不穏な空気
「終わったぞ、ラファ様」
別室で採寸が終わるのを待っていたラファシアンの耳に、先ほどの冷ややかな態度とは打って変わった、どこか柔らかな響きを帯びた声が届いた。
振り返れば、扉から姿を見せたリュシエリアーナの表情は、何かがすっきりと吹っ切れたように、いつもの凛とした輝きを取り戻している。
仕立て師に何か不満でもあったのだろうかと密かに胃を痛めていたラファシアンは、その変わらぬ様子に深く安堵し、そっと胸を撫で下ろしてソファから立ち上がった。
「……採寸はつつがなく終わりましたか?」
「ああ、何の問題もない。意匠図ができ次第、一度ラファ様の屋敷へ直接伺うそうだ」
「承知いたしました。お手数をおかけしましたね」
言葉が途切れ、わずかな沈黙が落ちる。
ラファシアンはそわそわと視線を彷徨わせた後、意を決したように双眸へなけなしの勇気を宿し、ぎこちなく口を開いた。
「その……リュシエリアーナ嬢。もし、この後ご予定がなければ────」
「フォルスタート辺境伯、リュシー」
耳までほんのりと赤くしながら絞り出したその誘いは、だが、開け放たれたままの扉から不意に現れたマレグレン公爵の重々しい声によって、無惨にも遮られることになる。
「ドレスの採寸は終わったようだな」
「……お騒がせしております、マレグレン公爵閣下」
「ふむ、気にするな」
深々と頭を下げるラファシアンへ顔を上げるよう促す父の姿を見つめながら、リュシエリアーナはその横顔に宿る妙に張り詰めた緊張感に、眉を顰めた。
「どうなさったのです? 父上」
「……婚約発表の夜会について、お前たちの耳に入れておきたい事があってな」
「……?」
怪訝そうに互いの顔を見合わせる二人を置いて、父は無言のまま踵を返す。父の後を追って連れて行かれた先は、普段の執務室ではなく、屋敷の奥まった場所にある書斎だった。ここは外部の音が一切入らぬよう、あるいは室内の会話が決して外に漏れぬよう、強力な防音の『障壁魔法』が施されている特殊な空間だ。
女である自分が、この部屋に足を踏み入れることはまずない。その一点だけでも、事態の深刻さは十分に察せられた。
(……まるで軍議のようだな)
張り詰めた空気は、前世の記憶にある『軍議の場』そのものだ。
父は重々しくソファへ腰を下ろすと、対面の席へ座るよう静かに二人を促す。
互いに無言で視線を交わし、警戒を孕んだまま腰を下ろした二人を確認してから、マレグレン公爵はようやく重い口を開いた。
「────王族派の過激派が、良からぬことを企てているようだ」
「!?」
「お前たちの縁談は、王族派にも教皇派にも面白くない話だからな。とりわけ王族派は、国民人気も高い我がマレグレン公爵家の『絶世の美女』を教皇派に奪われるとあって、相当不満を募らせているらしい」
父の言葉の中に埋もれた身に覚えのない大層な評価に、リュシエリアーナは露骨に眉根を寄せる。
「……私は別に、国民に対して何かを施した覚えはありませんが」
「お前は常日頃から市井へ降りては、首を突っ込んで騒動を巻き起こしているだろうが」
つい先だっての強盗団壊滅といい、不穏な空気のある場所へ、そうとは知らず足を踏み入れては、力尽くで瞬く間に解決してしまう。
それでなくとも高飛車で気位の高い貴族が多い中で、公爵令嬢でありながら分け隔てなく平民に声をかける気安さがあるのだ。結果として民衆からの支持が爆発的に高まっているのも、ある意味当然だろうか。
娘の手に負えないじゃじゃ馬ぶりに、父はたまらず深々と嘆息する。
そんなマレグレン公爵に、だがラファシアンは静かに反論した。
「……ですが公爵閣下。私はあくまで中立を掲げる辺境伯です。私の婚姻が、本当にそこまで派閥争いに影響を及ぼすものでしょうか?」
「……確かに、辺境伯が中立の立場を強く標榜されているのは周知の事実だろう。だが、猊下からの強い信任と、重用されている事実は隠しようがない。何よりこの縁談は、猊下御自ら立案された教皇勅書によるもの──王族派が面子を潰されたと反発するのも必然だろう」
「だから、婚約発表を阻止しようと?……安直な。上手くいくとは思えません」
うんざりとした声を上げながら鼻で笑うリュシエリアーナに、ラファシアンも深く同意を示すように重く首肯を返した。
「ええ、今回の夜会には教皇猊下もご出席なさいます。あの方が出席される催しでは、必ず猊下が直接、会場全体に強力な『絶対結界』を張られるはずです。結界の中では武器の携帯はおろか、魔法さえも完全に封じられて攻撃の手段がありません。結界内で魔法が使えるのは唯一、猊下ご本人のみです」
