリは叫ぶ。


「ようやく公女を手中に収めたぞ……!!」


 そして、どこかに身を隠している辺境伯へ向けるように、勝ち誇った声を上げた。


「残念だったな、辺境伯!! 彼女はもはや……私のものだ!!」


 ここで命が尽きようとも、悲願を達成した今ならば、むしろ本望というものだ。


 ジザリは目前で力なく頭を垂れる公女の姿を、恍惚とした表情で見つめ続けた。


「……どれ。公女の死に顔を拝んでみようではないか」


 くつくつと喉を鳴らしながら、ジザリはゆっくりと彼女の亡骸へ近づいていく。


 一歩。

 また一歩。

 少しずつ、二人の距離が縮まる。


 そして────。


「────ああ、本当に残念だ」

「!」


 ジザリの足が止まった。


 視界に映ったのは。

 腹部を貫かれたはずの公女が、ゆっくりと顔を上げ、自分を見つめる姿────。


「どうやら、お前との死出の旅立ちはできそうにないからな」


 はっきりと聞こえた、冷たく鋭い彼女の声音に、ジザリは目を見開く。


 なぜ────。


 その疑問が浮かぶよりも早く、突然、右側から人影が躍り出た。


 身を屈め、獣のようなしなやかな動きで濃霧の中から飛び出した────黒い(たてがみ)を持つ、美しい獣。


 その黒い獣は、跳躍の勢いそのままに、手にした氷の苦無を振り抜く。


 狙いは、ジザリの胸元。


 真一文字に切り裂かれた衣服の隙間から、からん、と乾いた音を立てて木札が姿を現す。黒い獣はジザリの横をすり抜けながら、左手でそれを掴み取った。


 そのまま床を滑るように着地を決めた、黒い獣──。


 否。

 レースをあしらった濃紺のドレスを纏う、一人の公女だった。


 着地したまま、こちらをゆっくり振り返るリュシエリアーナの姿が、濃霧の中に浮かび上がる。


 ジザリは驚愕を滲ませるように、大きく見開いた瞳で呆然と彼女を見つめていた。


 ────その時。


「……っ!」


 認証印を奪われた影響か。

 禍々しい黒い閃光は一斉に霧散する。


 支えを失ったように力が抜け、魔力を奪われたジザリの身体は耐えきれず、その場へ崩れ落ちた。


「……な……っ! なぜ、だ……!」


 荒い息を吐きながら、ジザリは声を絞り出す。残された僅かな力で身体を支える腕は、絶え間なく震えていた。


 途切れそうになる意識を繋ぎ止め、ジザリは立ち上がる公女を睨みつける。


「なぜ……っ! 公女が……生きて……っ!?」


 間違いなく公女の体を貫いたはずだ。

 いや、そもそも眼前にいたはずの公女が、なぜ右から現れる。


 ──幻影?


