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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う  作者: 枢氷みをか
序章・出会いと婚約

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20/22

婚約発表の夜会・一編

「とてもよくお似合いですよ、公女殿下!」


 マレグレン公爵邸の一室に、セナの朗らかな声が響いた。いよいよ迎えた、婚約発表当日の朝のことである。


 リュシエリアーナが夜会用のドレスに袖を通したのは、今日が初めてだ。ぎりぎりまで微調整や手直しを重ねるため、セナは早朝から公爵邸に詰めてくれていた。


「とても素敵です……! お嬢様!」


 支度の手伝いをしていたヴェルが、感嘆の吐息を漏らす。

 その声に促されるように専属侍女を振り返ったリュシエリアーナの装いは、まるで神秘的な夜空そのものだった。 


 ラファシアンの瞳の色である、深い濃紺を基調としたドレス。

 彼女の白磁の素肌にその色が鮮やかに映え、腰回りを絞ったスレンダーラインが、すらりと伸びた細身の体躯を際立たせている。彼女らしい凛とした佇まいに、これ以上ないほど相応しい。

 胸元や裾には、彼の髪色を思わせる銀の刺繍が惜しげもなく施され、散りばめられたダイヤモンドが夜空に瞬く星々のように煌めいていた。


 そして何より目を惹くのは、その繊細な色彩だろう。


 裾から上へ向かうにつれ、濃紺はゆるやかに淡さを帯び、美しい濃淡を描いている。大きく開いた胸元から首筋、そして手首にかけては、紺青の宝石を編み込んだ銀のレースが上品に肌を覆っていた。


 妖艶でありながら、決して清廉さを損なわない。まさしく、『公女殿下』の名に相応しい意匠だった。


「────まるで『夜明け』のようだな」


 鏡に映る己の姿を見つめながら、リュシエリアーナはぽつりと呟く。


 かつて自分は、ラファシアンの白銀の髪を『湖面で跳ねる陽光のようだ』と評した。

 星を散りばめた夜空が、胸元へ向かうにつれて次第に淡くほどけ、銀のレースへと移り変わっていく様は、まさしく夜明けを告げる朝日そのものに思えた。


(まるで、ラファ様がすぐ傍で包み込んでくれているようだ……)


 そう思った瞬間、胸の奥がかすかに熱を帯びる。

 愛おしむようにドレスの裾へ触れ、無意識に頬を緩めた彼女の姿を、セナは微笑ましげに見つめ、くすりと喉を鳴らした。


「手直しはほとんど必要ございませんね。──お気に召していただけましたか?」

「ああ、気に入った……! さすがはラファ様の選んだ仕立て師だ」

「……?」


 屈託なく返された言葉に、セナは不思議そうに小首を傾げた。


「……辺境伯さまからは、何もお聞きになっておられないのですか?」

「? 何の話だ?」

「ああ、いえ……! お耳に入っておられないのでしたら、どうぞお気になさらず……! 今の言葉はお忘れくださいまし!」


 慌てて取り繕うセナの様子に、リュシエリアーナは怪訝そうに眉を寄せる。

 そんな彼女の追及をかわそうと、セナは唐突に別の話題を持ち出した。


「ああ、そういえば……! 公女殿下からご所望いただきました、こちらの出来はいかがでしょう?」


 そう言ってセナが示したのは、ドレスの右側へ大胆に刻まれた深いスリットだった。


 足をわずかに動かすだけでも、艶めかしくもしなやかな白い太腿が覗く。そのスリットを覆い隠すように幾重ものレースが重ねられ、右腰には大きな花を模したリボンがレースを縫い止めていた。


 問われたリュシエリアーナは、静かにそのスリットへ視線を落とした。


「悪くはない。──悪くはないが……このレースが少々邪魔だな」


 これでは何のためにスリットを入れてもらったのか判らない。

 婚前の女性の肌を露出しないことが大前提であるのは理解している。だが、それにしてもこのドレスは、(いささ)か徹底しすぎているのではないかとリュシエリアーナは思う。


(……ドレスの流行に詳しい訳ではないが、それでも若い女子(おなご)たちは、もう少し寛容な装いをしていなかったか?)