「──だが、これがあればどうだ?」
言って、マレグレン公爵はおもむろに卓の上に乗せたそれを、二人の前に差し出す。そこにあったのは、丁寧に編み込まれた組み紐の先に、小さな木札が結わえられたもの──前世の日ノ本の神社にある『お守り』によく似た形だ。
その木札には、真紅で描かれた魔法陣のような紋様が刻まれていた。
「これは────」
「神殿騎士たちへ与えられる、猊下の認証印ですね」
不思議そうに手を伸ばしたリュシエリアーナの呟きに応えるように、ラファシアンが低く重苦しい言葉を落とした。見返したラファシアンの美しい相貌には、今まで見たこともないほど険しい色が滲んでいる。
「猊下の認証印?」
「神殿騎士に任命される際、猊下から直々に下賜されるものです。猊下の聖なる血液で描かれたこの方陣は、絶対結界の中であっても、例外的に武器の携帯と魔法の行使を許可された証となります」
「!?」
あまりに最悪な説明に、リュシエリアーナは弾かれるように父の顔を見返した。絶対安全であるはずの安息の地が、一転して無防備な虐殺の場に変わり得るという、これ以上ない凶報だ。
「では──!」
「……フォルドエルからの情報だ。ここ最近、王都周辺で神殿騎士が襲撃され、この猊下の認証印が強奪される事件が相次いでいるらしい」
「……これがあれば、暗殺者はいくらでも武器を隠し持ったまま結界を通過できます。その上、こちらの魔法だけを封じた状態で、一方的に牙を剥くことができる」
苦虫を噛み潰したような渋面を取り、絞り出すようにラファシアンは告げる。彼は膝の上に置いた拳を白くなるほど強く握りしめ、吐き出すように苦々しく言葉を続けた。
「……婚約発表の夜会は、中止にいたしましょう」
「……!?」
「我々だけならばまだしも、参列者の方々にまで被害が及ぶ可能性があります。──何より、貴女に危害が及ぶ事だけは、私は絶対に受け入れられない……! それほどの危険を冒してまで、強行すべきではありません」
いつもの穏やかなラファシアンらしからぬ、どこか悲痛ささえ孕んだ強い口調で、ラファシアンは必死に訴える。リュシエリアーナを説得するように見つめてくるその双眸は、張り詰めたように真っ直ぐで、あまりに強い眼差しを送っていた。
自分を最優先に案じてくれるその態度に、リュシエリアーナはわずかに言葉を失う。
だが、一度落とした視線をすぐに持ち上げると、真っ直ぐラファシアンを見据えた。
「──諦めるのか?」
「!」
「ここでやめてしまえば、それこそ連中の思う壺だろう」
「ですが……!」
「私とラファ様ならば、容易く制圧できる。それに兄上率いる神殿騎士たちの助力もある。ならば尚のこと────」
「……そういうわけにはいかんのだ、リュシー」
威勢よく言い募る娘の言葉を遮ったのは、重い嘆息を落としたマレグレン公爵だった。父は、指を組んだ両手の甲に、項垂れるように落とした額を乗せている。
「連中にとって重要なのは、婚約発表阻止の成否そのものではない。──この婚約が『望まれぬ婚約』であると、世間に広く知らしめることだ」
「? どういう事です、父上」
真意を掴みかね、リュシエリアーナとラファシアンは揃って怪訝そうに眉を寄せる。
父は二人を見回し、静かに続けた。
「先ほども言ったが、この婚約は猊下が推し進められたものだ。その婚約に異議を唱える者が現れ、それも武力行使で阻止しようとしていると知りながら、なお強行した場合──世間はどう受け取ると思う?」
父の静かな問いかけに、二人は弾かれたように顔を見合わせた。事態の全貌を悟った瞬間、驚愕と共に深い渋面が刻まれる。
「……慈悲深いと謳われる猊下の資質が問われる事になるでしょう。特に今回は、教皇勅書まで発令されている。表向きだけを見れば、圧倒的権力を用いて、嫌がる公女殿下を無理やり婚姻へ追い込んだようにしか映りません」
何せ婚約相手が、『世界で最も醜悪な貴族』と蔑まれる自分なのだ。過去十七回もの婚約破棄という事実も相まって、世間は間違いなく『絶世の美女が、教皇の横暴によって醜い辺境伯への生贄にされた』と解釈するだろう。
「……つまり、王族派へ教皇派を糾弾する格好の材料を与える──というわけか」
低く呟いた娘へ、父は重々しく頷く。
「そういうことだ。この婚約を阻止しようとする勢力の存在自体、周囲へ悟られるわけにはいかん。表立って軍兵を配置して迎え撃つことも、不戦敗を認めるような夜会中止も許されん」
「…………」
「予定通り、何事もなく華やかな夜会を執り行いながら、誰一人に悟られることなく、裏で連中を完璧に排除する。──それしか道はない」
