婚約発表の夜会・三編
「この度はご婚約、誠におめでとうございます。公女殿下、フォルスタート辺境伯閣下」
大広間に足を踏み入れて以降、二人はひっきりなしに貴族たちから祝辞を受け、その対応に追われていた。
一見すれば、その場の雰囲気は実に和やかだ。祝いの席特有の浮き立つような高揚感と陽気な歓談が、大広間全体を包み込んでいる。
だが、その華やかな空気の裏で、彼らから向けられる視線には別の色が混じっていた。
それは祝福でも、嘲笑でもない。
まるで珍しい見世物でも眺めるような、好奇と興味に満ちた眼差しだった。
(……まあ、侮蔑や嘲笑を受けるよりは、よほどましだが)
公女としての優雅な微笑みを崩さぬまま、リュシエリアーナは内心でうんざりとため息を吐く。
彼らから嘲笑と侮蔑を奪ったのは、他ならぬ『ラファシアンの笑顔』だ。大広間に響いた彼の笑い声が、場の空気を一変させた。
世界で最も醜いと蔑まれた、辺境伯────。
そんな彼を、ただ見下すばかりだった男たちは、『絶世の美女』たる公女殿下の心を、その笑顔で掴んだのではないかと興味を抱き、これまで彼を視界の端に追いやっていた女たちは、自分でも説明のつかない胸の高鳴りに戸惑いながらも、もっと近くで彼を見てみたいという好奇心が胸に宿っている。
そんな彼らの視線をさらに煽ったのは、白銀の髪の隙間から覗く一つの装飾品だった。
「過分な祝辞をいただき、恐縮しております。リンドール侯爵閣下」
リュシエリアーナは柔らかな笑みを湛え、いつもよりも一段低く落ち着いた女性らしい声音で礼を述べる。
「王太子殿下との婚約を解消されたとお聞きして、どうなることかと胸を痛めておりましたが、良いご縁に恵まれたようで安心いたしました、公女殿下」
「まあ……! ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません……! ですが、侯爵閣下のおっしゃる通り、良き婚約者に恵まれました。私は今、国で一番の果報者ではないかと自負しておりますの」
「これはこれは……! どうりで!」
惚気とも取れる公女の言葉に目を丸くしながら、リンドール侯爵はちらりとラファシアンを視界に入れて、彼に何かを示すように左耳を指差す。
目が合った視線の先で、軽く目配せするように片目だけを一度瞬く侯爵に、ラファシアンはその動作に込められた意を悟って、耳朶をわずかに赤く染め、一度咳払いをした。
侯爵はそんな辺境伯を、ふっと笑って、二人のやり取りを不思議そうに見返す公女に穏やかな微笑みを返す。そして、恭しく一礼した。
「それでは、そろそろお邪魔虫は退散することにいたしましょう」
そう言い残して去っていく侯爵の背を見送りながら、リュシエリアーナは人心地つくように息を吐く。
そして、大広間に入ってからというもの、ずっと熱を帯びた視線を送り続けてくる婚約者へと振り返った。
その視線の意味を察しながらも、あえて気付かぬふりを続けていた彼女は、半ば呆れたような眼差しを向ける。
「……言いたいことは判るが、あまりそう見つめないでくれ」
「! え……!? そ……そんなに見つめていましたか……!?」
「凝視していただろう。……物珍しいとは思うが、そんなに見られると、私といえど気恥ずかしくなる」
「え……?」
「私の本性を知っているラファ様から見れば、令嬢の真似事をしている私はさぞ滑稽に映ることだろう。自分でも柄ではないと自覚はしているが、せめてここにいる間は我慢────」
「そのような事はありません!」
リュシエリアーナの言葉を遮り、ラファシアンは思わず声を張り上げた。
まさか、自分が物珍しさや滑稽さから彼女を見つめていると思われていたなど、あまりにも心外だ。
「た、確かに、いつもの貴女とは違いますが……! ですが、それを滑稽だと思ったことなど、一度も……! 私は、どのような貴女であっても変わらず、す────」
「これはこれは! 公女殿下とフォルスタート卿ではありませんか! お二人のご婚約、心からお祝い申し上げますぞ!!」
しどろもどろになりながらも、必死に想いを伝えようとした甘い空気を打ち砕いたのは、恰幅の良いザッティーナ男爵の無遠慮な大声だった。