 それに引き換え、このドレスは開いた胸元だけではなく、首筋から腕に至るまで、銀のレースで隙なく覆い隠されている。肌という肌を誰の目にも触れさせまいとする、強い『主張』がありありと窺えて、リュシエリアーナはたまらず苦笑を漏らした。


 その的外れな──それでいてどこか微笑ましい不満を察して、セナは密かに笑みを堪えながら口を開く。


「一度、足を少し高く上げてみてくださいませ」


 訝しく思いながらも、リュシエリアーナは言われるがまま、ゆっくりと足を持ち上げる。

 ある一定の角度に達した瞬間、幾重にも重なっていたレースがはらはらと滑り落ち、艶やかな太腿が露わになった。


「!」

「歩行時程度の動きでは肌が見えぬようになっておりますが、それ以上に足を上げますと、このようにレースがすべて反対側に落ちる仕組みになっております。必要な折にはここまで足を上げてくださいませ」

「さすがだな……! 見事な職人技だ」


 感嘆の声を漏らしながら、リュシエリアーナは露わになった太腿へ視線を落とす。


 そこには、肌を隠すために纏われた白いタイツと、それを留めるためのガーターリングがあった。繊細なレースで飾られてはいるものの──否、それはただの装飾ではない。


 華奢に見える意匠の下には、堅牢な革が仕込まれている。そこには何かを収めるためのホルダーが三つ、やはりレースの花に紛れ込ませるようにして備え付けられていた。


「ですが、お嬢様。こちらには一体何をお入れになるのです?」


 ヴェルの問いに、実際にこれを仕立てたセナですら答えを知らないのか、不思議そうに首を傾げる。


 おそらく武器を仕込むためのものなのだろう。だが、その大きさは短剣を収めるにはあまりにも小さい。もっと小振りな、三角形の『何か』を挟み込むような特殊な形状をしていた。


「それに、教皇猊下の張られる絶対結界には、武器を持ち込める隙はございませんよ? 唯一お手元にあった猊下の認証印も、フォルスタート辺境伯さまへお譲りになったのでしょう?」


 父は、手元にあった唯一の認証印を、二人のどちらかが持つよう差し出した。それを彼女は、迷わずラファシアンに譲ったのだ。魔法に長けた彼が持っていた方が、遥かに有効に使えると判断したからだ。


 だが、その結果としてリュシエリアーナ自身は完全に丸腰となった。

 そして、武器の持ち込みが不可能な中での、このホルダーだ。


 不安げな顔で、もっともな疑問を口にするヴェルに、リュシエリアーナはにやりと不敵な笑みを返した。


「もちろん武器を持ち込む気などない。────今はまだ、な」


 その返答に、セナとヴェルはますます深く、首を傾げた。


**


 ラファシアンは、朝からずっと落ち着かない時間を過ごしていた。


 それは婚約発表の夜会に向けた身支度に追われているからではない。

 ましてや、この夜会に不穏な動きがあるからでもなかった。


 無論、王族過激派による奇襲への警戒は怠っていない。

 だが今、何よりもラファシアンの心をかき乱しているのは、リュシエリアーナの存在だった。


(……これでようやく、本当の意味で彼女と婚約できる)


 (はや)る気持ちを抑えるように、ラファシアンは深く息を吐く。


 もちろん、契約婚であることは最初から理解している。

 それでも婚約発表の場を設けるということは、王族や教皇だけではなく、神聖国中の貴族たちが二人の婚約の証人になるということだ。それはつまり、『既成事実を作る』に等しい。


(まさかこの私が、婚約発表の日を迎えられるとは……)


