婚約発表の夜会・五編
(……さて、ラファ様はどこにいる?)
ようやく、あの不快な空間から抜け出したリュシエリアーナは、解放感に浸る暇もなく周囲へ視線を巡らせた。
だが、流した視界にラファシアンの姿はない。
この大広間には現在、五百人近い貴族たちが集い、思い思いに歓談している。その中からただ一人を探し出すのは、決して容易なことではないだろう。
リュシエリアーナは、一度小さくため息を落とした。
(……メリッサたちは、おそらく今回の襲撃の件とは無関係だろう)
頭の中で、先ほどのやり取りを冷静に反芻する。
やり方があまりにも稚拙だった。感情に任せた逆恨みこそ感じられたが、そこに周到な計画性は見受けられない。
(あれは、あくまでメリッサ個人の私怨による行動だ)
だが──。
だからといって、彼女が利用されていない保証にはならない。
(だとすれば、ラファ様を一人にすべきではなかったか……)
自分とラファシアンを引き離すことそのものが目的だった可能性もある。
そう考えた途端、胸の奥がざわついた。
焦燥に駆られながら再び周囲を見渡すが、目に映るのは色とりどりの礼装に身を包んだ人々ばかりだ。やはりラファシアンの姿を捉えることはできなかった。
こういう時は、自分の背丈が同性の中でも低い部類である事が悔やまれる。
(……落ち着け、リュシー。あのラファ様が容易くやられるわけがない)
彼は魔法の手練だ。
そして、猊下の認証印も持っている。
余程の事態でも起きない限り、彼の身に危険が及ぶことはないはずだ。
不安を押し流すように、リュシエリアーナはゆっくりと深く息を吐いた。
(……今の時点でまだ襲撃が起きていないということは、おそらくラファ様の推測通りだろうな)
『夜会』は本来、舞踏会が主軸となる。
だが、この婚約発表の夜会は二部構成となっていて、前半は主役の二人のお披露目と祝福を祈る歓談の場を。そして後半、教皇から祝いの言葉を賜った後、主役である二人が最初の円舞を披露し、それを合図に舞踏会が始まる。
襲撃があるとすれば、その瞬間だろう、とラファシアンは言った。
「私たちが踊っている間、参列者は皆、私たちに注目します。何か事を起こすつもりなら、この時が一番都合がいいでしょう」
「……なるほど、その可能性が高いだろうな。では、お前たちの円舞開始に合わせて周囲を神殿騎士たちに監視させるよう、猊下に進言してみよう」
マレグレン公爵の言葉に、険しい表情のまま頷くラファシアンとは対照的に、リュシエリアーナだけは水を得た魚のように、爛々とした表情を浮かべた。
「では、こちらにとっても都合がいいということだな」
「……!」
揃って目を瞬かせる二人へ、彼女は好戦的な笑みを向ける。
「私たちに視線が集中しているということは、襲撃者の存在を参列者に悟られる心配がない、ということだろう」
「……? それは、神殿騎士たちに襲撃者を一掃させる、という意味ですか?」
人々の視線を自分たちに向けさせ、その間に神殿騎士たちに襲撃者すべての一掃を任せる────確かに、それができれば一番理想ではあるが、残念なことに現実的ではない。
ラファシアンはわずかに躊躇しながら、彼女の意見にやんわりと反論する。
「……それでは確実性が低い。何せ、彼らには把握することができません。どこに襲撃者が潜み、どれだけの襲撃者が紛れ込んでいるのかを」
一人でも逃せば、襲撃はおそらく実行されるだろう。
その一人が認証印を所持する高位魔術師であれば、たった一人でも大広間を混乱と惨劇の渦へ叩き込むことができる。
それはつまり、失敗と同義なのだ。
(だが、私になら────)
「だが、ラファ様なら判る」
「!」
心を読まれたかのような絶妙な間で言葉を重ねられ、ラファシアンは大きく目を見開いた。
なぜ、と問いたそうな彼の視線に、リュシエリアーナは当然のように笑みを返す。
「強盗団追跡の折、ラファ様は直後に追った私よりも先に連中へたどり着いただろう? 私には魔法のことはよく判らないが、ラファ様ほどの使い手であれば、魔力を感知して相手の位置を特定することくらい容易ではないのか?」
「! そのようなことができるのか、辺境伯?」
公爵までもが驚きに目を丸くする。
二人の視線を受けて、ラファシアンは観念したように小さく息を吐いた。
(……観察眼の鋭い方だ)
