婚約発表の夜会・八編
リュシエリアーナは、執拗に襲い来るジザリの攻撃を、紙一重で躱し続けていた。
その一撃一撃にすら、彼の異常なまでの執着と粘着質な感情が滲み出ているようで、リュシエリアーナはたまらず辟易したように小さく息を吐く。
「それほど私が憎いか? ジザリよ」
「ああ……! 憎い!! すべてはお前のせいだ、公女よ……っ!!」
血反吐を吐くように絞り出された、その言葉。
その狂気じみた叫びを聞きながら、リュシエリアーナは攻撃を躱しつつ、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「そうだろうな。髪色に騙されて『絶世の美女』だと信じて疑わなかった女が、蓋を開けてみればこのような無骨者だったのだ。その屈辱は、計り知れんか」
「何を言っている……!?」
ジザリの顔が怒りに歪む。
「お前が私を受け入れさえすれば、すべては丸く収まったのだ……っ!! それを……!!」
「?」
リュシエリアーナは一瞬、不思議そうに首を傾げた。
「こんな無骨者でも欲するか。ずいぶんと変わった趣味だな」
「『絶世の美女』である公女の婚約者の座は、私にこそ相応しい称号なのだ……!! それを、貴様らが台無しにしたのだろう……!!」
「──なるほど」
得心したように頷くと、リュシエリアーナは宙を舞っていた体を軽やかに翻し、そのまま床へと着地する。
その躍動に合わせて、視界の端で黒い髪が流れた。
夜の闇を溶かしたような、漆黒の髪。
『神から祝福を受けた髪色』として、誰もが羨み、そして妬む髪だ。
「……お前が惹かれたのは、この黒髪だけか」
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
ジザリにとって、リュシエリアーナという一人の人格など、最初からどうでもよかったのだ。
ただ、『黒髪を持つ公女』の婚約者という名誉と、その称号が欲しかっただけ。
────ジザリだけではない。
髪色だけを見て人の価値を決める者は、この世界に嫌というほど存在している。
「まるで……呪いのようだな」
吐き捨てるように呟き、リュシエリアーナはちらりと周囲へ視線を走らせた。
ようやく逃げ惑う群衆から抜け出した神殿騎士たちは、今なおジザリの攻撃から人々を守ることで精一杯のようだ。彼らがジザリと対峙できるようになるまで、まだ少し時間がかかるだろう。
ならば──。
自分が止めるしかない。
リュシエリアーナは迫り来る黒い閃光を避けながら、体を反転させる。
同時に、太腿のホルダーへ手を伸ばし氷の苦無を引き抜くと、迷いなくジザリへ向けて投げ放った。
だが、空を切り裂くような速度で飛翔した苦無は、ジザリへ届く寸前、黒い閃光がその軌道を遮りあっけなく砕け散る。
(無理か……!)
リュシエリアーナは、内心で小さく舌打ちした。
使った苦無はこれで二本目。
どちらも黒い閃光に阻まれ、ジザリの体へ届くことはなかった。
(……やはり、相手が魔法では分が悪い)
これでは近づくことすらできない。
残された苦無は、あと一本。
リュシエリアーナはドレス越しにホルダーへ触れる。
──その時。
ふと、自分が先ほど落とした独白に、引っかかりを覚えた。
(待て。────『魔法』……?)
わずかな可能性が、脳裏をよぎる。
目を見開いた瞬間。
思考に意識を奪われたリュシエリアーナへ、ジザリの攻撃が迫った。
「!」
わずかに判断が遅れる。
これでは、回避が間に合わない。
いや。
今から飛び退けば、直撃だけは避けられるだろう。多少の傷で済むはずだ。
だが────。
ラファシアンから贈られたこのドレスは、間違いなく引き裂かれる。
それがさらに、彼女の判断を鈍らせた。
「……っ!!」
黒い閃光は、もう目前にまで迫っている。
──間に合わない。
そう悟り、リュシエリアーナが目を細めた瞬間。
強い衝撃が、全身を襲った。
床へ投げ出されるような感覚。
そして、感じたのは────。
包み込むような温もりと、確かな柔らかさ。
それが何を意味するのか──瞬時に理解したリュシエリアーナは、勢いよく目を見開いた。
「ラファ様……っ!?」
視界に映ったのは、自分を庇うように抱き締める、ラファシアンの姿。
そして。
宙を舞う、一筋の鮮血だった。
衝撃から守るように彼女を抱きかかえたまま、ラファシアンの体は床へ叩きつけられる。苦痛に顔を歪める彼の腕の中から、リュシエリアーナはすぐさま顔を上げた。
「ラファ様……!? 大丈夫かっ!?」
「え、ええ……! 私は大丈夫です。それよりもリュシエリアーナ嬢は────」
「私のことなどどうでもいい!! それよりも怪我を────」
言うなり、リュシエリアーナはおそらく傷を負ったであろう彼の左腕へ手を伸ばし、持ち上げる。
「!」
その左腕を視界に入れた途端、リュシエリアーナは目を大きく見開いた。
そこにあるはずの怪我が──ない。
あるのは、切り裂かれた跡と思しき、破れた衣服だけだった。
(……私の見間違い、か……?)
