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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う  作者: 枢氷みをか
第一章・漆黒の公女と白銀の辺境伯

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婚約発表の夜会・六編

此度(こたび)の婚約、教皇として、そして二人の友として、心から嬉しく思う」


 人々の歓談で賑わっていた大広間は、教皇が発した第一声によって、一転して厳かな空気に包まれていた。


 静まり返った大聖堂の中──。


 大広間の二階部分、階下を見下ろせるよう設けられた半円状の高壇(トリビューン)の中央。玉座よりさらに一段高く据えられた教皇座に腰を下ろす教皇リオンフェルドは、眼前で(うやうや)しく頭を下げる今夜の主役二人を、微笑ましげに見つめた。


「……長く独りであったラファシアンを受け入れてくれたこと、心から感謝している。リュシエリアーナ」

「もったいないお言葉、恐縮にございます。猊下」

「そして、ラファシアンよ。ようやく得た伴侶を慈しみ、未来永劫、彼女を守り続けることを、ここに誓いなさい」

「命果てるまで、必ずや彼女を守り抜くことを、猊下の御前にて誓います」


 その返答に満足そうに頷き、感慨深げな表情の中にわずかな憂いを押し隠して、リオンフェルドは二人に告げる。


「……二人の行く末に、果てなき幸福があることを願う」


 そしてゆっくりと立ち上がり、階下で見守る貴族たちに向けて、教皇の証たる聖杖(せいじょう)を高く掲げた。


「二人の契りが、我が神聖国にさらなる繁栄と恵みをもたらさんことを!」


 凛と響き渡った教皇の祝福の言葉に、大広間はたちまち喝采に包まれる。


 盛大な拍手を送る貴族たちを一望してから、リオンフェルドはひと仕事終えたように、再び教皇座へと身を沈めた。


「それで?」


 鳴り止まぬ拍手の中、リオンフェルドは軽く頬杖をつきながら、ラファシアンへと視線を向ける。


「体調の方はどうだい? ラファシアン」

「!」

「ここは君にとっても、すこぶる居心地が悪いだろう?」


 教皇の言葉が何を指しているのか、ラファシアンは瞬時に悟りつつも、隣にリュシエリアーナがいるのでどう返答すればいいのか判らない。

 わずかに言葉を詰まらせていると、先に彼女の方から心配そうな声が降ってきた。


「やはり……体調が優れないのか? ラファ様」


 思い当たる節は、何度もあった。

 この大広間へ入る直前や、アレクスフォードと会話をしていた時──様子のおかしいラファシアンに、幾度となく「体調が悪いのか」と訊ねたが、そのたびに彼は「大丈夫」と答えていた。


 それでも────。


(やはり我慢していたのか……)


 不安そうに眉尻を下げるリュシエリアーナを、教皇リオンフェルドはくすりと小さく笑う。


「心配には及ばないよ、リュシー。これは彼の体質のようなものだ」

「? 体質、ですか?」

「ああ、私と同じでね。ただ──」


 そう言いながら、教皇は後ろに控えている己の『妖精王の愛し子』シエナを振り返る。


「私にはシエナがいるからね。どうということはないが、ラファシアンには──」

「ご心配には及びません、猊下」


 リオンフェルドの言葉を、ラファシアンはやんわりと制した。


「私にも、リュシエリアーナ嬢がおりますので」

「! ────リュシーが……?」


 迷いなくそう言い切って、ラファシアンはすぐ隣に立つリュシエリアーナを嬉しそうに見下ろす。教皇もまた、ラファシアンの言葉に目を見開き、不思議そうに彼女を視界に入れた。


 ────神寵者(しんちょうしゃ)の一族には、悪意を孕んだ魔力を感知する能力がある。

 だがその際、どうしても心の中へ無遠慮に流れ込んでくる黒く淀んだ悪感情に、身体が拒絶反応を起こしてしまう。判りやすく表現するならば、『気分が悪くなる』のだ。


 それは、感知能力が高ければ高いほど、影響を受けやすい。

 一族随一と言われるラファシアンは、特にそれが顕著だった。


(神寵者たる私は、『妖精王の愛し子(シエナ)』がその不快さを軽減してくれるが……)