すでに酒が回っているのだろう。
顔は熟れた林檎のように赤らんでいる。
「いやあ、本当に感慨深いものですな! 男は顔ではありませんぞ、フォルスタート卿! 心意気と、誠実さです!」
「あ、ありがとうございます……?」
ぐいぐいと距離を詰めて熱弁する男爵に、ラファシアンは苦笑混じりの曖昧な返答を返す。
(…………それには同意だが)
男爵の言葉に内心で肯定を示しつつも、リュシエリアーナは格上の貴族であるラファシアンに対する男爵の気安すぎる態度に、わずかに眉を顰めていた。
(だが……肝心のラファ様が気にも留めていないからな)
ちらりと視界に入れたラファシアンは、戸惑いこそしているものの、不快感を示す様子は微塵もない。そもそも彼は、人一倍穏やかな気質だ。たかがこれしきの事で、苛立ちを覚えるとは思えない。
(……これでは、口を挟むに挟めない)
小さく肩を竦めるように、リュシエリアーナは喉の奥でくすりと笑う。
その様子を視界の端に収めた男爵は、不意にラファシアンの耳元へ顔を寄せ、小声で囁いた。
「そのイヤーカフ、まさに公女殿下からの愛を一身に受けておられるようで、実に羨ましい」
「!」
────愛のない婚約の場合、女性側から贈られるものはエンゲージ・ブローチであることが多い。
相手を深く知らないがゆえに何を贈れば喜ぶのかが判らず、そして何より、それを考えること自体が面倒だからだ。
だからこそ、ラファシアンが身に着けているものが、ありふれたブローチではなくイヤーカフであるという事実は、実に驚愕に値するものだった。
耳元で落とされたその言葉に、ラファシアンは間髪入れず得意の赤面を披露する。
「そ、それは……! その……!」
耳朶まで真っ赤に染め、口元を押さえながら狼狽える辺境伯の、その稀有な姿を見た瞬間、周囲の人々は一様に目を見開いた。
男女の別なく、胸の奥に得体の知れない熱が灯る。
耳打ちをした本人である男爵などは、酔って赤らめた顔以上に頬に赤みが差し、なぜだか動悸が収まらない。
男爵はラファシアン以上に狼狽えながら、あたふたと胸を抑えた。
「あ、ああ……! ど、どうやら酔いが回ってきたようで……! 少し風に当たることにいたします……! では失礼!」
慌てて辞去を申し出て、そのまま逃げるように人混みに消えていった男爵の心中では────。
(な、なんだ……!? 何なのだ、この胸の高鳴りは……!?)
などという混乱が渦巻いていることなど露知らず、ラファシアンは不思議そうに小首を傾げている。
(………………ラファ様の無自覚魅了攻撃は、末恐ろしいな)
一部始終を見ていたリュシエリアーナだけが、素直にそう唸った。
彼らは頭では理解しているのだ。
ラファシアンが『世界で最も醜悪な辺境伯』であると。
だが、くるくると表情を変える彼を見ることに慣れていないせいか、その僅かな変化だけで心を大きく揺さぶられてしまうらしい。
(……そうだな。『表情を見る』ということは『顔を見る』ということだからな)
ラファシアンの表情が変わるその一瞬だけ、彼らの意識は白銀の髪から離れ、無意識に顔立ちそのものへ向けられるのだろう。
(……とはいえ、これ以上ここにいては、ラファ様の美しさが周囲に気づかれてしまいそうだ)
本来なら、それは彼にとって喜ばしい誤算のはずだ。
だが、独占欲を自覚してしまった以上、できることなら、あと少しだけは、彼の美しさを自分だけのものにしておきたい────。
(──と、思うのは、明らかに私の利己主義だろうな)
執着をしない──そう決めたはずなのに、その決意は未だ少しも盤石ではない。意志の弱い自分に、心底嫌気が差す。
そう思いつつも、どうしても考えてしまうのだ。
────いつか来るであろう、二人の関係の終焉を。
おそらく、そう遠くない未来で、ラファシアンの美しさは周知の事実となるだろう。その時にはきっと、彼を愛し、そして彼自身もまた想いを寄せる相手が現れるはずだ。
そうなれば、自分はお役御免となる。
(……それまでの短い間だけでも、美しいものを独占したところで罰は当たらないだろう。せめて、その程度の欲くらいは、大目に見てくれてもいいはずだ)