いや。
確かに鮮血が舞ったはず。
だが、どれほど目を凝らしても、破れた袖の隙間から覗く彼の左腕には、かすり傷一つ見当たらない。
(そういえば────)
ふと、思い出す。
ジザリが魔力暴走を引き起こした直後、割れたステンドグラスによって周囲の者たちが傷を負う中で、自分を庇うように盾となったラファシアンの体には、同じように傷一つなかった。
(ただの偶然……にしては、出来すぎている)
訝しげに眺めた彼の左腕──。
その、破れた衣服のほんのわずかなほつれの先。
そこに、一瞬だけ。
真紅の色が見えた気がした。
その瞬間。
「大丈夫です。服を掠めただけですから」
慌てたように左腕を隠し、ラファシアンは困ったような笑みを浮かべた。
そこでようやく我に返り、リュシエリアーナは取り繕うように笑顔を作る。
「あ、ああ……そうか。……すまない。私のせいで危険な目に遭わせた」
「いえ」
ラファシアンは首を横に振りながら、差し出された彼女の手を取り、立ち上がる。
そして、穏やかでありながら、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「貴女を守るのは、私の役目ですから」
そのあまりにも満足そうな表情に、リュシエリアーナは思わず小さく喉を鳴らす。
その時──。
怒りと言うべきか、嫉妬と言うべきか、明らかな怒気を孕んだ声が二人に注がれた。
「私の前で、何をイチャイチャと……っっ!!」
「────誰が、イチャイチャだ……!」
そういう世俗にまみれたものは、好きではない。
そう言いたげに眉根を寄せる彼女の後ろで、ラファシアンだけはわずかに頬を赤らめ気恥ずかしそうに視線を逸らしながら、小さく咳払いをしている。
その反応が、余計にジザリの嫉妬心を煽ったのだろう。
強く握り締めた拳を震わせながら、彼は大広間へ怒声を響かせる。
「それほど一緒にいたいのなら!! 仲良くあの世へ送ってやる……っっ!!」
その言葉を合図にするように、無数の黒い閃光が、一斉に二人へ向かって空を切り裂いた。
ラファシアンは、攻撃を避けようとするリュシエリアーナの前へ躍り出る。
そして、短い詠唱を紡ぎながら腕を大きく払った。
瞬間。
彼の動きに呼応するように、床から鋭い氷柱が半円状にいくつもせり上がる。
まるで黒い閃光を縫い止めるかのように。
氷柱は迫り来る攻撃を絡め取り、その動きを封じ込めた。
「!」
同時に、視界を奪うほど濃密な霧が、周囲に立ち込める。
暖かかった室内の空気が一瞬にして冷え込み、冷気によって生まれた白い霧が、ジザリの視界を完全に覆った。
「どこに行った!? 公女よ!!」
大広間に響くジザリの怒声を聞きながら、ラファシアンは身を屈めるリュシエリアーナへ小さく囁いた。
「……しばらくは濃霧が視界を閉ざしてくれます。今のうちに、彼を救う手立てを考えましょう」
「すごいものだな……ラファ様の魔法は」
思わず漏れた感嘆の吐息は、白い煙となって霧の中へ消えていく。
初夏を迎えようとしている時期だというのに、この大広間だけは、今にも雪が降り始めても不思議ではないほどの冷気に包まれている。
「…………もう、いっそのことラファ様の魔法でジザリを凍らせてしまうのはどうだろうか?」
「…………い、いえ。それでは彼の命の保証が……」
まるで面倒事を放り出すように、あまりにもあっさりと物騒な提案をする彼女へ、ラファシアンは困惑したように苦笑する。
「……それに、魔力暴走は意識を失ったとしても発動し続けます。氷漬けにしたところで収まるとは思えません」
「ふむ……」
リュシエリアーナは考え込むように目を伏せる。
そして、先ほど胸に引っかかった違和感を、もう一度脳裏へ浮かべた。
「……ラファ様、二つ確認したいことがある」
「!」
「ジザリの放つ、あの黒い閃光……あれは『魔法』と思って間違いないか?」
質問の意図までは掴めない。
それでもラファシアンは迷うことなく頷いた。
「……ええ。魔力によって引き起こされている以上、あれは『魔法』と考えて差支えはありません」
「そうか。では────」
リュシエリアーナは一瞬だけ視線を鋭く細める。
「リオンおじ様──猊下は、絶対結界を解いているのだろうか?」
「?」
予想外の問いに、ラファシアンは僅かに戸惑った。
「いえ……それはまだ────」
そこまで口にしたところで、彼もまた、ある可能性へと辿り着く。