 いや。

 それにしては、確かな感触があった。


 ただ一つ、違和感があるとすれば────。

 あの身体を貫いた瞬間に聞こえた、妙に硬質な音。


 答えを探るように、何とか体を支えて必死にこちらを見据えるジザリに、リュシエリアーナは目を細めて妖艶な笑みを浮かべた。


「不思議だろう? ジザリ。私の腹部に穴など開いていないぞ」


 言って、視線を横へ向ける。


「──なあ、ラファ様」


 彼女が見つめた先。

 先ほど黒い閃光が貫いた空間に、突然亀裂が走った。


「!」


 ぱきり、と。

 何かが砕ける音が響く。


 ゆっくりと崩れ落ちる透明な壁の向こうから現れたのは、静かにこちらを見つめる、辺境伯の姿だった。


 呆然とするジザリのすぐ横へ、砕けた何かの破片が転がる。

 そこには、訝しげに眉根を寄せる自分の顔が映し出されていた。


 灯りを反射し、きらりと輝くそれは────。


「……!? こ、氷……!」


 ジザリの顔が歪む。


「まさか……!」


 すべてを悟った様子のジザリに、リュシエリアーナは得意げににやりと笑った。


 「ああ、そうだ」


 手にある認証印が、霧の中で揺れる。


「お前が見ていたのは私ではない。ラファ様が作った氷の鏡に映った姿だ」


 そう。

 リュシエリアーナが利用したのは、『氷の鏡面反射』だった。


 ラファシアンの氷魔法によって生み出された鏡を利用し、右側にいる自分の姿を、正面にいるように錯覚させたのだ。


 本来なら、簡単に見破られてもおかしくない手法だろう。だが、ラファシアンが作り出した濃霧が、その欠点を完全に補った。


 視界を奪い、光を乱反射させる霧。

 それが氷の鏡像を自然に周囲へ溶け込ませたのだ。


 そして何より────


「使い古された古典的な詭計(きけい)だが、逆上して視野が狭くなった相手には効果覿面(てきめん)だろう?」

「──っ!!」


 認証印を軽く掲げる公女の瞳には、勝利を確信した強い光が宿っている。


 ジザリはたまらず、奥歯を噛み締めた。


 自分が。

 この自分が。

 まんまと騙された。

 その事実が、何よりも許せない。


 そんな切歯扼腕(せっしやくわん)する彼を横目に、ラファシアンは、余裕の笑みを浮かべる彼女へ小さく息を吐き、額へ手を当てる。


「……本当に、無茶をなさる方ですね……」


 穏やかさの中に呆れと安堵が混じる声で、ラファシアンは告げる。


「私がどれほど心配したと思っているのです……!」


 その表情には怒りよりも、彼女が無事だったことへの強い安堵が滲んでいた。



 「妙案がある」と言われて聞かされた策────。

 それは、彼女自身が、囮になるというものだった。


「そんな無謀な策、承服いたしかねます……!」


 思わず声を荒げたラファシアンを、リュシエリアーナは静かに見返す。


「だが、ジザリに近づくにはこれしかない」


 淡々と告げながら、彼女は濃霧の向こうにいるであろう男へ視線を向けた。


「あの男は、黒髪を持つ私に異常なほど執着している。私が降伏したと判れば、必ず傍へ寄ることを許すだろう」

「ですが……っ!!」


 反論しようとして、ラファシアンは言葉を詰まらせる。


 危険だから、だけではない。


 異常なほど彼女へ執着していると判っているからこそ、あの男の傍へ、彼女を近づけたくないのだ。


 たとえ命を奪われる心配がなかったとしても、あのジザリの手が彼女の体に触れる──その可能性を考えるだけで、胸の奥が締め付けられるようだった。


 ────だが。

 それ以外に、ジザリへ近づく方法はない。


 険しい表情のまま俯き、それでもなお肯定しきれないラファシアンを見て、リュシエリアーナは小さく笑った。


「大丈夫だ、ラファ様」

「!」

「私を信用しろ」


 その声音は、いつものように揺るがない。


「私が今まで、ラファ様に嘘をついたことがあるか?」

「…………いえ、ありません」


 彼の不安を取り除くように、穏やかで優しく告げるリュシエリアーナの声が、否応なく否定の言葉を奪っていく。


 子供のように素直に答えるラファシアンに、リュシエリアーナは確信に満ちた強い眼差しを送った。


「私は必ず無傷で戻る。信じて待っていてくれ」


 ────その言葉通り、彼女はかすり傷一つ負うことなく、鮮やかに認証印を奪ってみせた。