若干、事実と認識に相違はあるが、それでもまさか、たったあれだけのことで見抜かれるとは。
感服にも似た苦笑を浮かべながら、ラファシアンは静かに頷いた。
「──ええ、私なら判ります。彼らがどこに潜んでいるのかを」
「ならば話は簡単だ。連中は私とラファ様が一掃すればいい。神殿騎士たちには、倒れた襲撃者を迅速に回収する事に徹してもらおう」
「……?」
その言葉に、またもやラファシアンと父は小首を傾げて、互いに顔を見合わせた。
「……いや、待てリュシー。連中が動くのはお前たちが踊っている最中だぞ? 全員の注目を浴びながら、どうやって一掃するつもりだ」
至極当然な疑問をぶつける父に、だがリュシエリアーナは、まるで何を今さらと言わんばかりに微笑む。
「無論、衆人環視の中で、ですよ。父上」
そう言い放った数日前の軍議を思い出しながら、リュシエリアーナは薄く笑った。
その時のために、ドレスにはスリットを入れてもらったのだ。
そして太腿には、氷の苦無を収めた専用のホルダーを装着している。
リュシエリアーナはドレス越しに、氷の苦無へそっと手を添えた。
(舞踏会が始まるのは、あと半刻ほど……)
できれば襲撃は、予測通り自分たちが円舞を踊っている時であってほしい。
(離れ離れになっている今は、まずい)
内心で苦々しく独白を落とした、その時────。
「リュシエリアーナ嬢」
ラファシアンを探すリュシエリアーナの背後から、馴れ馴れしい呼び声がかけられた。
本来であれば、『リュシエリアーナ嬢』と気安く名を呼べるのは、婚約者であるラファシアンだけだ。
だが、かけられたその声は、明らかに彼のものではない。
穏やかで柔らかい声音のラファシアンとは違って、親しげな体裁を装ったその声には粘りつくような執着と、他者を見下すような軽蔑が、色濃く滲んでいる。
リュシエリアーナは、その声音に聞き覚えがあった。
彼女は振り返ることなく、大きく肩を落としてため息を吐く。
「──グラウザー侯爵令息。以前にもご忠告申し上げましたが、婚約関係にもない女性の名を、気安く口にするものではございませんよ」
「ああ……! それは失礼を。今後、気をつけます、リュシエリアーナ嬢」
口では殊勝な言葉を並べながら、まるで反省の色を見せない男に、リュシエリアーナは冷ややかな視線を向けた。
────ジザリ=フォン=グラウザー侯爵令息。
王族派であるグラウザー侯爵の次男坊で、王太子の婚約者であった頃から、執拗につきまとってきた男だ。
リュシエリアーナは、彼がとにかく苦手だった。
会話を交わしている時でさえ、値踏みするような視線が絶えずこちらをなぞる。それは一見すると、礼儀正しい微笑みの裏に巧妙に隠されているが、だからこそ質が悪いのだ。
相手の意思など意にも介さず、自分が望めば手に入ると信じて疑わない、その傲慢さ。そして、その奥に透けて見える独占欲。
社交界では愛想の良い好青年として通っているらしいが、リュシエリアーナには、その作り物めいた笑顔がどうにも気味悪く感じられた。
(……きっとこれを、『生理的に受け付けない』と言うのだろうな)
普段ならば嫌悪を胸の奥に押し込み、公女らしく表面を取り繕うリュシエリアーナだが、こと彼に関しては、もうそれをするつもりはなかった。
何度も言葉で伝えたが、無作法を犯したのは彼の方だ。言葉で判らないのなら、態度で示すしかない。
冷ややかに細めた瞳で彼を睨めつけたリュシエリアーナを、だが彼は意に介した様子もなく、わずかに頬を緩めながらその姿を上から下まで眺めた。
「ほお……! これはこれは……! 今日はいつにも増してお美しい……! 特に、その夜空を思わせるドレス────まるで、夜空を想起させる私の髪色そのものではございませんか!」
まるで当然の事実でも語るような口調に、リュシエリアーナはますます眉間の皺を深くした。
「失礼な……! 無礼ですよ。これはラファ様の髪色と瞳を模したもの──夜空ではなく、夜明けを表現したドレスです。貴方の髪色などではない」
「ああ……! なるほど。そういう体裁を取っておられるのですね」
「? ……体裁?」
話がまるで噛み合わず、リュシエリアーナは怪訝そうに眉根を寄せる。
そんな彼女に、グラウザー侯爵令息はどこか意味深に微笑んだ。
「いえ、皆までおっしゃらなくとも、私はすでに承知しておりますので。どうかご安心ください」
(一体、何を安心しろというのだ……?)
