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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う  作者: 枢氷みをか
序章・出会いと婚約

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18/22

初めての感情

 ──翌朝。

 窓から差し込む柔らかな光に、リュシエリアーナはゆっくりと瞼を開いた。


 視界に真っ先に飛び込んできたのは、いつもと変わらぬ天井と、鼻をくすぐる清々しい朝の冷たい空気。


 目覚め自体は悪くない。体も心なしか軽い。

 だが胸の奥には、深く沈む後悔が重石のように残っていた。


(……昨日はずいぶんと、無様な醜態を晒してしまったな)


 朝だというのに、重い嘆息が思わずこぼれ落ちる。


 何度思い返しても、自分の言動に羞恥心が込み上げて仕方がない。

 まるで駄々をこねる子供のように感情を爆発させ、挙句、自分自身ですら気づいていなかった感情が胸の奥底に眠っていた事実まで、不覚にも自覚してしまった。


(……ラファ様を失うのが怖い、などと……)


 額に手を当て、リュシエリアーナは眉間を押さえる。


 まるで幼子おさなごではないか。

 それも、出会ってまだ数日の相手に対して、だ。ここまで容易く心を許してしまった自分自身に、呆れすら覚える。


 たまらず二度目の嘆息が、重くこぼれ落ちた。


(よもや、私が誰かにここまで執着することになろうとは……)


 前世も含め、一度も抱いた事のない未知の感情だ。これを憂いこそすれ、決して喜ばしい事だと受け止めるつもりはない。


 ────何かに執着するなど、愚の骨頂だ。

 前世で散々見てきたではないか。欲や人に執着した結果、足元をすくわれて無惨な最期を遂げた愚か者たちを。


 彼らの二の舞になるつもりは、毛頭ない。


 そもそも、彼とはまだ数日ほどの間柄だ。希薄であって当然だと、他ならぬ自分自身の口で言い放ったばかりではないか。


(……確かに、ラファ様とは不思議と馬が合う)


 淑女を演じる必要がないから一緒にいて気が楽だし、何より誠実で、誰よりも信頼に足る人物であることは間違いない。背中を預け合える無二の存在だと認識はしているが、だからといって、彼を特別視して執着するのは、また別の話だろう。


 そこまで思考を巡らせたところで、リュシエリアーナは不意に上体を起こした。


(……ほだされるな、リュシー。どれほど美しく、優しくとも、彼は男だ)


 前世で自分を手籠てごめにしようと、欲望を剥き出しに襲いかかってきたあのけだものと、同じ性別なのだ。


 無論、ラファシアンが彼とは違うことくらい理解している。

 男を恐れているわけでもない。


 だが今の自分は、魂こそ違えど『女』の身体を持つ身だ。男に対して無闇に心を許すべきではないし、まして執着する理由など、本来どこにもない。


 ────そう、頭では理解している。

 理解している、はずなのに。


 脳裏には、あの寂しげに微笑む横顔が、焼きついたように離れなかった。

 まるで、自分を置いてどこか遠くへ行ってしまいそうな、あの儚い笑みが。


「…………」


 無意識に胸の奥がざわつく。

 リュシエリアーナは、その感覚を振り払うように小さくかぶりを振った。


(忘れるな、リュシー)


 自分にとって最も重要なのは、剣を極めることだ。余計な感情に振り回されている暇などない。


 そう自戒の意味を込めて、噛んで含めるように言い聞かせた決意は、だが半刻と経たずに容易く揺らぐことになる。



「リュシエリアーナ嬢……! 本日はよろしくお願いいたします」


 花がほころぶような笑みを浮かべ、溢れ出さんばかりの美貌を惜しげもなく振り撒きながらマレグレン邸へ足を踏み入れたラファシアンに、リュシエリアーナは思わず頬を染めつつ、うんざりしたような苦笑を漏らした。


(…………いや、卑怯だろう。この美しさは)


 人智を超越したその造形美を前にして、心を揺さぶられぬ者など果たして存在するだろうか。

 ──否、いるはずがない。


 おまけに昨日、兄のフォルドエルからラファシアンが社交の場で『決して笑うことのない、冷酷無比な氷の辺境伯』という畏怖に満ちた二つ名を付けられていると聞いた。

 その彼が、自分の前ではこれほど無防備に、嬉しそうに笑うのだ。その事実に、妙な高揚感が多少なりとも胸の内に溢れることは否めない。


(──これは、あれだな)