 それは驚嘆に値するが、だからといって無謀な真似をする彼女のすべてを認めたわけではない。


 そんなラファシアンの複雑な心情など知る由もなく、リュシエリアーナはどこか得意げな笑みを浮かべた。


「だから、信じて待っていろと言っただろう?」


 その言葉に、ラファシアンはもう何も返せなかった。


 小さく息を吐く。

 困ったように。

 けれど、どこか嬉しそうに。


 諦めにも似た微笑みを、ラファシアンは浮かべる。


「──ええ」


 そして、静かに告げた。


「私はいつだって、貴女を信じていますよ」


**


「リュシー、辺境伯。怪我はないか?」


 いつの間にか霧は晴れ、明瞭になった視界の先に、こちらへ駆け寄ってくる兄フォルドエルの姿が映った。


 すべての元凶となったジザリは、すでに数人の神殿騎士たちによって取り押さえられている。


「兄上。……ああ、何ともない。ラファ様のおかげで無傷だ」

「そうか……!」


 ほっと胸を撫で下ろしたフォルドエルは、隣に立つラファシアンへ視線を向けた。


「リュシーが世話になったようだ。……感謝する、辺境伯」

「……いえ、私は何もしていません。リュシエリアーナ嬢の機転がなければ、今頃、彼は命を失っていたでしょう」


 そう言って、ラファシアンは後ろ手に腕を拘束され、地に伏しているジザリへ視線を向けた。その瞳には、怒りではなく哀れみが浮かんでいる。


 それがなおさら、ジザリの神経を逆撫でした。


「……私を、助けたとでも思っているのか……! 辺境伯……!」


 荒い息の中、ジザリは憎悪を滲ませながら叫ぶ。


「勘違いするな……! この私が……! 醜い貴様などに、助けられるはずなどない……っ!!」

「勘違いしているのは、お前だ。ジザリ」


 ラファシアンへ向けられた鋭い視線を遮るように、リュシエリアーナが一歩前へ出る。


「お前を救いたいと言ったのは、ラファ様だ。お前は、ラファ様の慈悲によって生かされている。そのことを、生涯忘れるな……!」

「……っ!!」


 その言葉が、ジザリの自尊心を深くえぐる。

 拳を強く握り締め、悔しさと屈辱で指先が震えた。腸が煮えくり返って仕方がない。


 フォルドエルは、歪んだ表情を浮かべるジザリを一瞥して、小さく息を吐いた。


「ジザリを連れて行け」


 捕らえている神殿騎士たちへ短く指示を出し、フォルドエルは二人へ向き直る。


「すまないが、後処理を手伝ってもらえるか? ご覧の通り、負傷者だけでも大勢いるからな」


 そう言って、大広間を見渡す。

 その視線を追うように、リュシエリアーナとラファシアンも周囲へ目を向けた。


 かつて華やかで荘厳だった大聖堂の大広間は、見る影もなく変わり果てていた。

 ステンドグラスは無惨に砕け散り、大理石の床には無数の硝子片が散乱している。その傍らには、傷を負った人々が苦痛に顔を歪めながら横たわっていた。


 見れば、シエナやアレクスフォード、そして教皇までもが、すでに負傷者の手当に奔走している。


 そんな彼らの姿に背を押されるように、先ほどまで恐怖で動けずにいた貴族たちも、少しずつ手を貸し始めていた。


「……兄上。死者は────」


 不安を滲ませて尋ねる妹へ、フォルドエルは間を置かず答える。


「死者はいない。二人のおかげだ」

「……!」


 その言葉に、二人は互いの顔を見合わせる。張り詰めていた緊張がようやく解けたのか、安堵したように小さく微笑み合った。


 そして、それぞれ負傷者の元へ向かい、歩き出す。


 ──その背を、神殿騎士たちに無理やり立たされたジザリは、憎悪に満ちた瞳で見つめていた。


(……くそ。……くそ……っ!!)


 なぜ、こうなった。

 なぜ、何もかもが上手くいかない。


 自分は、神に祝福された色を持っているはずだ。

 なのに、父は家督を兄に譲ると言った。


 ──『お前は、人の上に立つ器ではない』


 そう断じた父が、この上なく憎かった。


 だからこそ、『絶世の美女』たる公女を欲したのだ。

 彼女はまさに、『神から選ばれた者』だ。

 夜の闇を溶かしたような漆黒の髪は、神に寵愛された者の証。

 その公女の婚約者となれば、誰もが自分の価値を認めるだろう。

 そう、思っていた。


 ──なのに。


(誰も……私を認めない……!!)