 ラファシアンには、それがない。

 それゆえ、彼はこうした大勢の人間が集まる場が、とにかく苦手だった。


(……だが、確かに今日のラファシアンは顔色がいい)


 普段ならば、蒼白な顔で眉間にしわを寄せていることがほとんどだ。

 だが、今の彼にその様子は見られない。


 リオンフェルドは、ラファシアンの隣でわけも判らず小首を傾げているリュシエリアーナに、ゆっくりと視線を移した。


 しばらく彼女を見つめた後、得心したように──あるいは、どこか憂愁(ゆうしゅう)を帯びたように、小さく息を吐く。


「…………そうか。神はどこまでも、無慈悲なことをなさる」


 静かに落とされたその呟きは、貴族たちの拍手にかき消され、二人の耳には届かない。

 訝しげな顔を向ける二人に、教皇はいつもの慈愛に満ちた微笑みを返した。


「さあ、皆が君たちの円舞(ワルツ)を待っている。それなくしては、いつまでも舞踏会が始まらないからね。行ってきなさい」


**


 教皇と王が座する二階の高壇(トリビューン)からよく見渡せる位置に、舞踏会の場は設けられていた。

 決して教皇と王に背を向けぬよう、貴族たちは半円状に広がり、その中央で寄り添うように立つ二人へと視線を注いでいる。


 ラファシアンは彼女の腰へ手を添え、優しく自分の方へ引き寄せた。


 女性とこれほど近い距離で触れ合ったことは、生まれて初めてだ。それも想いを寄せる相手となると、その動揺は計り知れない。

 数日前に初めて彼女と円舞(ワルツ)の練習をした時は、面映ゆさと緊張で、まともに踊ることさえ困難だった。


 今は何とか平静を装ってはいるものの、触れ合う手や身体を通して伝わってくる彼女の体温が、否応なく意識を引き寄せる。胸の鼓動は、早鐘のように鳴り続けていた。


「……ラファ様、不安になるな。手筈通りにすれば何も問題はない」

「──!」


 動揺を悟ったのだろう。

 見上げてきた彼女は、不安を取り除こうとするように柔らかな笑みを浮かべている。


(不安ではなく、緊張なのだが……)


 それも、愛しい相手との密着による緊張だ。こればかりは、どれほど彼女から笑顔を向けられようと収まりそうにない。


(いや、むしろひどくなる一方だな……)


 わずかに自嘲めいた思いを胸中に落としながら、ラファシアンは何とか笑顔を返した。


「──大丈夫です、リュシエリアーナ嬢。落ち着いています」


 少なくとも、襲撃に対しては。


 緩んだ頬を引き締め、ラファシアンとリュシエリアーナはどちらからともなく小さく頷き合う。


 まるでそれを合図にしたかのように、大広間へ優雅な音楽が流れ始めた。


 流れるような三拍子の旋律に身を委ね、二人はゆっくりと踊り出す。

 一歩、また一歩。

 最初は穏やかに。

 そして、どこまでも優雅に。


 曲の高まりに合わせるように足取りは次第に軽やかさを増し、華麗な舞へと変わっていく。


 軽快なステップと、寸分の狂いもないターン。


 それに合わせて、銀のレースをあしらった濃紺のドレスが、まるで夜空に咲く花のように優美に広がる。その花を追うように、ラファシアンのペリースがふわりとたなびいた。


 非の打ち所のない、二人の優雅な円舞(ワルツ)──そのあまりにも美しく調和した姿に、観衆のあちらこちらから感嘆の息が漏れる。


「まあ……! なんて素敵なのかしら……!」

「見事なものだ……!」

「ご覧になって! お二人のあのお顔……!」


 公女へ向けられる辺境伯の眼差しは、慈しみと愛おしさに満ち、公女は揺るぎない信頼を寄せるように、辺境伯に身を委ねている。


 大広間にいる誰もが、その円舞(ワルツ)に魅了されていた。


 まるで奇跡を目の当たりにしているかのように。

 その一瞬たりとも見逃すまいと、誰一人として二人から視線を逸らすことができなかった。


(────好都合だ)


