婚約発表の夜会・七編
────『魔力暴走』。
それは魔力を扱う際、稀に引き起こされる現象である。
己が保有する魔力量を、遥かに超える魔法を行使した時。
あるいは、精神や肉体の不調によって魔力の制御が乱れた時。
引き金となる要因は様々だ。
だが、その多くは魔力が暴走する以前に、使用者の意識が途絶えるか、あるいは命を落とす。
ゆえに『魔力暴走』という現象そのものが確認されることは、極めて少ない。
今回のジザリの場合。
あの謎の液体によって強制的に魔力を増幅させた結果、本来彼自身が扱える許容量を大幅に超過し、制御不能に陥ったのだろう。
そして────。
『魔力暴走』を止める唯一の方法は。
使用者の『死』のみである。
大広間には、まるで地獄絵図のような光景が広がっていた。
人々の悲鳴や恐怖に震える叫び声、そして大広間に響く、逃げ惑う足音。
それらが入り乱れ、もはや先ほどまでの優雅な舞踏会の面影は、どこにも残っていない。
人を押しのけ、我先にと出口へ向かう者。
あまりの恐怖に足が竦み、その場から動けなくなる者。
逃げる途中でドレスの裾や調度品に足を取られ、床へ倒れ込む者。
混乱を極めた大広間では、神殿騎士たちですら、逃げる群衆によってジザリに近寄れずにいた。
そんな中────。
リュシエリアーナはラファシアンの腕の中で、凶変したジザリを見据えていた。
(……ジザリを殺すこと自体は容易い。だが────)
視線を上へと動かす。
自分を庇うように抱き寄せるラファシアンの横顔は、苦悩と悲痛に歪んでいた。
「リュシエリアーナ嬢……!」
彼は、今にも張り裂けそうな声で告げる。
「彼を見殺しにはできません……! 何としてでも、彼を救う方法を考えなければ……!」
「……………………ああ、うん。ラファ様ならば、そう言うと思った」
リュシエリアーナは思った通りの展開に、小さく息を吐く。
諦めと、ほんの少しの困惑が混じった苦笑を浮かべる彼女に、ラファシアンは不思議そうに目を瞬かせた。
──心優しいラファシアンのことだ。
たとえ自分を殺そうとした相手であっても、彼は手を差し伸べることをやめないだろう。
(ラファ様の底知れぬ包容力は、一番好ましいところでもあるが……)
とはいえ、今回に限りあまりに無理難題と言わざるを得ない。
死をもってしか止めることのできない暴走を、他の方法で救うなど不可能に近い。
それでも────。
リュシエリアーナは、懇願するような瞳を向けてくるラファシアンを見る。
(ジザリを殺せば、ラファ様は間違いなく自分を責めるだろう)
自分を殺そうとした相手であろうと。
すべての元凶であろうと。
ラファシアンはきっと、「救えなかった」と苦しむ。
そんな一生消えない傷を、彼の心に残すことは本意ではない。
リュシエリアーナは観念したように大きく息を吐いて、おもむろに立ち上がった。
「……是非もない。他ならぬラファ様の頼みだ。何とかしてみよう」
「──!」
その言葉に、ラファシアンの瞳にまるで希望を見つけたかのような光が宿る。
彼もすぐに立ち上がり、彼女の隣へ身を寄せた。
──瞬間。
「!?」
二人の間を引き裂くように、ジザリから伸びた黒い閃光が走った。それはまるで、二人が寄り添うことを許さぬと言わんばかりに。
二人は即座に左右へ跳び、直撃を避ける。
「リュシエリアーナ嬢……!」
「ラファ────!」
名を叫びながら彼に向けた視界の向こうに映ったのは、逃げ惑う人々へ無差別に襲いかかる、黒い閃光──。
ジザリは鬼のような形相で荒い息を吐き、ただひたすらにこちらを睨みつけている。周囲の貴族など、もう彼の視界には入っていない。
だが、制御を失った魔力は持ち主の意思すら離れ、いくつもの黒い閃光となって周囲へ牙を剥いていた。
リュシエリアーナは小さく舌打ちをして、こちらへ駆け寄ろうとするラファシアンへ声を張り上げる。
「ラファ様は皆を守ってくれ!!」
「! ですが────!」
「このままでは死人が出る!! 私がジザリの注意を引くから、その間に彼らを安全な場所へ誘導してくれ!!」