 誰も、自分を選ばない。


 父も。

 そして──公女も。


 ジザリは、鋭く公女の背へ視線を向ける。


 周囲に、辺境伯と小公爵の姿はない。

 いるのは、華奢な体をした女。

 ただ、一人。


「……!」


 神殿騎士たちは、油断していた。


 魔力暴走を引き起こし、極限まで衰弱した体だ。もはや動く力すら残っていないと、そう思い込んでいた。

 その隙を、ジザリは逃さなかった。


 残された最後の力を振り絞り、拘束を抜け出す。


 そして──。


 目的の人物がいる場所へ、這うように駆け出した。




「あの……フォルスタート辺境伯閣下」


 控えめな声が、ラファシアンの背にかけられた。


 手当てのためとはいえ、醜い自分が触れることを皆、嫌がるだろう。

 そう考えたラファシアンは、意識を失っている負傷者を安全な場所へ運ぶ役目を自ら買って出ていた。


 そんな彼へ、不意に声をかけた人物がいた。


 振り返った先にいたのは、居心地が悪そうに視線を逸らしているヴォーテン侯爵令嬢、メリッサだった。


「……ヴォーテン侯爵令嬢。どうし────」


 どうしましたか。


 そう続けようとしたところで、ふと先ほどの出来事を思い出す。

 緊急事態とはいえ、許しもなく彼女の体へ触れたこと──。


「……申し訳ございません。先ほどは緊急事態とはいえ、無礼をいたしました」

「! ち、違います……! そ、そういうことではなく……!」

「?」


 小首を傾げて、ラファシアンは続く言葉を待つ。


「で……ですから、その……」


 言葉に詰まるメリッサの頬は、なぜか赤く染まっている。


 その様子を不思議そうに見つめていたラファシアンは、ふと気づいた。


 ────彼女と自分を隔てる距離が、あまりに近い。


 普段ならば、彼女は決してここまで近づかない。誰よりも自分の醜さを嫌悪していたことを、ラファシアンは知っている。


(……無理もない。あれほどの恐怖を味わったあとだ)


 未だ混乱が収まらず、自分との距離を意識できていないのだろう。


 そう思って、一歩後退しようとした──その時。


「!」


 大広間に、突如として悲鳴が響き渡った。


 反射的にメリッサを庇うよう前へ出たラファシアンは、次に視界へ飛び込んできた光景に息を呑む。


 怪我人の元へ向かっていたリュシエリアーナ。

 そして、その背後から迫る──ジザリ。


 その顔は、鬼のような形相で彼女へ向かって突進している。


 その瞬間、ラファシアンの脳裏に先ほどの会話が蘇った。


 彼女は言っていなかっただろうか。

 氷の苦無は、残り一本だと。


(──いや、違う)