 そんな観衆たちの背後で、一人の男が密かに口元を歪める。


(そのまま観衆を魅了していてくれよ、公女様と辺境伯閣下)


 人々の視線を彼らが引きつければ引きつけるほど、自分たちは動きやすい。


 この会場に紛れ込んだ潜伏者たちによって、すでに大広間の各所には小規模な魔法陣が設置されている。

 あとは、その魔法陣へ魔力を流し込むだけだ。


(大規模な魔法が発動すれば、混乱に乗じて大聖堂から脱出する。我々の任務はそれで完了だ。だが──)


 問題は、その作業に思いのほか時間がかかることだ。

 だからこそ、人々の意識が一点へ集中する今この瞬間こそが、最も都合のいい唯一の機会だった。


(よし、あった……!)


 男は、給仕として会場に潜り込んでいた。

 貴族たちは誰も、給仕になど目もくれない。まして今は、公女と辺境伯の華麗な舞に夢中だ。自分たちの背後で給仕が何をしていようと、誰も気にも留めないだろう。


 男は何食わぬ顔で目的の場所へ向かう。

 そして柱の根元近くに刻まれた魔法陣を見つけると、わずかに口元を緩めた。


(これに魔力を流せば────)


 ゆっくりと腰をかがませた、その瞬間。


「!?」


 肩に衝撃が走る。

 何が起きたのか理解できない。

 反射的に視線を落とした男は、自らの肩を貫いている半透明の何かを見て目を見開いた。


 見たこともない武器だ。


 あらゆる状況を飲み込めずにいたが、それが己の肩を正確に撃ち抜いたことだけは理解できた。


(一体、どこから……!?)


 男は慌てて周囲を見回す。

 しかし狙撃手らしき人物はどこにもいない。


 肩に突き刺さった武器の角度から考えても、飛来したのは間違いなく観衆の壁の向こう側だ。


 男は襲い来る眩暈に耐えながら、必死に目を凝らした。


 観衆たちが立つ、そのわずかな隙間────。

 幾重にも重なる人垣の向こうに、銀のレースを纏った濃紺のドレスがちらりと見える。


 花が揺れるように翻る、その姿。


「……ま、まさ……か…………」


 掠れた声が漏れる。

 薄れゆく意識の中で男が最後に見たのは──。


 観衆の向こう側。

 優雅に踊りながら、わずかにこちらへ視線を向ける絶世の美女。


 その唇に浮かんだ、薄い微笑みだった。





「目標は沈黙したようです」

「よし。では次だ」


 華麗に舞いながら二人の間で交わされる囁きは、大広間に響く音楽に紛れ、観衆の耳には届かない。


「──北北東、左から三つ目の円卓(テーブル)の下」


 ラファシアンが端的に場所だけを告げる。

 ────これが、リュシエリアーナの攻撃開始の合図だ。


 右太腿に仕込まれたホルダーから、素早く氷の苦無を引き抜く。


 観衆たちには決して見えぬように。

 ターンで身を翻した瞬間。

 あるいは濃紺のドレスが花開くように広がった刹那。


 死角となるわずかな(とき)を選び、苦無を取り出す。そして、ラファシアンが示した場所へ、観衆たちが作る壁のわずかな隙間を縫うように通して、寸分違わず目標を射抜くのだ。


 ────その間、わずか一秒にも満たない。


 まさに瞬きほどの出来事だった。


(これほどの神速であれば、例え武の心得がある者であっても、彼女の動きを捉えることは難しいだろう……)


 彼女は、魔法を使っているわけではない。

 己の体一つで、この神業を息をするように成し遂げている。

 そして、確実に獲物を狩るのだ。


 その速度と、寸毫(すんごう)の狂いもない精度。

 ラファシアンは改めて、彼女の技量に感嘆と称賛を覚えた。


 ────『衆人環視の中で襲撃者を一掃する』


 一見すれば不可能極まりない作戦だ。

 だが、リュシエリアーナの身体能力を知る者からすればなるほど、確かに不可能ではない。


(これは──『流石』と評するべきだな)