 それも、想いを寄せた相手との、だ。


 胸の奥に込み上げる熱を噛み締めながら、ラファシアンはマレグレン邸の大広間に差す斜陽を見つめた。


 もうそろそろ、夜の闇が訪れようとしている逢魔が時だ。夜会は陽が沈むと同時に幕を開け、主役の二人が並んで会場に入る。

 その光景を想像しただけで、鼓動が早鐘を打ったように鳴り響き、心が落ち着かない。


 それは夢にまで見た、愛しい相手と初めて公の場へ赴く高揚感か。

 あるいは、『絶世の美女』の隣に立つ醜い自分への、侮蔑と嘲笑に対する恐怖か────。


(……落ち着け、ラファシアン。これ以上、リュシエリアーナ嬢の前で醜態を晒すべきではない)


 彼女を支えるべきは、男である自分だ。

 その自分が、怖気づいてどうする。


 胸の奥に渦巻く不安を吐き出すように、再びゆっくりと息を落とす。

 気持ちを鎮めるように、左耳で揺れるイヤーカフへそっと触れた、その時──かつん、と硬質な靴音が静かな大広間に響いた。


「ラファ様、待たせてすまない」


 鈴を鳴らしたような声に、ラファシアンは弾かれたように顔を上げる。視界に映ったのは、結い上げた黒髪から白く細いうなじを覗かせ、こちらを妖艶な紫紺の瞳で見下ろすリュシエリアーナの姿────。


「────……!」


 その想像を遥かに超える美しさに、ラファシアンは息を呑んだ。


 これまでにも彼女の正装姿を目にしたことはある。

 だが、今目の前に立つ彼女は、それらとは比べ物にならなかった。


 ゆっくりと階段を降りてくるその姿は、黄金色の斜陽に照らされ、まるで天より舞い降りた女神のように、凛々しく神々しい。

 歩行に合わせて軽く揺れる、自分の瞳の色を宿した深い紺色のドレスは、リュシエリアーナの白磁の肌をより際立たせて、凛とした美しさの中に、触れれば壊れてしまいそうな儚ささえ滲んでいる。


 それはまるで、一枚の絵画を前にしたかのようだった。


 ラファシアンは、その一瞬を噛み締めるように、ただ呆然と彼女を見つめ続けていた。


「……ラファ様? どうした、気分が優れないか?」

「! い、いえ……! そのような事は……!」


 はっと我に返ったラファシアンは、耳朶まで赤く染まった顔を隠すように口元へ手を添え、小さく首を横に振る。

 その彼の様子に、リュシエリアーナは何かに思い至ったように「ああ……!」と声を上げた。


「このドレスだろう? さすがにこれほど華美だと、ドレスに着られている感は否めないか……」


 どこか気恥ずかしそうに視線を落としたリュシエリアーナの言葉に、ラファシアンは赤らめていた顔へ、不安げな色を滲ませた。


「あ……お気に、召しませんでしたか? 貴女に似合うものを必死に考えたのですが……」

「!」

「セナから助言を受けながら、何度も試行錯誤して意匠図を書き上げたのですが……やはり、素人の私が考えたものよりも、本職であるセナに任せたほうが────」


 申し訳なさそうに視線を伏せたまま、ラファシアンは独り言のように言葉を重ねる。

 そして、自分の中で何か結論づけたのか、おもむろに顔を上げた。


「申し訳ありません、リュシエリアーナ嬢。今日の夜会には間に合いませんが、改めてセナに、貴女のためのドレスを────」


 そこまで口にしたところで、彼の言葉は途切れた。

 視界に映った彼女の表情が、今まで見たこともないほど、溢れんばかりに嬉しそうに綻んでいたからだ。


「──……!」


 燦々と輝く紫電の瞳と、わずかに染まった頬。薄紅を引いた艶やかな唇は、喜びを隠し切れないように大きく口角を上げている。


「そうか……! このドレスは、ラファ様が私のために作ってくれたのだな……!」

「あ……その……!」


 肯定の言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。

 顔のみならず、全身の血が逆流しているのではないかと思うほど体中が火照っているのは、言葉にしなくとも彼女がこのドレスを、いたく気に入っていると判るからだ。それも、『セナが作ったから』ではなく、『自分が彼女のために考えたから』という理由で──。