 絶対に懐かない猛獣が、自分にだけ喉を鳴らして甘えてきた時の優越感に近い。──もっとも、今の彼は猛獣というより、千切れんばかりに尻尾を振る大型犬そのものだが。


(……とはいえ)


 リュシエリアーナはふと、昨日のやり取りを思い返す。


 ラファシアンが「貴女の隣にいたい」と口にしたのも、おそらく自分と同じ理由なのだろう。


 彼にとって自分は、『良き理解者』であり、『背を預けられる戦友』なのだ。唯一無二の存在だからこそ、隣に立ち、共に歩みたいと願う。


 ──それ以上でも、それ以下でもない。


(私をただの女子おなごとしてではなく、対等の存在として見てくれている証左……それが、一番しっくりくる)


 そう結論づけると、不思議と胸の内が落ち着いた。

 けれども、心の片隅でほんのりと寂しさがよぎった気がして、リュシエリアーナはわずかに眉を寄せる。


「──リュシエリアーナ嬢?」

「!」


 ずいぶん長く思案にふけっていたのだろう。長く無言を貫いていた彼女の顔を、不安げに見返してくるラファシアンの困惑気味な表情が視界に広がって、リュシエリアーナの意識は否応なく現実に引き戻された。


「……やはり、まだ怒っていますか?」


 おずおずと、どこか捨てられた仔犬のような目で見つめられ、慌てて「そうではない」とかぶりを振ろうとしたリュシエリアーナは、だがすぐさま口を噤んで目を細め、一拍の沈黙を挟む。


「……それで? 『絶世の美男子』が誰だか判ったのか?」

「! ……そ、それが」


 ラファシアンは気まずそうに視線を逸らした。


「……皆目見当がつかず……。記事を読み返して現場検証中の出来事だというところまでは理解できたのですが、あの場に『絶世の美男子』と呼べるような人物がいた記憶が、どうしてもなく……」

(貴方のことだ、ラファ様……!)


 込み上げた叫びを、リュシエリアーナは辛うじて呑み込む。


 自分で気づくまでは教えない。そう決めたはずなのに、こうして情けなさそうに肩を落とされると、その決意がみるみる揺らいでいく。


 慌てて彼から視線を逸らしつつ、だが生真面目な彼が記事を何度も読み返して『絶世の美男子』の正体を探ろうと孤軍奮闘する姿を思い描いて、リュシエリアーナは思わず口元が緩んだ。


「……まあ、おいおい判ってくれればそれでいい」

「……!」


 ようやく彼女の笑顔を拝むことができて、ラファシアンは目に見えて安堵する。

 しゅんと垂れていた大型犬の耳が、一瞬でぴんと立ったかのような判りやすい反応に、リュシエリアーナは思わず苦笑を漏らした。


(……本当に調子が狂うな、この人は)


 警戒心を抱こうとしても、そのことごとくを無邪気に溶かしていく。


 降参するように小さく肩をすくめると、リュシエリアーナは踵を返し、応接室へ向かって歩き出した。


「それで? 今日は夜会用のドレスの採寸だったな」

「────はい!」


 婚約発表の場で互いに互いの色を贈り合い、それを身に纏う──古くから続く由緒ある慣例で、女性に贈る物は必ずドレスと定められている。

 本来であれば、男性側が意匠の原案を作成し、それを基に仕立て師と打ち合わせを重ねながら完成へ導くのが正式な流れだ。

 もっとも、近年では有名仕立て師へ全てを一任する貴族も少なくない。


 その工程で必要不可欠なのが、ドレスを着る令嬢本人の採寸だ。

 婚前の女性が男性の邸宅へ赴くことを避けるため、採寸は必ず女性側の屋敷で行われる。


 今日は、その採寸の日だった。


「仕立て師はつい先程、到着したばかりだ。応接室で待ってもらっている」

「……そう、ですか」


 ラファシアンの表情が、ほんのわずかに曇る。

 どこか申し訳なさそうなその顔に、リュシエリアーナは怪訝そうに眉を寄せた。


「どうした? ラファ様」

「……申し訳ありません。本来であれば、王都でも指折りの仕立て師を招くべきなのだと判ってはいるのですが……何分なにぶん、醜悪な私からの依頼を快諾してくれる仕立て師が限られていて……」