 降参するような苦笑を胸中で漏らしながら、ラファシアンはまた一人、襲撃者の意識が途絶えたことを悟る。


「──目標、沈黙です」

「では次だ」


 彼女は喜ぶでもなく、(おご)るでもなく、ただ淡々と襲撃者を排除していく。


 ラファシアンは静かに頷いた。


「北西、ロッジアへ続く扉の前」





 公女と辺境伯の美しく華麗な円舞(ワルツ)に見惚れていた一人のご婦人は、不意に隣で何かが倒れる音を耳にした。


 そちらへ、何気なく視線を落とす。


 すると、床に座り込むように崩れ落ち、大きく頭を垂れてぐったりとしている紳士の姿が目に飛び込んできた。


「まあ……! どうなさったの? ご気分が優れないのかしら……?」


 慌てて身を(かが)めようとしたご婦人は、ふとその紳士の腕の辺りが濡れていることに気づく。


「……?」


 訝しげに手を伸ばしかけた、その時。


「少し酔われたのでしょう。我々が介抱いたしますので、ご心配には及びません」


 ご婦人の視界を遮るように、一人の神殿騎士が割って入る。

 柔らかな笑みを浮かべながら、心配そうに見上げるご婦人へ丁寧に一礼すると、倒れた紳士を軽々と担ぎ上げた。


 その逞しい姿と紳士的な振る舞いに、ご婦人は思わず頬を染める。


 やがて他の神殿騎士たちと合流し、去っていく背中を、彼女は敬意のこもった眼差しで見送った。






「侵入者を確保いたしました」


 大広間に隣接する控室で、神殿騎士はまるで重い荷物でも降ろすように、襲撃者の体を床へ放り下ろす。


 どさり、と響く重い音に、副団長フォルドエルは振り返り、小さく頷いた。


「ああ、ご苦労」


 控室へ運び込まれた襲撃者──もとい侵入者は、これで十一人目だ。

 意識を失った彼らは、こうやって手荒に扱っても目覚める様子がない。それが魔法によるものだということは明白だった。


「それにしても」


 感嘆、と言うべきか、あるいは呆れたため息と表現するべきか。

 どちらとも取れる深いため息を吐きながら、その神殿騎士は小窓から大広間を見渡しているフォルドエルの隣へ歩み寄る。


「公女殿下は、一体どのような魔法を使って連中を倒しているのです?」


 その問いに、公女の兄であるフォルドエルは半ば呆れたような笑い声を漏らした。


「そうか、お前にもリュシーの動きは見えないか」

「え……?」

「リュシーはそもそも、魔法が使えないからな。あれは純粋に武器を投げているだけだ。──まあ、『神速で』というおまけ付きだがな」

「……! えっ!? い、いえ、だって……!」


 神殿騎士は目を丸くし、小窓の向こうへ視線を向ける。


 そこには辺境伯と共に優雅な円舞(ワルツ)を踊る公女の姿しかない。どれほど目を凝らしても、武器を投げているようには到底見えなかった。


「……………………ご冗談ですよね?」

「冗談ならどれほどいいか」


 真顔で返され、彼は言葉を失う。

 呆然としながら、床に並べられた襲撃者たちへ視線を落とした。


「で、ですが……武器と言っても何も残ってはおりませんが……」


 彼らの体には確かに何かで斬られたような傷がある。

 だが、その傷を負わせたはずの武器が見当たらない。


 首を傾げる神殿騎士に、フォルドエルは納得したように頷いた。


「ああ。それは辺境伯の魔法だろう」

「……あの、氷の辺境伯の、ですか?」

「氷で作った武器を使うとリュシーは言っていたからな。体に刺さると氷が溶け、武器に仕込まれた昏睡の魔法陣が発動する仕組みになっているのだろう」

「!? 二重に魔法がかけられているのですか……!?」


 さらりと説明されたが、その異常さを彼は理解していた。


 そもそも、一人の魔導士が同時に維持できる魔法は、どれほど練達の者でも五つ程度が限界だと言われている。それ以上は精密さが失われるからだ。


 だが────。


 神殿騎士は積み上がった襲撃者たちを見下ろした。


 ここにいるだけで十一人。