むしろ、この言葉の通じなさの方が不安で仕方がない。
彼が何を理解しているつもりなのか全く判らないが、とにかく一挙手一投足が癇に障る。
リュシエリアーナは、これ以上話しても時間の無駄だと理解して、諦めを込めたため息を落とした。
「……申し訳ございませんが、ご用事がないのでしたら、ここで失礼させていただきます。婚約者を探しておりますので」
そう言って踵を返した彼女の背に、グラウザー侯爵令息の呼び止める声が届く。
「お待ちください、リュシエリアーナ嬢。せめて、ご挨拶をさせていただいてもよろしいですか?」
「──!」
社交の場で、紳士から淑女への挨拶、と言われれば一つしかない。
手の甲へ口づけを捧げる仕草──ハンドキスだ。
「…………」
リュシエリアーナは返答に困り、渋面を作ったままわずかに視線を伏せた。
彼女が社交界で最も苦手としているものが、このハンドキスだった。
本来であれば拒否することも可能だ。
だが、リュシエリアーナは王家に連なる血筋を持つ公女だ。貴族同士の関係が重視される社交の場で、個人的な好き嫌いだけを理由に拒絶し、相手の面目を潰すわけにはいかなかった。
(……無論、本当に手の甲に口づけをする訳ではないが)
あくまで形式上の仕草に過ぎない。
だが、それでも中身が男である以上、真似事であろうと本能的な居心地の悪さを覚えてしまう。
(ラファ様であれば、不思議と嫌だとは思わないのにな……)
大広間へ入る前に受けた、彼からのハンドキスを思い出す。
あの超越した美貌と洗練された所作で捧げられた、淡い口づけ────。
何とか平静を装ってはいたものの、内心では心臓が口から飛び出しそうなほど鼓動が跳ね上がっていた。正直なところ、そのまま本当に口づけをされていたとしても、不快に思うことは微塵もなかっただろう。
(いや……むしろ卒倒していたかもな)
というのが、偽らざる本音である。
────だが。
目前のこの男だけは、違う。
これまでにも何度か求められ、そのたびにハンドキスに応じてきた。だが彼は、そのどれもで、わざとらしいほど堂々と唇を手の甲へ押し当ててきたのだ。
(無作法だと訴えて、拒否してもいいのだが……)
如何せん、彼は王族派の有力貴族であるグラウザー侯爵家の子息だ。
無下に扱うわけにもいかない。
リュシエリアーナは一度、諦観を滲ませた息を吐き、ゆっくりと右手を差し出した。
その白く華奢な手を、男は満足げな笑みを浮かべながら取る。
触れた男の指先はじっとりと湿っていて、不快感が背筋を這った。
男は粘つくような視線をその手へ落とし、まるで愛でるような仕草で、リュシエリアーナの指先をゆっくりと撫でる。
「──!」
反対の手が自然と拳を握った。
だが、リュシエリアーナは辛うじて堪える。
その苦渋の滲んだ表情を見て愉悦を覚えたのか、男は口元を歪めるように笑うと、不躾に腰を折った。
己の手へと近づいてくる、男の顔。
反射的に引こうとした彼女の手を、男は逃がすまいとするように掴み、強引に唇へと寄せる。
その白磁のような肌に唇が触れる──その瞬間。
「!」
不意に彼女の手が視界から消えた。
慌てて顔を上げた男の目に飛び込んできたのは、醜悪と蔑まれる白銀の髪。
そして、露骨な不快感を浮かべたフォルスタート辺境伯の姿だった。
