第7話「白き天馬と黒焔の誓い」
G3『新星戦』での圧倒的な勝利から三週間。俺とイグニスは、次なる舞台であるG2『聖光記念』に向けて、厩舎の裏に広がる手作りの箱庭コースで厳しい特訓の日々を送っていた。
「ストップ! そこまでだ、イグニス!」
俺が手元の魔力計時器のボタンを押し、声を張り上げる。エメラルドグリーンの魔力芝を蹴り立てて、猛スピードでコーナーを駆け抜けてきたイグニスの体が、急ブレーキをかけるようにして土煙と共に静止した。彼女の息は僅かに弾んでおり、漆黒のレーシングスーツの下で汗が光っている。
「タイムはどうだ、ノア? 今のコーナーリング、自分でもかなり上手く魔力を乗せられた気がするぞ!」
「ああ、タイムは悪くない。だが、突入時の重心がほんの少しだけ前傾しすぎている。聖光記念が行われる『王立セントラルコース』の第3コーナーは、今走ったうちのコースよりもさらに傾斜がきつい下りの急カーブだ。今の重心のままあそこに突っ込めば、遠心力で外側に膨らんでタイムロスになる」
俺は固有スキル『魔獣眼』で記録した先ほどの彼女のフォームの残像を脳内で再生しながら、的確に修正点を指摘した。
「むぅ……なるほど。確かに最後、足の小指側に余計な力が入った感覚があった。もっと内側の魔力回路に意識を集中させて、遠心力と喧嘩しないように曲がるんだな?」
「その通りだ。スピードを殺さずに、芝の反発力を横方向へのスライドに変換する。もう一度、魔力の流れを意識して走ってみてくれ。お前のポテンシャルなら絶対にできる」
「任せておけ! わたしが最強の魔獣だってこと、ノアの目に焼き付けてやる!」
イグニスは背中の尻尾を力強く振り立てると、再びスタート地点へと小走りで戻っていった。
彼女の飲み込みの早さは、まさに天才的だった。俺が『魔獣眼』で読み取った最適な身体操作の理論を、彼女は自身の持つ圧倒的な身体能力と黒焔竜の魔力で、いとも簡単に現実のものとして体現してしまう。スポーツにおいて、最高のコーチと最高のアスリートが、完全に噛み合った時にだけ起こる爆発的な成長。それを俺たちは今、この小さな箱庭の中で毎日のように実感していた。
「……よし。仕上がりは完璧だ」
俺は手元のノートに彼女のデータを細かく書き込みながら、確かな手応えを感じていた。
今のイグニスなら、G2クラスの強力な魔獣たちが相手でも絶対に引けを取らない。むしろ、スタミナとコーナリング技術においては、すでにG1クラスにも匹敵するレベルに達しつつあった。
だが、俺の心の中に暗い影を落としている懸念が一つだけあった。
勇者レオンの率いる『ソード・オブ・ライト』が、今回の聖光記念に彼らのクラブの真のエースである『ホワイトペガサス』をエントリーしてきたという事実だ。
その日の午後、レースの最終登録手続きのために、王都の魔獣競技連盟を訪れた俺は、掲示板に張り出された出走表の前で足を止めていた。
「……やはり、出走させるのか」
出走表の1枠に記された『ホワイトペガサス』の名前を見つめ、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
ホワイトペガサス──俺がかつてレオンのパーティーで専属テイマーをしていた頃、最も手塩にかけて育てた美しき天馬だ。純白の翼と、誰よりも気高く優しい心を持っていたあの子は、レオンの無謀な連闘と過酷な魔法薬の投与によって、右前脚に致命的な魔法疲労を抱えていたはずだ。
「おい、見たかよソード・オブ・ライトの陣営」
「ああ、ペガサスを出してくるらしいな。だが、ここ一ヶ月、一度も公開調教に姿を見せてないらしいぞ」
「噂じゃ、禁忌指定スレスレの『痛覚遮断薬』と『強制治癒魔法』のコンボで、無理やり脚を動くように改造したって話だぜ……」
背後を通り過ぎる他のテイマーたちの囁き声が、俺の耳に突き刺さる。俺の懸念は最悪の形で的中していた。前回のレースで名もない俺たちに敗北したレオンは、狂ったプライドを守るためだけに、ペガサスの命を削ってでも勝利を掴みにきたのだ。
「……ノア。どうしたんだ、怖い顔をして」
手続きを終えて連盟の建物を外に出ると、待たせていたイグニスが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いや……なんでもない。少し、昔のことを思い出していただけだ」