(……彼女は、無自覚なのだろうか)


 ──自分が今、どういう表情をしているのかを。


 これほど無防備に喜ばれてしまえば、なおさら強く、彼女を独占したくなる。


 ──もう誰にも、渡したくはない。

 そう、思ってしまう。


「ありがとう、ラファ様。このドレスは、生涯大事にする」

「い、いえ……! ……………………光栄、です」


 俯いたまま、どうにか絞り出した返答に、リュシエリアーナは微笑ましそうにくすりと笑う。その彼の左耳で揺れる、自分が贈ったイヤーカフを、リュシエリアーナは視界に収めた。


「……やはり、ラファ様によく似合っている」


 そう言って、リュシエリアーナはそっと手を伸ばす。


 今日のラファシアンの装いは、婚約者であるリュシエリアーナのドレスに合わせて、白を基調にした中に濃紺をあしらった正装だ。左肩から流れるペリースには、濃紺の布地に銀糸の刺繍が施されている。


 その中で揺れる、自分の色を宿したイヤーカフ。


(……なるほど。これは確かに、悪い気はしない)


 『彼は自分のものだ』と示すようなこの感覚が、きっと独占欲というものなのだろう。


 義姉が実兄へ贈っていた婚約の証の数々が、今になって妙に腑に落ちた。


(できれば婚約発表の後も、ずっと身に付けていてほしいが……)


 彼がこのイヤーカフを身に付けるのは、今日でまだ二度目だ。

 醜いとされる自分が着飾ることを極端に嫌う彼にとって、このイヤーカフはきっと重荷になるのだろう。


 そう思うと、少しだけ寂しさが胸を掠めた。


 残念そうに目を細めながらイヤーカフに触れる彼女の手を、ラファシアンはそっと包み込むように握る。


「……婚約発表を終えるまでは、と自重しておりましたが……今日からはずっと、このイヤーカフを身に付けることを、お許しいただけますか?」

「!」


 リュシエリアーナは目を大きく見開き、次の瞬間、花が綻ぶように破顔した。


「──ああ、もちろんだ」


**


「教皇猊下、アレクスフォード=ギルリアンです。『妖精王の愛し子』シエナ=モルドレッドもご一緒しております」

「入りなさい」


 控えめに扉を叩いた主に、教皇リオンフェルドは穏やかな声で入室を許す。

 扉を開いた先に座る、聖職者の装いを纏った教皇に、アレクスフォードとシエナは並んで深く(こうべ)を垂れた。


「拝謁の栄に浴する誉れをいただき────」

「ああ、今日は祝いの席だからね。堅苦しい挨拶はなしだ」


 朗らかにアレクスフォードの言葉を遮りながら、リオンフェルドはどこか申し訳なさそうな笑みを向ける。


「それよりも今日一日、君の婚約者を借りることになる。……すまないね、アレクス」

「! そ、そのようなお気遣いは無用です……!」


 思いがけない詫びに、アレクスフォードは気恥ずかしそうに頬を染め、慌てて言葉を返した。


(……そんなに不満げな顔をしていただろうか、私は)