 単純計算でも十一本の武器が必要になる。


 しかも、その一つ一つを氷で生成し、さらに昏睡の魔法陣まで組み込むとなれば、気の遠くなるような作業だろう。


 それを。

 辺境伯は円舞(ワルツ)を踊りながら平然とやってのけている。


「…………なんて精神力だ……」


 畏怖を滲ませた呟きに、フォルドエルは思わず苦笑を漏らした。


「まったくだ。リュシーも我が妹ながら化け物級の強さだが、辺境伯も辺境伯で人間離れしすぎている」


 フォルドエルは小窓越しに、なおも華麗に舞い続ける二人を見つめる。


 この大広間にいる誰一人として、今まさに彼らが襲撃者を排除しているなど想像もしないだろう。


 フォルドエルは半ばうんざりしながら、残り半分は敬意を込めながら、くすりと喉を鳴らした。


「あの二人が夫婦(めおと)になれば、間違いなく世界最強の夫婦になるだろうよ」





「──これで最後です」


 最後の一人がリュシエリアーナの氷刃ひょうじんに倒れたのは、曲が終盤へと差しかかった頃だった。


 わずか五分あまり。

 二人が沈黙させた襲撃者の数は、実に二十三人に及ぶ。


 その間、一度たりとも氷の苦無が尽きることはなかった。


(さすがはラファ様だ)


 それがどれほど高度な魔法技術なのか、リュシエリアーナには判らない。


 だが、円舞(ワルツ)を踊りながら敵の位置を正確に把握し、さらに涼しい顔で氷の苦無を生成し続けるなど、決して容易なことではないはずだ。


 それを当然のようにやってのける婚約者に、改めて感嘆の念を覚える。


 すべての襲撃者を排除し終えた二人は、ようやく円舞(ワルツ)の時間を堪能するように、最後まで優雅に舞い続けた。


 曲が終幕を迎えて、大広間に余韻が残る。


 呼吸一つ乱れることなく、腕の中に抱き寄せた公女を静かに見下ろす辺境伯と、その辺境伯を恍惚とした眼差しで見上げる公女────。


 そのあまりにも麗しい光景に、一瞬、大広間が静寂に包まれた。


 そして次の瞬間。

 割れんばかりの拍手喝采が場内を揺らす。


「素晴らしい……!」

「なんて素敵なお二人なのかしら……!」


 惜しみない称賛と拍手が降り注ぐ中、二人はそれに応えるように優雅な所作で一礼する。


 その最中。

 頭を下げたまま、ラファシアンの低い声がリュシエリアーナの耳に届いた。


「……まだ、警戒を怠らないでください」

「!」

「黒幕が、まだいます」


**


 男は、腸が煮えくり返りそうだった。


(なぜだ……! なぜ何も起こらない……っ!)


 ぎりっと、奥歯を噛み締める。


 今、目の前に広がるこの光景を見たかったわけではない。

 むしろ、誰もが羨望の眼差しを向けるこの光景を、粉々に叩き潰したかったのだ。


 だからこそ、この時を狙った────はずなのに。


 予定していた襲撃が起こらないどころか、周囲を見渡せば、先ほどまで各所に散っていた仲間たちの姿が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消えている。


(何が起きたというのだ……!)


 額に脂汗が滲む。


(これほど周到に準備を進めてきたというのに……っ!)


 すべては完璧だったはずだ。

 誰にも気づかれず潜入し、魔法陣を設置し、あとは発動させるだけだった。


 それなのに────。


 ────見知らぬ男から声をかけられたのは、公女と辺境伯の婚約の報せが届いた翌日のことだった。


『公女殿下を我がものにしたいのであれば、手をお貸しいたしますよ?』


 どこか飄々とした雰囲気を纏った男だった。

 あからさまに胡散臭いと理解しつつも、彼の手を取ったのには理由がある。


 その男が、禁呪と呼ばれる魔法を持っていたからだ。


 ──氷の辺境伯。

 魔法の手練として名高いあの男を相手にしては、自分に勝ち目などない。


(だが、これさえあれば────)