「……そうか」
呟いて、彼女を振り返った。
「猊下の認証印ですね……!」
囁くように落とされた言葉に、リュシエリアーナは満足げに口元を緩めた。
「そうだ。あれが『魔法』という位置づけならば、本来、絶対結界の内側で発動することなどあり得ない。ジザリが魔力暴走を起こせた理由は────」
「彼が認証印を持っているから……ですね」
ラファシアンが続ける。
そう。
逆説的に考えると、認証印さえ奪うことができれば────。
魔力暴走を引き起こしているジザリの魔力は、教皇の絶対結界によって強制的に抑え込まれる可能性がある。
わずかに差し込んだ希望の光に、表情が僅かに明るくなるラファシアンへ、リュシエリアーナは確信に満ちた笑みを向けた。
「まあ、実際どうなるかは判らんが、それでも試す価値はある。……ただ」
急に声を落とした彼女へ、ラファシアンは訝しげに眉を寄せた。
「何か問題が?」
「……ああ。あの黒い閃光が邪魔をして、ジザリに近づけない。二度、苦無を投げたが、どちらもあれに阻まれた。……おかげで、残る苦無は一本だけだ」
そう言って、ドレスのスリットを隠すレースを少し持ち上げ、太腿に装着されたホルダーを示す。
「……っ」
途端に、ラファシアンの顔が一気に赤く染まった。
「で、ですから……!!」
顔を背けながら、慌てたように彼はレースを戻す。
「男の前で容易く足を晒してはいけません……!!」
「? この濃霧の中だぞ? ラファ様にしか見えぬのだから問題はないだろう」
「そ、そういうことではなく……!!」
────私も男なのだ。
そう言いたいが、言ったところで彼女はきっと首を傾げて「それくらい判っている」と返すだけだろう。
自分を一人の男として意識していない彼女に、どう説明すればいいのか。
もはやラファシアンには判らない。
ある意味、役得と言えば役得だが、それ以前に心臓がもつかどうかの方が重大な問題だ。
そんな彼の切実な葛藤など知る由もなく、リュシエリアーナは再び思考へ戻る。
「……では、ラファ様の魔法で、あの黒い閃光を凍らせることはできないか?」
その問いに、ラファシアンは悄然と肩を落とし、ゆっくりと首を振った。
「……申し訳ありません。ここでは出来かねます」
「? どういう意味だ?」
「私の氷魔法は……強すぎるのです」
静かに、だが確かな重みを持って告げる。
「あれだけの数の黒い閃光をすべて凍らせるとなれば、この大聖堂一帯が氷に閉ざされるでしょう。そうなれば、いくら猊下の結界内とはいえ、彼らに被害が及びます」
そして、僅かに表情を曇らせた。
「……何より、貴女が無事ではいられない」
最後の言葉だけ、強く。
そしてその顔には、悲痛の色を滲ませている。
普段、穏やかな彼には珍しい、強固な姿勢を見せるラファシアンに、リュシエリアーナは降参の意を込めた吐息に近い笑みを返した。
「……さすがはラファ様だ。恐れ入った」
おそらくこれは、誇張でも脅しでもない。
彼の様子を見れば、それがよく判る。
(能力が突出しすぎていて、使えないとは……皮肉な話だな)
そう考えながら別の手段を探そうとした、その時。
「……さあ、公女よ」
濃霧の向こうから、ジザリの声が響いた。
「いい加減、かくれんぼは終わりにしよう」
穏やかだが、その声には粘つくような狂気が滲んでいる。
「そろそろ、私を選ばなかったことを後悔する時間だ。今すぐ出てこなければ……ここにいる者を一人ずつ八つ裂きにしてしまうぞ?」
「──!」
ジザリの言葉に、ラファシアンの表情が苦渋に歪む。
ゆっくりと、穏やかに。
だからこそ、その言葉は異様な不気味さを伴っていた。
焦りから立ち上がろうとする彼の腕を、リュシエリアーナはそっと掴む。
「逸るな、ラファ様」
「しかし────!」
反論しかけた彼の口元へ、彼女は人差し指を添えた。
「!」
反射的に、再びラファシアンの顔が赤く染まる。
そんな彼の反応を気にすることなく、リュシエリアーナは彼の耳元へ静かに囁いた。
「ラファ様。小規模の魔法であれば問題はないか?」
「! え、ええ……それは」
目を瞬かせ、それでもラファシアンは頷く。
赤らんだ頬のまま答える彼へ、リュシエリアーナは不敵な笑みを浮かべた。
「──ならば」
静かに告げる。
「一つ、妙案がある」
次話でようやく夜会編が終話となります。
長かった……。
最後までお付き合いいただければ幸いです。