「──っ!!」
『死人』という言葉に、ラファシアンは動きを止めた。
本心を言えば、彼女の傍を離れたくない。一秒たりとも、彼女から目を離したくはなかった。
何より、彼女は魔法を使えない。
今、彼女が頼れるものは、太腿のホルダーに残されたわずかな氷の苦無だけなのだ。
そんな状況で、彼女を一人残していくなど、できるはずがない。
そう思うのに────。
背後から聞こえる悲鳴を、無視できない自分がいる。
彼らを守らなければならない。
その使命感が彼の足を、心を縛った。
ぎり、と奥歯を噛み締め、ラファシアンは無意識に拳を握る。
その葛藤を察したリュシエリアーナは、柔らかく笑った。
「私は大丈夫だ。ちょっとやそっとでやられるほど、やわではない」
その言葉に背中を押されるように、ラファシアンは苦しげに、それでも覚悟を決めて頷いた。
「──すぐに戻ります!! それまでは……どうか、ご無事で……!!」
「ああ、頼む」
踵を返し、逃げ惑う人々の元へ走り出すラファシアンの背中を見送る暇もなく、黒い閃光が再びリュシエリアーナへ襲いかかった。
迫る多段攻撃を最小限の動きで躱し、令嬢とは思えぬ軽やかな身のこなしで宙を舞う。
そして。
ふわり、と音もなく着地した。
「……どうやら、注意を引く必要もなさそうだ」
ジザリの狂気に染まった視線は、ただ一点、リュシエリアーナだけに注がれている。
不殺を前提とした相手との、圧倒的不利な状況での戦い。
それでも────。
「──面白い」
リュシエリアーナはその美しい口元を、凛々しく歪ませた。
────大広間の二階に設けられた高壇。
その上から、教皇リオンフェルドは階下で逃げ惑う貴族たちを守るように、絶対結界の内側へさらにもう一重の結界を展開し続けていた。
「……くっ……!」
身体が万全ではない今、この二重の結界を維持するだけでも、想像以上の負荷がかかる。
額には汗が滲み、呼吸は次第に乱れていく。
それでもリオンフェルドは聖杖を掲げたまま、決して結界を途切れさせようとはしなかった。
苦痛に顔を歪ませながら、なおも力を注ぎ続ける教皇の元へ、国王ギリアムが駆け寄った。
「猊下!! どうか絶対結界を解いていただきたい……!!」
切迫した声で訴える。
「さすれば王国騎士団も加勢することができましょう!!」
絶対結界が展開されている限り、たとえ王国騎士団が大聖堂内へ入ったとしても、その力を発揮することはできない。
この結界内では、猊下の認証印を持つ者を除き、武器を扱うことも、魔法を行使することも許されないのだ。
それを暗に伝えた国王の言葉の意味を、リオンフェルドも当然理解している。
だが────。
「いや、ギリアム……それはできない……」
「! なぜです、猊下……!」
苦悩に満ちた表情で、リオンフェルドは静かに首を振る。
「絶対結界を解けば……もう二度と、ジザリを救うことは叶わない」
「……え?」
目を見開き、ギリアムは小さく声を落とす。
しかしリオンフェルドは彼へ視線を向けることなく、階下へと目を落とした。
そこにいるのは──。
禍々しい魔力を暴走させる元凶ジザリ。
そして、その前に立ちはだかる一人の公女──リュシエリアーナ。
『死』をもってしか、魔力暴走を止めることはできない。それは覆すことのできない事実だ。
だが彼は幸運にも、この絶対結界の中で魔力暴走を引き起こした。
ならば。
『死』以外の方法で、彼を救う可能性が一つだけ残されている。
(……おそらく、ジザリ自身はまだ気づいていない)
だからこそ、ここで彼女に大声で伝えるわけにはいかなかった。
(リュシー……!)
リオンフェルドは、階下の少女へ静かな願いを託す。
(頼む……気づいてくれ……!)
自分にできることは、もう限られている。
逃げ惑う人々を守ること。
そして────。
彼女を信じること。
リオンフェルドは己の無力さを噛み締めながら、それでも迷いなく意識を結界へと集中させた。
**
(……これは……一体、何の冗談なの……?)