 彼の背筋に、冷たいものが這う。


 彼女はその最後の一本を。

 認証印を奪うために使ったはずだ──。


 ラファシアンは、考えるより先に駆け出していた。

 メリッサを気遣う余裕などない。

 ただ一心に、リュシエリアーナの元へ向かう。


 ──彼女は今、丸腰だ。

 剣もない。

 魔法も使えない。


 ずっと恐れていた状況が、今まさに目の前で起きている。


「リュシエリアーナ嬢……!!」


 彼女の名を叫ぶ。

 もう、それしかできなかった。

 次第に縮まっていく二人の距離を、ただ見つめることしかできない。


 祈りと懇願。

 そして、絶望とわずかな諦め。


 それらが一瞬の間に胸を駆け巡った、その時──。


 わずかに後ろを振り返った彼女の口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。


「────この痴れ者が」


 短く言い放つと同時に、リュシエリアーナは掴みかかろうと伸ばされたジザリの腕を、振り向きざまに(かわ)す。


 その瞬間。

 ドレスの袖から覗く華奢な白い腕が、すれ違いざまに彼の腕をがちりと掴み取った。


 そこから先は、見事なほど流れるような動きだった。


 驚愕に目を見開くジザリの懐へ、リュシエリアーナは躊躇なく潜り込む。小柄な身体が独楽(こま)のように鋭く反転し、ジザリの胸元に小さな背中をピタリと預けた。


 すべては一瞬。


 彼女がふわりと腰を浮かせ、同時に掴んだ腕を斜め下へと鋭く引き絞る。


 その梃子(てこ)の原理には抗えず、大柄な男の身体が、まるで重力から解放されたかのように、つま先から浮き上がった。


「──っ!?」


 世界が反転する。


 大の男が、小柄な少女の肩越しに美しい弧を描き────。


 次の瞬間。

 大理石の床へ、盛大に叩きつけられた。


 ────それは見事な、一本背負いだった。


「よく覚えておけ、ジザリ」


 冷たく静かな声が、落とされる。


「私は、ラファ様ほど慈悲深くはないぞ」


 告げた相手は、すでに意識がない。


 驚愕の光景を目の当たりにした大広間は、悲鳴と息を呑む声から一転、しん、と静まり返っていた。


 ──公女は、令嬢の中でも比較的小柄な体格だ。


 ジザリが凶変(きょうへん)してからというもの、多くの貴族たちは逃げることに必死だった。


 公女と辺境伯が何をしていたのか。

 濃霧に包まれた中で何が起きていたのか。


 正確に把握している者など、皆無に近い。霧が晴れた時には、すでにすべてが終わっている状況だった。


 だからこそ、目の前で起きた光景が信じられない。


 小柄な少女が。

 華奢な令嬢が。

 自分より遥かに大きな男を、いとも容易く床へ叩き伏せた。


 ──その、あまりにも凄まじき光景。


 わずかな静寂の後、大広間は一瞬にして歓声に包まれた。


「見たか、今の……!!」

「信じられませんわ……! あのお身体のどこに、あれほどの力が……!」


 突如として湧いた、割れんばかりの称賛と喝采に、リュシエリアーナは驚き、びくりと身体を強張らせた。


 そうして、気づく。


 今、自分がどこにいて、誰の前で、何をしたのかを────。


 今まで必死に築き上げた公女としての威厳ある姿が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。


 失態を悟り、泳いだ視線の先──。


 そこに映ったのは、頭を抱え、げんなりとした表情を浮かべる両親と、苦笑を滲ませる兄。

 そして、今にも吹き出しそうな口元を必死に押さえている教皇の姿。


 最後に────。


 安堵したように、優しく微笑むラファシアンの姿だった。


 その笑顔につられるように、リュシエリアーナもまた、静かに微笑みを返す。


 ────それは、彼女がこの夜会で唯一、油断した瞬間だった。


 悪意を読むことのできる教皇やラファシアンでさえ、その気配を察知するのは困難を極めた。


 気づけたこと自体、奇跡に近い。

 いや──虫の知らせと言うべきか。


 喝采に包まれる大広間の中で、ラファシアンの耳が、わずかな異音を捉えた。


 (くう)を裂く音。


 すでに誰もいなくなった高壇(トリビューン)から、一本の弓矢が放たれていた。


 狙うは、リュシエリアーナの背。

 正確には──その心臓。


 命を狙っていることは明白だった。


「……!?」


 リュシエリアーナがようやく背後の気配に気づいた時には、すでに矢は逃れられない距離まで迫っていた。


 極限まで殺気を抑え込んでいたからか。

 それとも、射手にはそもそも人を殺すという意識すらなかったのか。


 どちらにせよ、もう遅い。

 逃げられない。


 それでも彼女は諦めることなく、わずかな突破口を探すように振り返った。


 その瞬間────。


 耳に届いたのは、かすかな詠唱。

 そして、彷徨わせた彼女の視界に飛び込んできたのは。


 白銀の髪と、見慣れた大きな背中だった。


「……!」


 ラファシアンは、リュシエリアーナの前に躍り出ると同時に、大きく腕を払う。その動き自体は、ジザリとの戦いで見せたものと変わらない。


 だが──威力は、まるで別物だった。


 彼を中心に、凍てつく冷気が暴風となって螺旋状に広がる。


 弓矢など、ひとたまりもない。

 一瞬で氷に囚われ、そのまま原形すら留めぬほど粉々に砕け散った。


 そればかりではない。