「!」

「ああ、ですがご安心ください……! 彼女はまだ若いですが腕は確かで、フォルスタート家御用達の────」

「心配はしていない」


 慌てて言い添えるラファシアンの言葉を穏やかに遮って、リュシエリアーナは彼の不安をはねのけるように、柔らかく、だが凛とした声で笑む。


「ラファ様が信頼を寄せている相手ならば、異論はない。そもそも、いくら評判の仕立て師であろうと、ラファ様を侮るような者は願い下げだ。──私は、ラファ様が選んだ者がいい」

「……!」


 瞬く間に顔を真っ赤に染め上げる彼を見て、リュシエリアーナは内心で小さく苦笑した。


(……まあ、そもそもドレスに特別なこだわりなどないからな)


 前世の感覚からすれば、ドレスなど動きが制限されるだけで、百害あって一利なしだ。着飾りたいという女子特有の欲求がない以上、ドレスを着ること自体、ただ面倒な儀式でしかない。


 だが────。


(……どうせ着るのであれば、できればラファ様が私のために、あれこれと頭を悩ませて考えてくれたものがよかった、などと……)


 ふと浮かんだ本音に、自分自身で目を見開く。

 慌ててかぶりを振り、その考えを振り払った。


 ────らしくない。


 そもそも、今回は時間がないのだ。

 本来ならば、婚約発表まで通常ひと月の準備期間を要する。だが今回与えられた期間は、わずかに十日──これほどの短期間では、ドレスの意匠を一から練る余裕など、本来あるはずもない。


 それでも、知らずに落ちた小さなため息に、ラファシアンの胸はちくりと痛んだ。


(……強がってはいても、彼女も年頃の女性だ。やはり流行りの仕立て師の方がよかったのだろうか……)


 こんな些細な願いでさえ、自分は叶えてやることができない。

 彼女の気遣いに救われる反面、ラファシアンは不甲斐ない自分が堪らなく恥ずかしく、いたたまれない気持ちに陥っていた。


**


 応接室の扉を開いた途端、思いのほか朗らかな笑顔を湛えた仕立て師に迎え入れられ、リュシエリアーナは呆気に取られたように目を瞬かせた。


「この度はご婚約、誠におめでとうございます! 私は仕立て師のセナ=ニコールマンと申します。どうぞお見知りおきを、公女殿下!」

「あ……ああ。よろしく頼む……」


 陽光のように明るい空気に押されるまま、ややたどたどしく返事を返す。


 そんな彼女の背後から、ラファシアンはどこか申し訳なさそうにセナへと声をかけた。


「……いつも無理を言ってすまない、セナ。あまり時間はないが、できそうか?」

「お任せください、辺境伯さま! 辺境伯さまの大切な晴れ舞台に、他ならぬ私共をご用命くださったのです。必ずやご期待にお応えいたしましょう……!」

「助かる。セナの腕はよく判っているつもりだ。できるだけ彼女の要望を聞いて差し上げてくれ」


 婚約者を気遣うその言葉に、セナはぱっと顔を輝かせ、自分のことのように嬉しげな笑みを浮かべた。


「まあ……! 早速、公女殿下を溺愛なさっているようで、安心いたしました……!」

「で、溺愛……!? そ、そのようなわけでは……! 誤解を招くような言い方はよしてくれ、セナ……!」

「あらあら……! そのように取り繕わなくとも、私と辺境伯さまは長い付き合いではございませんか。ようやく辺境伯さまに春が訪れたと、私共一同、心から喜んでおりますよ」

「セ、セナ……!」


 いたたまれないほど面映ゆそうに俯くラファシアンを、セナは微笑ましそうにくすくすと笑う──自分を間に挟んだまま繰り広げられるその親密な空気に、リュシエリアーナは胸の奥が、ちり、と焼けるような、堪らない居心地の悪さを覚えていた。