メリッサは眼前で繰り広げられている信じ難い光景を受け入れられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
自分はただ、婚約者であった自分を馬鹿にした辺境伯に、復讐を果たしたかっただけだ。
あの二人を祝福する気など毛頭ない。公女を唆してこの婚約を破談へ追い込み、辺境伯に恥をかかせたかった──ただ、それだけだったはずなのに。
蓋を開けてみれば、自分の企みは公女の存在によって、すべて水泡に帰した。
他に利用できるものはないかと機会を窺ってはいたものの、二人の円舞があまりにも見事で、腹立たしいことに、いつの間にか目を奪われてしまっていた。
怒りはある。
憎しみも、確かに残っている。
だが、会場では割れんばかりの喝采が巻き起こり、先ほどまで否定的な視線を向けていた者たちまでもが、手のひらを返したように二人を称賛していた。
切歯扼腕する思いを抱えながらも、もはや何もできず、悔しさを噛み締めたまま帰路につこうと踵を返した──その矢先の出来事だった。
立ち尽くすメリッサの目前には、割れたステンドグラスで怪我をした人々が小さな呻き声を漏らしながら床に倒れ込んでいる。
蒼白な顔で一歩後ずさった、その時。
前方から、悲鳴が上がった。
「……!」
思わず体が強張る。
悲鳴が聞こえた方角から、何人もの人々が必死の形相で、我先にと逃げ出してきた。
(……に、逃げなくては……! 私も……!)
そう思うのに、体が思うように動かない。
足が竦んでいるのか。
いや、それだけではない。
体全体が、まるで鉛にでも変わってしまったかのように重かった。
逃げ惑う人々の波の中で立ち尽くすメリッサの肩や体には、なりふり構わず駆け抜けていく者たちが何度もぶつかる。
幾度目かの衝撃で、メリッサの体は勢いよく弾き飛ばされ、床へと倒れ込んだ。
「きゃ……!」
床へ激突する瞬間、小さな悲鳴が漏れる。
腕に鋭い痛みが走った。
だが、今はそれすら気にしている余裕はない。
メリッサは震える手で何とか上半身を起こし、立ち上がろうともがいた。
(は、早く……!)
逃げなければ。
そう思うほど焦りが募り、余計に体へ力が入らなくなる。
指先が震える。
膝が言うことを聞かない。
床に手をつくことすら、ままならなかった。
────逃げなくては。
そう思った瞬間。
背後に、異様な気配を感じた。
慌てて振り返ったメリッサの視界に飛び込んできたのは、禍々しい光を放つ、黒い触手のような閃光だった。
それは空を裂きながら、一直線にこちらへ迫ってくる。
────あれが、自分の体を貫くのだろうか。
(私は……こんなところで死ぬの……?)
来るのではなかった。
あんな醜い男など、放っておけばよかったのだ。
そうすれば、死ぬことなどなかったはずなのに────。
後悔ばかりが、次々と脳裏をよぎる。
床に座り込んだまま、メリッサは迫り来る黒い閃光を見つめることしかできなかった。
もう逃げられない。
あの禍々しい光に、自分の体は切り裂かれるのだ。
メリッサは恐怖で瞳を固く閉じ、身を縮こませる。
痛みを覚悟した、その瞬間────。
「──────……?」
来るべき痛みが、なぜかいつまで経ってもやって来ない。
メリッサは体を強ばらせたまま、恐る恐る瞼を開いた。
その視界に真っ先に飛び込んできたのは────。
陽光を受けたように輝く、白銀の髪だった。
「あ…………」
自分を守るように立ちはだかる、辺境伯の背中。
呆然とその姿を見つめていると、不意に彼がこちらへ振り返った。
「大丈夫ですか? ヴォーテン侯爵令嬢」
ほっと安堵したような表情で、彼は静かに問いかける。
先ほどまで存在していたはずの黒い閃光は、もうどこにも見当たらない。おそらく彼が追い払ったか、散らせたかしたのだろう。
「立てますか?」
穏やかな声と共に差し出された手を、メリッサはただ呆然と見つめていた。
(どうして……彼が……?)
守ってもらえる理由などない。
むしろ、婚談の儀では散々、彼を傷つける言葉を投げつけたのだ。見捨てられても不思議ではないはず。
なのに、なぜ──?
硬直したように動けないメリッサを、彼は困惑したように見下ろす。
わずかに躊躇いながら、それでも彼女の体へと手を伸ばした。
「失礼します」
告げてから、辺境伯はまるで壊れ物を扱うような慎重な手つきで彼女の体を軽々と持ち上げ、ふわりと立ち上がらせる。
「リュシエリアーナ嬢が、彼の注意を引いてくれています。今のうちに後方へ逃げてください。猊下の結界が守ってくれるでしょう」
そうして、恭しく一礼した。
「許しもなく貴女に触れたこと、お詫びいたします、ヴォーテン侯爵令嬢。緊急事態ゆえ、どうかご容赦ください」
それだけを告げると、彼は迷うことなく踵を返し、来た道を戻っていく。
その、どこまでも紳士的な振る舞いを向ける彼の背を、メリッサは何故か目で追わずにはいられなかった。
理由の判らない熱が、頬へ集まる。
その感覚を不思議に思いながらも、メリッサは彼の姿が見えなくなるまで、ただ静かに見つめ続けていた。