あまりにも無茶な要求だった。
いや、無理難題というより、ほとんど不可能に近い。
教皇と王室が共同主催する婚約発表の夜会なのだ。参列する貴族は優に五百を超える。その衆人環視の中で、誰にも気取られぬまま暗殺者を各個撃破するなど、それこそ神がかった奇跡の御業が必要だろう。
張り詰めた沈黙が、重苦しく書斎を満たす。
八方塞がりの状態に途方に暮れる沈黙の中で、ふっと、吐息に近い小さな笑い声を落としたのは、他ならぬリュシエリアーナだった。
「────面白い」
「!」
「……リュシエリアーナ嬢?」
目を丸くして視界に入れたリュシエリアーナの表情には、絶望はおろか困惑の欠片さえ窺い知れない。むしろ強敵を前にした戦国武将のような、爛々とした挑戦的な眼差しを湛え、リュシエリアーナはおもむろに立ち上がる。
「まだセナは残っているか?」
「! ……どうしたのです?」
「何を考えている、リュシー」
彼女の思惑がどこにあるのか判らず、だが大人しく引き下がるような気質でもない事だけは重々承知している二人は、訝しげに眉根を寄せながらも、内心ヒヤヒヤとした面持ちで彼女を仰ぎ見た。
そんな二人を振り返って、リュシエリアーナはドレスの裾を翻し、不敵に、にやりと美しい唇を歪める。
「相手がそのつもりなら、こちらも受けて立とうではないか。──極上の夜会衣装に着替えてな」
**
────ここに、二人の男女がいた。
男には、揺るぎない自負と、肥大化した矜持があった。
王族派の有力な侯爵家子息という高い地位と、夜空を想起させる濃い藍色の髪色が生み出す美しさが、男の中に『神に選ばれた者』という歪んだ選民思想と、過剰な自尊心を深く根付かせていた。
やがて男は確信する。
自分こそが、あの漆黒の髪を持つ『絶世の美女』の隣に立つに相応しい、唯一の伴侶なのだと。
だが相手は次期王太子妃。どれほど己が優れていると自惚れていようと、おいそれと手が出せる存在ではない。王太子との婚約が解消されない限り、その至高の座を奪うことは叶わないだろう。
半ば諦めかけていた男の耳に、衝撃的な朗報が飛び込んできたのは、十日ほど前のことだった。
────『マレグレン公爵令嬢、婚約破棄』
夢にまで見たその報せに、男は歓喜に震えた。
これこそ天の配剤。己のために用意された、訪れるべくして訪れた幸運に違いない、と。
次の婚約者の座には、間違いなく自分が推挙されるはず────その盲目的な確信は、しかし程なくして、淡雪のように無情にも打ち砕かれることとなる。
「なぜだ……っっ!? なぜ、この俺ではない……!?」
『絶世の美女』の婚約者に選ばれたのは、よりにもよって、世間から『世界で最も醜悪な貴族』と蔑まれるフォルスタート辺境伯だった。それも、彼を盲信し重用している教皇猊下が、最高権力たる教皇勅書まで発令して、その薄汚い銀髪の男を強引に婚約者の座へ据えたのだ。
圧倒的な神権で周囲の口を塞ぎ、愚かにも、我が麗しの公爵令嬢を生贄として差し出させたに違いない。
「よくも……!」
よくも奪ってくれたな。
俺の、本当の婚約者を────。
(……可哀想に)
あの気高き公女殿下も、さぞ絶望の淵で涙を流していることだろう。俺が必ず、あの化け物の手から救い出して差し上げねば。
男の心は今や、傲慢な教皇と、忌々しい辺境伯への狂気じみた憎悪で、黒く塗り潰されていた。
女は、フォルスタート辺境伯の八番目の婚約者だった。
教皇派の有力な侯爵令嬢として生を受け、幸いにも比較的『美しい』とされる、燃えるような赤毛を持って誕生した。──だがそれゆえに、女は周囲に傅かれて当然という、気位の高い傲慢な淑女へと成長した。
この私に相応しい男は、生半可な地位や器の人物では務まらない────。
そう自負していた女に、ある日あてがわれた婚約者は、あろうことか『世界で最も醜悪な貴族』と嘲笑されるフォルスタート辺境伯だった。
この時の絶望と屈辱を、一体どう言い表せるだろうか。
「なぜ、この私の婚約者が、よりにもよってあんな醜い男なの……っっ!!」
それも、ただ醜いだけではない。
世界一醜悪とまで言われる、忌むべき存在なのだ。
実際、出会った彼は、女の目には恐ろしいほど汚らわしく、見るに堪えない怪物に映った。
だが、何より腹立たしかったのは、婚約者である自分に対するその態度だ。
笑う事も、愛想を振りまく事さえせず、ただ黙って俯き、こちらの顔を見ようとすらしない。
(この私が、醜い貴方の婚約者になってあげたのよ……! 少しは嬉しそうにしなさいよ……! 犬のように媚びへつらって、私の機嫌を取るくらいしたらどうなの……!)