(……何だ。女子おなごが苦手だと言いながら、ずいぶんと親しげな女子おなごがいるではないか)


 そう胸中で毒づきながら、彼女はそっと視線を逸らす。


 ────面白くない。


 紛れもなく、そういう不快な感情が身の内に渦巻いているという自覚はある。だが、この他愛のない会話の何がそれほど気に障るのか、リュシエリアーナには判らない。ただ、今すぐにでも部屋を飛び出したい衝動に駆られるのを、必死に抑え込む事で精一杯だった。


 そんなリュシエリアーナの、僅かに強張った表情に、セナはふと気づいたように目を瞬かせた。


「あ……では早速、公女殿下の採寸をいたしますので、辺境伯さまは部屋の外でお待ちいただけますか?」

「ああ、よろしく頼む。……リュシエリアーナ嬢、ご要望があれば遠慮なくセナにお申し付けください」

「あ、ああ……」


 どこか上の空の返答に、ラファシアンは不安げに眉を下げる。


 ──何か気に障ることを言ってしまっただろうか。


 そんな困惑を滲ませながらも、彼は後ろ髪を引かれるような面持ちで、静かに応接室を後にする。


 残された二人の間に微妙な空気と一拍の沈黙が流れたが、すぐさま空気を切り替えるようにセナが朗らかな声をかけた。


「それでは公女殿下。僭越ながら、ドレスを脱がれるお手伝をいたしますね」

「……ああ」


 自然と素っ気ない返事になったが、それを自覚する余裕すらない。何がこれほど胸をざわつかせているのか、その原因が判然としない以上、どう処理をすればいいのかも判らず、ただ持て余すしかないリュシエリアーナの耳に、申し訳なさそうな声が静かに落とされた。


「……申し訳ございません、公女殿下。ご不快な思いをさせてしまいましたね……」

「……! い、いや……! そうではない! 別にセナに怒っているわけでは────!」


 真摯な謝罪を受けて、ようやく自分が子供のように不機嫌さを露わにしていたことに気づき、リュシエリアーナは慌ててかぶりを振る。そうしながらも、この苛立ちの矛先がどこにあるのかさえ判断がつかず、半ば途方に暮れながら、大きく嘆息を落とした。


「…………すまない、今のは全面的に私が悪い」

「いいえ、そのような事は……! 婚約者がご自分以外の女性と親しげに会話をしていれば、誰だって嫉妬を覚えるものです」


 不意に飛び出した単語に、リュシエリアーナの眉がぴくりと跳ねた。


「? 嫉妬……?」

「……違うのですか?」

「……そういう間柄では────いや、だが……」


 考え込むように視線を落とす。

 脳裏に浮かんだのは、喫茶店で店員の視線をお品書きで遮った、あの時の自分だった。


(……別に、私とラファ様は恋仲というわけではない。あくまで利害が一致したことによる契約婚だ。だが……)


 思い返せば、自分は想像以上にラファシアンという存在へ執着している。それは認めざるを得ない事実だ。


 ならば、この感情の正体は何だろうか。


 自分だけに笑顔を見せてくれるラファシアンと、それに対して抱く優越感────。


 やがて、はっとしたように顔を上げる。


「そうか……! これは嫉妬というよりもあれだ。────独占欲……!」

(……………………それを世間では嫉妬と呼ぶのでは?)


 喉元までせり上がった言葉を、セナは辛うじて飲み込んだ。

 確信に満ちた顔で頷く公女殿下を前に、さすがにそれ以上は野暮というものだろう。


 セナはただ、生温かな微笑みを返すに留める。


「……ふふ」

「? 何だ」

「いえ。辺境伯さまが公女殿下に夢中になる理由が、少し判った気がいたします」

「……?」


 くすくすと喉を鳴らしながら、セナは慣れた手つきで採寸を再開する。

 その横顔を軽く一瞥しながら、リュシエリアーナはどこか気まずそうに声をかけた。


「……ラファ様とは、ずいぶんと付き合いが長いようだな」

「……はい。私の家は代々仕立て屋を営んでおりまして。恐れ多くも曾祖父の代から、フォルスタート辺境伯家に重用していただいております。その関係で、ご幼少の頃から親しくさせていただいているのです」