 男は拍手喝采の中、懐から小瓶を取り出した。

 透明な硝子の中で揺れる、不気味な液体。


『もし襲撃が失敗に終わった時は、これをお飲みください。氷の辺境伯にも負けぬ魔力を、貴方に与えることでしょう』


 男は小瓶を見つめた。

 飲むべきか、飲まざるべきか────。

 辛うじて残っていた理性が、警鐘を鳴らしている。


 逡巡する男の耳に、周囲から耳を疑う言葉が聞こえてきた。


「なんてお似合いの二人なのかしら……!」

「まるで、運命に導かれたかのようだ」

「なるほど。それならば、今まで辺境伯閣下が独り身であったことにも納得がいきますな」


 その見事なまでの掌を返したような態度が、男の中にわずかに残っていた理性を粉々に打ち砕いた。


(…………黙れ)


 何が『お似合いの二人』だ。

 絶世の美女と、世界で最も醜悪な辺境伯。

 それのどこが釣り合っているというのだ。


(黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……!)


 運命的な二人?

 そんはずがあるか。

 公女と運命で結ばれているのは、この私だ。

 断じて辺境伯などではない。


 男は小瓶を強く握り締めた。


「ああ、本当に……! お二人の円舞(ワルツ)は、なんて素敵な────」

「黙れっっっ!!」


 怒号が大広間を震わせた。


 称賛の声はぴたりと止み、場内が一瞬で静まり返る。


「……グ、グラウザー侯爵令息……? どうなさって──」

「うるさい!! 何が素敵だ……! 何がお似合いだ……!」


 ジザリの顔は怒りに醜く歪んでいた。


「貴様ら、ほんの少し前まで辺境伯を侮蔑していたではないか!! 化け物だと蔑み、醜いと嘲り、人身御供にされた公女を可哀想だと憐れんでいた連中はどこへ行った!?」

「!」


 好青年を装っていた男の口から吐き出された痛烈な言葉に、貴族たちは言葉を失う。


「急に掌を返して賛辞を送るとは、一体どういうつもりだ!?」

「そ、それは……!」


 誰もが思い当たる節があるのだろう。

 反論できず視線を伏せる彼らを見て、ジザリは嘲笑を浮かべた。


「ほら見ろ。誰も反論できぬではないか。周囲に流されるだけの愚か者どもが。……どれほど円舞(ワルツ)が見事であろうと、公女と辺境伯が釣り合うはずがないだろう!! 彼女の運命の相手は、この私なのだからな!!」