誰もが自分を持て囃す中で、唯一、あの醜い男だけは自分に毛ほどの興味も示さなかった。
だから、婚約を破棄したのだ。
(私の有難みに感謝もしない男など、こちらから願い下げだわ)
そもそも、人より優れた自分と、あの醜い男では不釣り合いも甚だしい。己の不敬を自覚して、これほど優れた女性を娶る稀有な機会を生涯失ったことに、この先ずっと絶望して後悔し続ければいい────そんな歪んだ優越感に浸って暮らしていたある日、女の耳に信じ難い一報が届く。
────『マレグレン公爵令嬢の新たな婚約者は、フォルスタート辺境伯』
この報せを受け取った時の激しい屈辱は、筆舌に尽くし難いだろう。
(公女殿下が……辺境伯の婚約者ですって……っ!?)
あの『絶世の美女』と名高い、マレグレン公爵令嬢。
『漆黒の至宝』とまで讃えられる、あの至高の存在が、フォルスタート辺境伯の婚約者────?
どす黒い怒りと嫉妬が、瞬く間に五臓六腑を駆け巡る。
自分ほどの女を無下にしておきながら、あの男は、のうのうと他の女を隣に据えるのか。
それも、家柄も、美貌も、自分より遥か高みにいる女を────。
これではまるで、自分が『絶世の美女に劣るから捨てられた哀れな女』のようではないか。
(許さない……!)
私に恥をかかせた辺境伯も。
そして、平然とあの男の婚約者の座に収まった公女殿下も────。
女の中に、辺境伯と公女殿下に対する醜悪な憎悪の火が静かに、しかし激しく灯った瞬間だった。
「人間というのは、どこまでも愚かで、扱いやすい生き物だな」
深い森の奥。国境沿いにひっそりと佇む小さな小屋の中に、乾いた声が響いた。嘲笑混じりに落とされた男のその声音は、愉悦を含みながらもどこか盤上の駒でも眺めるような、冷めた響きを帯びている。
その傲慢な態度を窘めるように、背後に控えていた従者が重いため息を落とした。
「……面白がっている場合ではございません、閣下。今回の作戦の成否が、我々の今後の運命を決定づけるのですよ」
「興味はない」
即答しながら、男は卓上の黒いチェス駒を、白く細い指先で弄ぶ。
「──興味はないが、確かに教皇は邪魔ではある」
頬杖をつきながら、男は対戦相手のいないチェス盤へ、冷徹な視線を落とした。
千年もの時を生きる、神に最も近き不老不死の教皇──何を成すにも、その存在は障壁になった。自分たちが今なお国境沿いに潜伏を余儀なくされているのも、ひとえに彼の絶対的な力ゆえだ。
神の恩寵を一身に受けた『神寵者』。
その教皇には、ほんの僅かな悪意すら見逃さない、超常的な感知能力が備わっている。フォルトゥナータ神聖国へ一歩でも踏み込めば、こちらの企ては即座に白日の下へ晒されるだろう。
直接、手は下せない。
だからこそ利用したのだ。
この国に深く根付いた、醜い派閥争いと嫉妬を。
「……彼らは、我々の筋書き通りに動くでしょうか?」
「動いてもらわねば困る。あれほど丁寧に、お膳立てしてやったのだからな」
冷酷な言葉とは裏腹に、やはり男の声音には一切の熱が乗っていない。
男は盤上のルークを手に取ると、邪魔なポーンを軽く弾き飛ばし、白のキングの目前へ静かに置いた。
「この国を根こそぎ略奪するための、最初の一手だ」
カツリ、と。
静寂の中で、駒の音だけが冷たく響く。
「さて──お手並み拝見といこうじゃないか」