「……だから、あれほど気心の知れた仲なのだな」


 リュシエリアーナの、わずかに低められた声音に、セナの採寸をする手がぴたりと止まった。


「……そのように、見えましたでしょうか」

「……?」

「失礼を承知で申し上げますと、私は未だに……辺境伯さまのお傍近くへ寄ることができません」

「?」


 言葉の意味を即座に呑み込めず、リュシエリアーナは怪訝そうに振り返る。

 視界に映ったセナは、申し訳なさそうな、それでいてひどく決まり悪げな複雑な表情で俯いていた。


「その……辺境伯さまが、とても誠実で、尊敬に値する素晴らしいお方だということは重々承知しているのです。ですが……」


 そこで一度言葉を切り、セナは続く言葉を探すように口籠もる。

 ややあって、ようやく意を決したように声を絞り出した。


「ですがどうしても、辺境伯さまのご容姿が──その、芳しくなく……!」

「!」


 項垂れるように落としたその言葉に、リュシエリアーナは思わず目をぱちくりとさせた。


 必死に失礼のない表現を探したのだろう。それは理解できる。だが、まさか『容姿が芳しくない』という表現が飛び出すとは。


「……初めてお会いしたのは、辺境伯さまが六歳になられた頃でした。ですが私はまだ物心がついたばかりで、何が失礼に当たるのかも判らず……その、初めてご尊顔を拝した時、思わず吐いてしまいまして……!」


 そのあまりに衝撃的な告白に、リュシエリアーナの脳裏へ、かつてラファシアンが寂しげに零した言葉が鮮烈に蘇る。


 ──(あまりに醜くて私の顔を見た途端、吐き気を催す女性も────)


(あれはセナの事だったか……)


 すとん、と腑に落ちる感覚と同時に、この世界の歪んだ審美眼に対する呆れと憤りが、リュシエリアーナの胸の内に湧き上がる。


「……私の無作法な行いが、幼い辺境伯さまのお心を深く傷つけたはずです。ですが、あの方は怒るどころか、真っ先に私の体調を気遣ってくださいました。以来、あの方の御前みまえでは決して嫌悪を見せぬよう、常に笑顔を絶やさぬよう心がけております。──ですがどうしても、生理的にお傍へ寄ることだけはできず……。辺境伯さまも、その臆病な私の心に気づいておられるのでしょう。いつも一定の距離を保ち、自ら近づかれることはなさいません」


 道理で、と合点がいったのは、先ほどの二人の会話だ。流れる空気こそ温かく親しげではあったが、なぜか終始、自分を間に挟んだまま奇妙な距離が保たれていた。


(……そういうことか)


 すべての得心を経て、リュシエリアーナの胸をざわつかせていた苛立ちは、嘘のように静かに凪いでいく。

 ほっと胸を撫で下ろしたその直後、リュシエリアーナは途端に険しい表情で思考に詰まった。


(………………待て。だから、なぜ安堵する)


 何かに執着などしないと、今朝あれほど強く心に誓ったばかりではないか。

 ラファシアンにどれほど親しい女性がいようと、本来、自分には関係のない話だ。


 そう必死に自戒を重ねる彼女の内心など知る由もなく、セナは心から嬉しそうな微笑みを浮かべた。


「……ですが、公女殿下が辺境伯さまのすぐ隣を、何の躊躇いもなく歩かれるお姿を拝見して、私は我が事のように幸福な気持ちになりました。──改めまして、この度はご婚約、誠におめでとうございます」


 満面の笑みと共に、セナは深々と頭を下げる。

 その邪気のない純粋な祝福に触れた瞬間、リュシエリアーナの胸に小さな痛みが走った。


 ──彼女を騙している。


 契約婚であることを伏せたまま祝福を受けている事実が、微かな罪悪感となって胸を刺す。


 同時に、これほど真っ直ぐに慕われ、敬われながらも、誰一人として本当の意味では近づいてはくれなかったラファシアンの孤独を思い、リュシエリアーナの胸の奥は、じわりと締めつけられるように疼いていた。

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