「昔のこと?」
「ああ。明日の対戦相手の中に、俺が昔世話をしていた魔獣がいるんだ。とても優しくて走るのが大好きな奴だった。だが、今の馬主のせいで、もう走れるような体じゃないはずなのに……」
俺の言葉を聞いたイグニスは、何かを察したように真剣な表情になり、俺の手をギュッと握りしめた。彼女の手のひらから伝わってくる温かい体温が、波立っていた俺の心を少しだけ落ち着かせてくれる。
「そいつが、無理やり走らされてるのか?」
「……おそらく、明日のレースで全力を出せば、あいつの脚は完全に壊れる。命すら危ないかもしれない」
「ノアが助けてあげられないのか?」
「俺はもう、あいつの専属テイマーじゃない。ルール上、他人の所有する魔獣に干渉することはできないんだ。もし俺が手を出せば、連盟から永久追放されて、お前と一緒に走ることもできなくなる」
俺の情けない声に、イグニスは静かに首を横に振った。
「ノアは悪くない。悪いのは、魔獣を道具みたいに扱うその馬主だ」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、力強い声で言った。
「ノア、わたしがそいつをぶっちぎってやる。そいつが『これ以上走っても絶対に勝てない』って絶望するくらい、圧倒的な差を見せつけてやる。そうすれば、諦めて走るのをやめるかもしれないだろ?」
その言葉に、俺はハッと息を呑んだ。そうだ。レースの中で彼らに引導を渡すことができるのは、ルールに縛られたテイマーの俺ではない。実際に同じターフの上を走る、イグニスだけなのだ。
「イグニス……」
「それに、わたしは負けない。ノアが毎日わたしを大切に育ててくれた。痛い思いもせずに、美味しいご飯を食べて、温泉に入って、ただ速く走るための最高の方法を教えてくれた。だから、無理やり走らされてる奴なんかに、絶対に負けたりしない」
彼女の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。あるのは、俺が築き上げてきたスキル『真・育成』への絶対的な信頼と、最強の魔獣としての揺るぎない誇りだけだ。
「……ありがとう、イグニス。お前の言う通りだ」
俺は彼女の小さな肩を抱き寄せ、深く深呼吸をした。感傷に浸っている場合ではない。俺たちにできるのは、明日、自分たちの最高の走りを王都中の観衆と、そしてレオンに見せつけることだけだ。力と恐怖による支配が、信頼と愛情による育成に絶対に敵わないという真実を、その目に焼き付けてやる。
そして翌日──
雲一つない青空の下、王都中央スタジアムはG2『聖光記念』の開催に沸き立っていた。五万人を超える観衆の熱気はG3の時とは比べ物にならないほど凄まじく、空気がビリビリと震えている。
出走前待機所でイグニスの最終調整を終えた俺は、ゲートへと向かう地下通路で、ついに「彼ら」と対峙した。
「……ノア。ノコノコとやってきたか、底辺のクズテイマーが」
冷酷な声と共に現れたのは、豪奢なマントに身を包んだ勇者レオンと、その背後を力なく歩く美しい魔獣の姿だった。
「……シロ」
俺が思わず昔の愛称を口にすると、ホワイトペガサスがビクッと体を震わせ、うつろな瞳をこちらに向けた。
俺は即座に『魔獣眼』を発動させる。視界に飛び込んできたステータスボードの惨状に、俺は吐き気を催すほどの怒りを覚えた。
【警告:右前脚腱断裂寸前。痛覚遮断魔法による強制稼働状態。魔力回路ショート率80%──生命力低下】
美しい純白の毛並みは光沢を失い、ボロボロになっている。目は焦点が定まっておらず、口からはよだれが垂れ下がっていた。強烈な薬物と治癒魔法で無理やり痛みを消し去り、筋肉だけを強制的に動かしている「生ける屍」のような状態だ。
「レオン……貴様、ここまでやるか。ペガサスの右前脚はもう限界だぞ! これ以上走らせれば、二度と歩けなくなるどころか死んでしまう!」
「黙れ! 魔獣の健康管理などという甘っちょろい戯言は、敗者の言い訳に過ぎん」
レオンは醜く顔を歪め、嘲笑うように言った。