「おい、ジザリ……! お前酔っているのか!? もうやめろ! あまりに無礼だぞ!!」


 慌てて止めに入った実兄を、ジザリは乱暴に突き飛ばす。


「うるさい!! この私に命令するな!! 私はお前を兄と認めたことなどない! たかが数年早く生まれただけで、何一つ私に勝っていないではないか!!」

「ジザリ……!! お前……っ!!」


 兄の怒声すら、もうジザリの耳には入らない。


 ジザリは観衆を掻き分けるようにして、公女へ歩み寄った。


「公女よ……!」


 その目はもはや正気を宿してはいなかった。


「私は貴女を救いに来たのだ……! 貴女も私を想っているのだろう!? さあ、私のもとへ来るがいい……! 私と共に行こう!!」


 狂気を滲ませながら迫るジザリの前に、ラファシアンが即座に立ちはだかる。


「止まりなさい、グラウザー侯爵令息。それ以上彼女に近づくのであれば、容赦はしません」


 公女を庇うように立つ辺境伯の姿が、ジザリにはたまらなく癪に障った。

 ジザリは舌打ちをして、醜い顔をなおさら強く歪ませる。


「醜い貴様になど用はない……っ!! 後ろで黙って見ていればいいのだ!!」


 その侮辱に、ぴくり、と反応したのはラファシアンではなかった。

 彼の背後にいた、リュシエリアーナである。


 彼女は険しい表情のまま、ラファシアンの背にそっと触れた。


「!」

「……ラファ様、私から直接、彼に話します」


 振り返ったラファシアンの視界に映ったのは、静かな怒りを宿した紫電の瞳だった。


 彼はわずかに躊躇した後、小さく息を吐いて道を譲る。


「……グラウザー侯爵令息。どうやら貴方には、態度で示しても伝わらないようですので、直接言葉でお伝えしましょう」

「! ようやく……! ようやく私のもとへ来る決意をされたか!!」


 やはり言葉が通じない男に、リュシエリアーナはたまらず嘆息を落とす。


「いいえ、グラウザー侯爵令息。私は貴方のもとになど、行くつもりはありません」

「!」

「私がいるべき場所は、ラファ様の隣です。貴方ではない」


 迷いなく告げられた公女の言葉に、だがジザリは、なおも勝手な解釈を始める。


「あ、ああ……! そうか……! まだその醜い男を気遣っておいでか……! 公女はお優しいからな!」


 その瞬間。

 リュシエリアーナの顔が、一層険しくなった。


「────ラファ様が、醜い?」

「そうだ!! 美しい私とは違う!! 見るに耐えない醜悪な男など、貴女に相応しくはないだろう!! 美しい者は美しい者同士────」

「これは愉快な話だ」


 低く硬質な声が、突如として大広間に響いた。


「お前が『美しい』ときたか」


 空気が張り詰める。


 その硬質な声が吐き出されたのは、他でもない公女の口からだ。その声音には、誰の耳にも判るほどの怒気が込められている。


 たまらずジザリの肩が、びくりと震えた。


「どうやらグラウザー家には、鏡がないとみえる」

「な……! 私を愚弄する気か!!」

「愚弄しているのはどちらだ、ジザリ=フォン=グラウザー」

「!」


 紫電の瞳が鋭く細められる。


「……勘違いするな。ラファ様は、お前ごときが愚弄していい相手ではない」

「……っ!」


 普段の物腰の柔らかい公女とは思えぬほど、他を圧倒する覇気を見せるリュシエリアーナに、ジザリはたまらず後ずさった。

 周囲で見守っていた貴族も、公女のあまりの豹変ぶりに息を呑む。


 わずかな静寂が、大広間に流れた。


「…………は」


 ジザリの小さな笑い声が、沈黙の中に漏れる。


「……はは……! はははははははは!!」


 肩を震わせ、狂ったような笑い声が大広間に響く。

 額を押さえながら、彼は歪んだ笑みを浮かべた。


「ああ、そうか……! そういうことか……! つまり公女は、私を選ぶつもりはないと言うことか……!」


 ようやくその結論に至ったジザリを、リュシエリアーナは冷めた瞳で黙したまま見据える。

 その視線をジザリは真っ向から受けて、代わりに激しく歪んだ顔を彼女に送った。


「────ならば、死ね」


 ぱきん、と。

 小瓶の先端を折る音が響いた。


「! 何を……!?」


 中の液体を一気に飲み干すジザリを、誰もが固唾を呑んで見守る。


 しばらく変化が見られない様子に眉根を寄せた、その時────。

 彼の異変をいち早く察したのは、教皇とラファシアンだった。


「いけない……!!」

「逃げてくださいっっ!!」


 腰を上げながら叫ぶ教皇と、ラファシアンの叫びが重なる。


 次の瞬間。

 轟音と共にジザリを中心とした暴風が巻き起こった。


 絶対結界の内側であるはずなのに、大聖堂のステンドグラスが一斉に割れ、あちらこちらから悲鳴が上がる。


 ラファシアンは即座にリュシエリアーナを抱き寄せ、その身を盾にした。


 その腕の隙間から見えたもの。


 それは。

 ジザリの全身を覆う禍々しい光。

 そして、その体から無数に伸びる黒い触手のような何かだった。


「…………何だ、あれは……」


 呆然と呟くリュシエリアーナに、ラファシアンが答える。


「あれは、彼の魔力が増幅されたものです」

「増幅……?」

「溢れ出る魔力が制御を離れ、視覚化されているのです」

「! では────」


 ラファシアンは静かに頷いた。


「彼は、増幅された魔力を制御できていない」


 その声音は重い。


「つまり今、彼の身に起きているのは────」


 ────『魔力暴走』。


 それは。

 絶望以外の何物でもなかった。

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