 気まずげに視線を逸らし、赤くなった顔を隠すように口元へ手を添える。


 その様子が可笑しかったのか、リオンフェルドは小さく笑みを零した。


「婚約発表の夜会は、大聖堂で執り行う。シエナは私と共に入場するから、アレクスは先に会場へ向かいなさい」

「承知いたしました。……ではシエナ、また会場で」

「はい、殿下」


 シエナの返事に小さく頷くと、アレクスフォードは(うやうや)しく一礼し、そのまま静かに謁見の間を辞した。


 扉が閉まり、室内に静寂が落ちる。

 一人残されたシエナは、不安を隠し切れない表情で身を強張らせていた。


 そんな彼女の様子に、リオンフェルドは思わず吹き出すように笑う。


「そんな顔をしなくとも、取って食ったりなどしないよ」

「! そ、そういうわけでは……! その……し、失礼いたしました……!」


 己の不敬に気づいたシエナは、慌てて頭を下げる。


 その怯えを和らげるように、リオンフェルドは柔らかな微笑を浮かべたまま、傍へ来るよう手招いた。

 躊躇いがちに歩み寄ったシエナの手を、彼はそっと優しく包み込む。


「私が怖いかい?」

「い、いえ……! そのような事は決して……!」

「では、何をそれほど怯えている?」


 『妖精王の愛し子』は、神寵者(しんちょうしゃ)である教皇と共に政務へ携わるのが習わしだ。

 シエナが『妖精王の愛し子』となってから、およそ三ヶ月。これまでにも何度か顔を合わせてきたが、そのたびに彼女は畏怖と怯えを瞳に宿し、申し訳なさそうに俯くばかりだった。


 問いかけられたシエナは、真っ直ぐに自分を見つめる教皇の瞳から逃れられないと悟ったのか、わずかに躊躇った後、意を決したように唇を開いた。


「……猊下は、私のことをお怒りではございませんか?」

「? 私が? シエナをかい?」


 身に覚えのない話に、リオンフェルドは思わず豆鉄砲を食らったように目を丸くする。


「なぜ、そのように思う?」

「……猊下は、リュシエリアーナ様を、とても可愛がっておられるとお聞きいたしました。私はそのリュシエリアーナ様から、婚約者である殿下を奪ってしまった……猊下にとって、決して良い話では────」


 その先の言葉を遮ったのは、リオンフェルドの口から突如として零れた哄笑(こうしょう)だった。


 辛辣な言葉を浴びせられることすら覚悟していたシエナは、静かな謁見の間に高らかに響き渡る笑い声に、呆気に取られて立ち尽くす。


「そうか……! 君はずっと、そんな勘違いをしていたのだね……! リュシーは何とも罪作りな子だ……!」

「え……っと……?」


 状況が理解できず、呆然と目を瞬かせるシエナへ、リオンフェルドは目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら言葉を続ける。