誰にともなく言い訳するように胸中で呟いたところで、背後からかける声があった。
「リュシー……──いや、マレグレン公爵令嬢」
背後から掛けられたその声に、ラファシアンはびくりと肩を震わせる。
親しみを滲ませた呼びかけに、リュシエリアーナは目を見開き、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、つい先日まで自分の婚約者であったアレクスフォード=ギルリアン王太子と、新たにその婚約者の座についた『妖精王の愛し子』シエナ=モルドレッド男爵令嬢だった。
「アレクス兄さま……──ではなく、王太子殿下。ご無沙汰しております」
ドレスの裾を軽く摘み、優雅なカーテシーを見せるリュシエリアーナに倣って、ラファシアンもまた背筋を正し、端正な所作で一礼する。
(彼が……リュシエリアーナ嬢の元婚約者──)
自然と眉間に力が入る。
胸の奥に澱のように溜まる、この得体の知れない感情は何なのだろうか。
「フォルスタート辺境伯、マレグレン公爵令嬢。ぜひ二人に祝辞を述べさせてくれ。此度の婚約、心よりお祝い申し上げる」
「……王太子殿下からの身に余るお言葉、有り難く存じます」
恭しく答え、無駄のない美しい所作で再び頭を下げるラファシアンに、アレクスフォードどこか居たたまれなさそうに眉尻を下げた。
「……いや、そもそも私は彼女に対して、後ろめたいものがある。本来ならば、祝辞を述べる資格はない」
そう言って苦く笑い、隣のシエナへ視線を向ける。そのまま申し訳なさそうに俯く二人の空気を、リュシエリアーナはあっさりと吹き飛ばした。
「何をおっしゃいます、殿下。あれほど熱い視線を交わし合うお二人の間に割って入れるほど、私は厚顔無恥ではございませんよ?」
「! べ、別に熱い視線を交わしていたわけでは……!」
途端に二人揃って顔を赤らめ、慌てて反論するアレクスフォードに、リュシエリアーナは思わず愉快そうに笑みを零した。
そうして微笑ましそうに目を細め、静かに言葉を継ぐ。
「……私と殿下は、異性というより家族に近い関係でした。長く一緒に居過ぎたのでしょう。だから私は、とても嬉しいのです。兄と慕うアレクス兄さまに、想い想われる相手が出来たことが」
「リュシー……」
「ですからシエナ嬢も、そのように俯かないでください。お二人が幸せそうであればあるほど、私は婚約者の座を譲って良かったと胸を張れるのですから」
「リュシエリアーナ様……!」
一切の嫌味も忖度もない、リュシエリアーナからの心からの言葉を受け取って、二人は感極まったように瞳を輝かせ、互いに顔を綻ばせる。その幸福そうな姿に、リュシエリアーナは胸の内にわずかに残っていた罪悪感が、ゆっくりと薄らぐのを感じた。
────己の目的のために、二人の恋心を利用したのだ。
その所為で、二人の心にいつまでも痼のように自分に対する罪悪感が残っていては、あまりに後味が悪い。
そんな打算を胸の奥に隠しながら、改めて二人へ顔を向ける。
ふと目に留まったのは、アレクスフォードの髪と瞳の色を映したような、シエナのドレスだった。
「……だが、アレクス兄さま。シエナ嬢に自分の色を纏わせるのは、いささか早い気がするが?」
「!」
彼らが婚約したとはいえ、まだ婚約発表の夜会を迎えてはいない。
耳元で落とされたリュシエリアーナの言葉が、それを言及しているのだと察して、アレクスフォードはたちまち耳まで真っ赤になる。
「リュシー……! 君は昔から本当に変わらないな……!」
「人の性根というものは、そう簡単に変わるものではございませんよ、アレクス兄さま」
少しは淑女らしくなったと思っていたのに──という視線を、リュシエリアーナは笑って受け流す。
そのやり取りに流れる、自然な親しさ──それを目の当たりにしたラファシアンは、ひどく居心地の悪い気持ちになっていた。
(……何だろう、この感情は)
彼らの間にあるのは、恋慕の情ではない。彼女が言葉にした通り、きっとそれは家族の情なのだろう。
それは見ていれば判る。
なのに、リュシエリアーナの実兄であるフォルドエルには抱かなかった感情が、胸の内でじわじわと広がっていくのだ。
(……私は、嫉妬しているのか?)