ラファシアンの左手には、先ほどまで自分が掴んでいた彼女の右手が、しっかりと収まっている。
「……っ! フォルスタート辺境伯閣下……!?」
「ラファ様……!」
顔を引き攣らせるグラウザー侯爵令息には目もくれず、ラファシアンは突然現れた自分に驚いているリュシエリアーナへ、柔らかな微笑みを向ける。
「辺境伯閣下! 挨拶を妨げるとは、いかに上位貴族とはいえ、あまりに無礼ではありませんか……!」
「無礼?」
返されたその声音は、穏やかでありながら氷のように冷ややかだ。
「無礼なのは貴方でしょう、グラウザー侯爵令息。ハンドキスとは本来、直接触れないのが礼儀です。まして今夜は私たちの婚約発表の場。その婚約者にハンドキスを求めること自体、褒められた行為ではありませんよ」
「……っ!」
「この場で、彼女の手に口づけを落とせるのは────」
そう言って、左手の中にある彼女の手をそっと持ち上げる。
白く艶やかな指先へ優雅に唇を寄せ、ラファシアンは淡く柔らかい口づけを落とした。
「婚約者である、私だけです」
「っっ!!」
彼女の手に口づけを落としながら、挑むような眼差しで真っ直ぐこちらを見据えてくる辺境伯に、グラウザー侯爵令息は言葉を失った。
胸中を焼くのは激しい嫉妬と怒り。
奪われたという理不尽な被害意識に、肩が小刻みに震える。
そんな彼を意にも介さず、ラファシアンは呆然と自分を見上げているリュシエリアーナへ微笑みかけた。
「行きましょう、リュシエリアーナ嬢」
踵を返し、二人並んで人混みの中へ消えていく。
その後ろ姿を、グラウザー侯爵令息は切歯扼腕しながら睨み続けていた。
**
「……遅くなって申し訳ありません、リュシエリアーナ嬢。それと──先ほどのことも……」
グラウザー侯爵令息が見えなくなってから、ラファシアンは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
その謝罪の意味が判らず、リュシエリアーナは小首を傾げる。
ラファシアンは少し言い淀みながら言葉を続けた。
「その……流れで、貴女の手に口づけをしてしまい……」
「!」
「不快でしたでしょう。どこかで手を洗って────」
「私が一度でも、ラファ様を不快に思ったことがあるか?」
彼の言葉を遮るように、リュシエリアーナは不機嫌そうに頬を膨らませて告げる。
その様子に、ラファシアンは目を丸くした。
「……私に触れていい男は、あとにも先にもラファ様だけだ。──よく覚えていてくれ」
面映ゆそうに視線を逸らす彼女の姿を、ラファシアンは途端に直視することが難しくなる。赤くなった頬を隠すように口元へ手を添え、思わず顔を背ける彼に、リュシエリアーナは続けた。
「それに」
「!」
「本当に困っていたのだ。……助けてくれて、ありがとう。ラファ様」
柔らかな笑みが、自分に向けられる。
その眩しさに、ラファシアンは胸が熱くなるのを感じた。
────嫉妬と独占欲に突き動かされて、咄嗟に体が動いただけだった。
それでも。
彼女の前では頼りなく、不甲斐ない姿ばかりを晒してきた自分が、初めて彼女を守る側に立てた。
その事実がたまらなく嬉しく、守れたことが誇らしい。
ラファシアンは、満ち足りたように微笑んだ。
「──こちらこそ。貴女を守れる名誉をいただけて、光栄です」