「何も気に病むことはない。リュシーはこの婚約破棄に関して、何とも思っていないからね。むしろ嬉々として受け入れたことだろう。──私も、だがね」

「? は、はあ……?」

「君が罪悪感に苛まれる必要はない。そしてこれからは、どうか私をそこまで怖がらないでくれると嬉しい」


 にこりと微笑む教皇の言葉に、シエナは戸惑いながらも目を見開く。

 自分の怯えに気づき、それを取り除こうとしてくれていたのだと、ようやく理解したからだ。


 千年の時を生きる、大賢者。

 それでいて少しも(おご)ることなく、常に周囲への気遣いを忘れない、慈悲深き教皇。


 その偉大さに、シエナは自然と(こうべ)を垂れていた。


「では我々も、大聖堂に向かおうか」


 シエナの中から怯えが薄れたことに満足したのか、リオンフェルドは穏やかに頷き、ゆっくりと立ち上がる。


 ──その瞬間。


「──……っ!」

「猊下……!?」


 突如として胸元を押さえ、その場へ膝をつく教皇の姿に、シエナは蒼白な顔で慌ててその身体を支えた。


「猊下……! また……!」

「……エナ……っ! 治癒……を……! 早く……!」

「──っ!」


 シエナは咄嗟に、『妖精王の愛し子』が持つ治癒魔法を教皇へ施した。


 喘ぐように短い呼吸を繰り返していたリオンフェルドの息が、徐々に落ち着きを取り戻していく。

 蒼白な顔には脂汗が滲んでいたが、それでもどうにか、一時の平静は戻ったようだった。


「……助かった、シエナ……ありがとう……」


 礼を口にしながらも、教皇はなお身体を起こせず、床へ膝をついたまま背を丸めている。


 その姿を不安げに見つめながら、シエナは重々しく口を開いた。


「……猊下。もう、これで四度目です」


 『妖精王の愛し子』の任へ就いてから、まだ三ヶ月。その間に、彼女が教皇へ治癒魔法を施したのは、これで四度目だ。

 『不老不死』と称される神寵者にとって、これは明らかな異常だろう。


「少しずつ、不調が現れる間隔も短くなっておられるように思えます。どうか一度、侍医の診察を──」

「『診察』──不老不死の私にとって、何と滑稽な言葉か……」

「猊下……!」


 自嘲するように鼻で笑い、吐き捨てるように呟くリオンフェルドへ、シエナは(たしな)めるように声を上げた。

 その声には、痛ましいほどの悲痛が滲んでいる。


 だが教皇は、それを断ち切るようにゆっくりと身体を起こし、鋭い眼差しを彼女へ向けた。


「……よく聞きなさい、シエナ。これは決して、治るものではない」

「……っ」

「そして君のその治癒能力は、私の身体を()たせるために存在する。────決して履き違えてはならない」

「……!」


 揺るぎない声音に宿る強い覚悟を前に、シエナの表情は強張る。

 言葉を失って俯く彼女へ、リオンフェルドは一転して、いつもの慈愛に満ちた柔らかい微笑みを、ふわりと落とした。


「……私は少し休んでから会場へ向かうとしよう。先に行って、待っていてくれるかな?」

「……はい」


 諦めたように小さく頷き、シエナは膝をついたままの教皇を支えて椅子へ座らせる。そうして、深々と(こうべ)を垂れ、静かに扉へ向かった。

 それでも後ろ髪を引かれたのか、扉へ手を掛けたところで、一度だけわずかに振り返る。


 だが何も言えぬまま、シエナは、ぱたん、と静かに扉を閉めた。


(……もうあまり、時間はないか)


 人心地つくように、リオンフェルドは深く息を吐いた。背もたれへ身体を預け、ゆっくりと天を仰ぐ。


 この体が、あとどれほどの年月を重ねられるのか、自分でも判らない。

 歴史上、神寵者と呼ばれる存在は、自分ただ一人だ。神寵者の寿命を知る者など、どこにも存在しない。


(千年──よく()ったものだ)


 人の身でありながら、千年という歳月を刻み続けた。そろそろ限界を迎えても、不思議ではないだろう。


 悔いはない。

 むしろ、長く生き過ぎたくらいだ。


(だが────)


 おそらく自分が死ねば、次の神寵者が現れるに違いない。

 そしてその者もまた、自分と同じ長い孤独に、苦しむことになるのだ。


 脳裏に浮かぶのは、かつて時を共にした伴侶や友人、自分を慕ってくれた者たちの姿。

 だがどれほど心を通わせても、彼らは皆、自分を置いて先に逝ってしまう。


 リオンフェルドは懐かしむように目を細め、静かな吐息を零す。


(……私の後を継ぐのは、おそらく彼だろう)


 神寵者である自分に、最も近い場所に立つ存在。

 その髪色ゆえに幼少から孤独を強いられ、神寵者となった後は、さらに長い孤独を生きることになる。


 ────そんな絶望にも等しい運命を、我が子同然の彼に背負わせることになるのか。


(……どうか、もう少しだけ。この身よ、()ってくれ)


 せめて。

 リュシエリアーナと共に過ごす幸せな時間を、彼が少しでも多く重ねられる、その時まで。


 祈るように、リオンフェルドはゆっくりと瞼を閉じた。

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