 腕の軌跡をなぞるように、大広間の壁一面へ螺旋状の氷塊が走る。まるで巨大な亀裂が刻まれたかのように、白い氷が次々と張り付いていった。


 ぱき、ぱき、と。

 凍りつく音が、静まり返った大広間のあちこちから響き渡る。


 ただでさえジザリによって破壊された大聖堂は、今や元の荘厳さを失い、凍てついた別世界のような姿へ変貌していた。


 その冷気を身に纏いながら、ラファシアンは低く言い放つ。


「誰だ……!? 彼女の命を狙った者は……!!」


 怒りを孕んだ、低く唸るような声。

 いつもの穏やかな声ではない。

 凍てつくような冷たさと、烈火の如き激情が同居したその声に、背後で守られたリュシエリアーナは思わず目を見開いた。


 しん、と大広間が静まり返る。


 先ほどまで響いていた喝采が嘘だったかのように消え、貴族たちは『氷の辺境伯』という異名の意味を、ようやく理解した。


 肌を刺す冷気に、誰もが息を呑む。

 体の芯から込み上げる震えは、氷魔法によって室温が下がったせいだろうか。


 それとも────。


 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音すら聞こえそうな静寂を破ったのは。


 驚きとも歓喜とも、あるいは悔しさとも取れるリュシエリアーナの声だった。


「──ラファ様……!! もしや怒っているのか……っ!!」

「!」


 叫ぶや否や、リュシエリアーナは彼の両頬へ手を添え、強引にこちらへ向かせる。


「ラファ様が本気で怒るなど、稀有ではないか……っ!! なぜその珍しい顔を私に見せない……!?」

「! え……! リ、リュシエリアーナ嬢……!?」

「その美しい(かんばせ)が怒るところを、私によく見せてくれ……!!」

「い、いえ……! リュシ……っ!」

「ラファ様の表情は何一つ見落としたくは────」

「リュシエリアーナ嬢……!」


 思わず声を張ったラファシアンに、ようやく彼女は我に返る。


 目の前にあるのは、耳朶まで真っ赤に染め上げた、この世のものとは思えぬほど美しい顔──。


「……ち、近いです……」


 小さく呟いて、ラファシアンは視線を逸らす。


「それと────皆が見ています……」

「!」


 その言葉で、ようやくリュシエリアーナは周囲の存在に思い至る。


 恐る恐る向けた視線の先には、先ほどまでの怯えた様子とは打って変わり、微笑ましいものを見るような眼差しを向ける、貴族たちの姿があった。


「まあ……! 公女殿下は本当に辺境伯閣下を愛しておられるのですね……!」

「なんて微笑ましいこと……!」

「公女殿下の武勇も見事でしたが、先ほどの辺境伯閣下の魔法も圧巻だった……!」

「お二人が結ばれれば、神聖国は安泰でしょうな」


 口々に交わされる、称賛と祝福。


 その声を聞きながら。

 リュシエリアーナだけは、屋敷へ戻った後に待ち受けているであろう両親からの叱責を脳裏に思い浮かべ、大きく嘆息を漏らした。


**


「……そうか。失敗したか」


 婚約発表の夜会で起きた一部始終を従者から聞いた男は、まるで他人事のように呟きながら、チェスの駒を指先で弾いた。


 ころり、と乾いた音を立てて、駒が盤上を滑る。


「……アルトワの悪い癖が出たのかもしれません」


 従者は静かに言葉を続ける。


「あの男は、物事を面白がって弄ぶ癖がありますから」

「だからこそ、教皇に気づかれず神聖国へ入り込めたのだがな」


 くつくつと笑いながら、男は頬杖をつく。


 ──悪意とは、本人がその行為を『悪』だと認識して初めて成立する。


 あの男にとって、悪行と呼ばれるすべては遊戯に等しい。だからこそ、躊躇いもなく人の感情を弄び、罪悪感すら抱かずに事を成す。


 神聖国へ送り込む駒としては、これ以上ないほど適任だった。


(……だが、確かにアルトワが好き勝手に動かれては困る)


 男は盤上へ視線を落とす。


 次の一手。

 その先にある未来を読むように、ゆっくりと思考を巡らせた。


 ──その時だった。


「……っ!」

「閣下……っ!?」


 突如として襲いかかった激しい胸痛に、男の表情が歪む。

 次の瞬間、堪えきれないように激しく咳き込み始めた。


 従者は慌てて駆け寄り、その背へ手を添える。


「……いい……! 構うな……!」

「ですが……!」


 男が口元を押さえた手の中を見て、従者の顔から血の気が引く。

 そこには、吐き出された血がべったりと付着していた。


 男は荒い息を整えながら、背を支えようとする従者の手を払いのける。


 そして再び、盤上へ視線を戻した。

 

 そこにあるのは。

 キングを守るように立ちはだかる、二つの駒。


 ナイト。

 そして──クィーン。


「……なるほど」


 冷たい声が、盤上に落とされる。


 自分に残された時間は、そう長くはない。

 ならば、悠長に盤面を整えるのは時間の無駄だ。

 目的を果たすために必要なのは、最短の道筋。


 ──障害となる駒を、先に排除すること。


 男は蒼白な顔のまま、薄く笑みを浮かべた。


「どうやら……」


 指先が、盤上の駒へ伸びる。


「先にナイトとクィーンを潰す必要がありそうだ」

これで第一章・漆黒の公女と白銀の辺境伯 は終わりです。

次話からは第二章・星降る辺境の王と一振りの誓い が始まります。

続きも読んでいただけますと幸いです。

よろしくお願いします。

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