彼らの間にあるのが例え恋慕の情などではなくとも、自分と彼女の間には確実にないものが、二人にはある。
(────殿下は、私の知らない彼女の十八年間をご存知だ)
たったそれだけのことが、これほど悔しいとは。
気づけばラファシアンは、彼女が自分の腕に添えている手へ、そっと自らの手を重ねていた。
「? ラファ様?」
不思議そうな声が降ってきたが、ラファシアンは答えられない。視線を逸らしたまま、無意識にその手を握り締めていた。
その様子に、リュシエリアーナは目を見開く。
「どうした、ラファ様……!?」
「!」
「何かあったのか!? 我慢をするな! 一人で抱え込まず、私に言えばいい! 言っただろう、私が傍にいると!」
勢いよく彼の両頬を包み込み、無理やり自分へ向き直らせる。
不意打ちで視界いっぱいに彼女の顔で埋め尽くされてしまったラファシアンは、たまらず火を吹くように、盛大に耳朶まで顔を赤らめた。
「や……その……! ……………………ち、近いです……リュシエリアーナ嬢……!」
「!」
言われて気づく。
互いの吐息が届きそうなほど近い、彼の美しい相貌────。
「す、すまない……!」
慌てて手を離し、二人揃って咳払いをする。どちらも赤くなった顔を誤魔化すように視線を逸らしている姿は、あまりにも初々しかった。
その一部始終を見ていたアレクスフォードとシエナは、揃って目を丸くする。
やがて互いに顔を見合わせ、小さく笑った。
「……そうか」
アレクスフォードは感慨深げに呟く。
「リュシーにも、そんな顔をさせる相手が現れたか」
「え?」
「安心した」
その言葉だけを残し、アレクスフォードはラファシアンへ視線を向けた。
「辺境伯。どうか私の再従妹を、よろしく頼む」
「! 命に代えてでも、彼女のことは私が必ず守ります」
先ほどまで赤面していた人物とは思えないほど凛々しく、真っ直ぐな眼差しで断言した迷いのない即答に、アレクスフォードは満足そうに頷く。
そのまま踵を返して、シエナと共に去っていく王太子の背を、リュシエリアーナは小首を傾げながら見送っていた。
「…………私は、それほどおかしな顔をしていたか……?」
自分の頬に触れながら真剣に悩む彼女に、ラファシアンは思わず視線を落とした。
(……彼女は、殿下の前でああいう表情を見せたことがないのか)
先ほどまでの嫉妬や劣等感が、やはりたったこれだけのことで淡く消え、代わりに胸の奥がじわりと温かくなる。
(……単純だな、私は)
わずかな自嘲と、それ以上の喜びを滲ませた微笑みを落としたその時、人混みの向こうから、こちらへ近づいてくる人影が、ラファシアンの視界の端に映った。
カツン、と大理石の床を鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくるひとつの影。
その無遠慮なまでに鮮烈な赤が視界に飛び込んできた瞬間、ラファシアンはわずかに目を見開いた。
「……お久しぶりです、フォルスタート辺境伯閣下」
親しみを滲ませた声音とともに、艶やかな赤毛を揺らして歩み寄ってくる一人の女性────。
(彼女は……)
覚えている。
忘れられるはずがない。
自身の八番目の婚約者だった、メリッサ=ヴォーテン侯爵令嬢だ。
「……お久しぶりです、ヴォーテン侯爵令嬢」
彼から離れたところで、ぴたりと足を止めたメリッサに、ラファシアンは訝しく思いながらも、軽く会釈をして挨拶を返す。
(なぜ、彼女が……?)
間に距離を保ちつつも、微笑みを浮かべて話しかけてくる理由が、ラファシアンには思い当たらない。
少なくとも、彼女との婚談の儀は、過去十七回の中で最も冷たく、痛罵が激しかった。
当初、屋敷に入ることすら許されず、シエルが抗議をして何とか通されたのは玄関先まで。そこで待っていたのは、延々と続く侮辱と罵倒だった。
『世界で最も醜悪な貴族』の婚約者にされた己の不幸を嘆き、憤りをぶつけ、最後にはラファシアンに一言も発言を許さぬまま、屋敷から追い返したのだ。
────『令嬢の家格が高ければ高いほど、自分に向けられる憎悪は、より苛烈なものになる』
その法則を、ラファシアンに最初に教えたのが、まさにメリッサ=ヴォーテン侯爵令嬢その人だった。
「まずは祝辞を述べさせていただきますわ。ご婚約、おめでとうございます。フォルスタート辺境伯閣下、公女殿下」
彼に暴言を吐き捨てた過去など、まるでなかったかのように、メリッサは薄っぺらな笑顔を貼り付けて、形ばかりの祝辞を述べる。
そして、隣に立つリュシエリアーナへと向き直り、優雅なカーテシーを披露した。
「公女殿下には自己紹介を。私はメリッサ=ヴォーテンと申します。同じ辺境伯閣下の婚約者だった者同士、どうぞ仲良くしてくださいませ。……もっとも、私は『元』ですが」
にこやかに微笑みながらも妙に棘のある彼女の言動に、リュシエリアーナは軽く目を細める。
顔立ちは、どちらかというと綺麗な方だ。
だが、口元に浮かぶ笑みも、瞳の奥の光も、どこか粘つくような悪意を孕んでいる。
彼女が纏う、ひどく不快な空気に、リュシエリアーナは本能的に言葉にし難い嫌悪感を感じていた。
そんな感情をおくびにも出さず、リュシエリアーナは優雅に微笑みを浮かべる。
「……存じ上げております。ラファ様の八番目の婚約者の方ですね。お祝いのお言葉、有り難く頂戴致します」
(ラファ様……!?)
あえて愛称呼びをした公女の言葉に、メリッサの表情が、一瞬だけ醜く歪む。
腸が煮えくり返るような怒りが込み上げたが、すぐに笑顔を取り繕い、公女へ言葉を続けようとした──その時。
ラファシアンが静かに一歩前へ出て、自然な動作で、二人の間へ割り込む。
「……祝辞は頂きました。他に何かご用がお有りですか?」
穏やかな声音だったが、そこには明確な拒絶があった。
まるで、公女へ近づくなとでも言うようなその態度が、メリッサの癇に障る。
怒りで拳を握りながらも、だが辛うじて笑顔だけは崩さなかった。
「……実は、大変恐縮ではございますが、公女殿下をお借り願えないかと」
「! ……リュシエリアーナ嬢を?」
「はい。皆さまへのご挨拶でお疲れでしょう? 休憩も兼ねて、あちらで女性同士お話でも、とお誘いに参りましたの」
「……それは────」
「まあ……! ご配慮に感謝いたします、ヴォーテン侯爵令嬢。ぜひ、お誘いをお受けいたしますわ」
「! リュシエリアーナ嬢……!?」
あっさりと承諾した彼女に、ラファシアンは思わず振り返った。
慌てた理由は、元婚約者だからではない。正直なところ、三日で終わった婚約など、婚約者と呼ぶのも怪しい関係だ。
だが────。
ラファシアンは、視線だけをメリッサへと向ける。
視界の端に捉えたメリッサは、相変わらず笑顔を湛えていた。もちろん、その笑顔が表面だけを取り繕った仮面であることは、百も承知だ。
だがその仮面以上に隠しきれていないのが、突き刺すようにこちらへ向けられた、奥に渦巻く肌が粟立つほどの濃い悪意だった。
(……彼女からは、明らかな敵意が感じられる)
ヴォーテン侯爵家は、教皇派だ。
今回、襲撃を企てているのは王族過激派──彼女が関わっているとは、考えにくい。
だが不穏な動きがある以上、用心するに越したことはないだろう。
何より危険だと判っている場所へ、大切な婚約者を一人で送り出すつもりは毛頭なかった。
「……リュシエリアーナ嬢。彼女は────」
「判っている、ラファ様」
耳元で囁くように制止しようとした言葉を、リュシエリアーナは笑顔ひとつで受け止める。
「……案ずるな。私を誰だと思っている」
紫電の瞳には欠片ほどの迷いもない。
それでもなお説得しようとしたラファシアンの言葉は、だが彼の胸元を指で軽く、こつん、と叩く彼女の言葉に、あえなく閉ざされることになる。
「私を信用しろ、ラファ様」
その言葉に込められた意味を、彼は理解している。
レースの下に隠された氷の苦無。
そして、彼女自身の剣士としての実力。
何より彼女は決して無謀な人ではない。危険を承知した上で、自ら踏み込もうとしている。
────だからこそ、止められない。
「……貴女は、ずるい人だ」
深いため息とともに、不承不承と降参を示した彼を、リュシエリアーナはくすりと笑った。
「彼女たちに少し、挨拶をしてまいりますね。ラファ様」
そう言い残し、メリッサと共に歩み去っていく。
────彼女を、信用していないわけではない。
だがそれでも。
その小さな背中が人混みの向こうへ消えていくまで、ラファシアンは不安を隠し切れないまま、じっと見つめ続けていた。