「ペガサスは今日、我が『ソード・オブ・ライト』の威信を取り戻すための使い捨ての弾丸だ。最強の薬と魔法でリミッターを完全に外してある。もはや痛みも恐怖も感じない、ただ勝利のためだけに走る究極の生体兵器だ。お前たちのその小賢しい技術など、圧倒的な力の前にひれ伏すことになるだろうよ」
レオンの言葉に、俺はこれ以上言葉を紡ぐ気すら失せた。彼はもう、俺と同じ「魔獣を愛する人間」ではない。ただの狂人に成り果てていた。
「……行こう、ノア」
俺の袖を引っ張ったのは、イグニスだった。
彼女はレオンを一瞥すらせず、ただ静かにホワイトペガサスを見つめていた。その瞳には怒りでも哀れみでもなく、確かな「決意」が宿っていた。
「わたしが……あいつを楽にしてやる。一番残酷で、一番優しい方法でな」
そう言い残し、イグニスは真っ直ぐにゲートへと向かって歩き出した。俺もレオンから視線を切り、イグニスの背中を追う。もはや語るべき言葉はターフの上にしかない。
ファンファーレが鳴り響き、大歓声の中、十二体の魔獣がゲートに収まった。
イグニスは大外の12番枠。そしてホワイトペガサスは最内の1番枠だ。
『各馬、ゲートイン完了。……スタートしました!!』
ゲートが開いた瞬間、スタジアムがどよめきに包まれた。
「な、なんだあのスタートはァァァッ!?」
実況が絶叫する。
最内枠から飛び出したホワイトペガサスが、スタートと同時に信じられないスピードで加速し、一瞬にして後続を突き放したのだ。痛覚を完全に遮断され、限界を超えて魔力を爆発させるその走りは、もはや生物の限界を逸脱した「特攻」だった。バキッ、メキッという筋肉と腱が軋む音が、俺の魔獣眼を通して悲鳴のように伝わってくる。
『ホワイトペガサス、凄まじい大逃げ! なんと最初のコーナーで早くも十馬身以上の差をつけました!!』
レオンの狙いは明確だった。最初から最後まで限界を超えたスピードで逃げ切り、ペガサスの体が壊れるのが先か、ゴールテープを切るのが先かという、狂気のギャンブル。
一方のイグニスは、中団グループで静かに息を潜めていた。
彼女の足取りは、いつものように冷静で軽やかだ。ペガサスの異常な走りに惑わされることなく、俺と箱庭で培ってきた「自分の走りのリズム」を完璧に守っている。
レースは中盤、最大の難所である『第3コーナーの下り急斜面』へと差し掛かった。先頭を狂ったように逃げるホワイトペガサスは、減速することなく下り坂に突入した。だが、痛覚がない故に足元の繊細な感覚も失われているペガサスは、傾斜と遠心力に耐えきれず、大きく外側へと膨らんでいく。
ギシッ……!! と、ペガサスの右前脚から致命的な音が鳴ったのが見えた。
「今だ、イグニス!!」
俺が叫ぶよりも早く、イグニスは動いた。
彼女の足元から、チリッ……と黒い火の粉が舞い上がる。箱庭で何度も何度も反復練習した、完璧な前傾姿勢と重心移動。彼女は下り坂の傾斜と遠心力を完全に味方につけ、まるでコースの内側に吸い込まれるように、極限のインコースを鋭く切り込んだのだ。
シャンッ!!
という鋭い風切り音と共に、イグニスは外に膨らんだ魔獣たちの内側を一瞬にしてすり抜け、単独二番手へと躍り出た。スタジアムが、その人間離れした……いや、魔獣離れした美しすぎるコーナリング技術に息を呑み、静まり返る。
「……飛べ、イグニス!!」
最終コーナーを抜けた最後の直線。先頭でフラフラになりながらも走り続けるホワイトペガサスと、その後ろから黒い流星となって迫るイグニス。
残り二百メートル──
イグニスの体が黒焔のオーラに包まれ、一気にトップギアへと入る。
ドドドドドドッ!!という地を這うような足音がスタジアムを震わせ、彼女は瞬く間にホワイトペガサスの真横へと並びかけた。
その瞬間、イグニスはペガサスに向かって、言葉を持たない魔力の波動を叩きつけた。
「もういい……もう、走らなくていい」
ペガサスは、横をすり抜けていく圧倒的な黒い炎を見た。それは恐怖ではなく、温かく、すべてを包み込むような絶対的な強者の輝きだった。
ペガサスの濁った瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。薬で麻痺させられていたはずの彼の心が、イグニスの圧倒的な走りを見たことで、「自分はもう戦わなくていいんだ」という安堵と共に砕け散ったのだ。
ガクッと、ホワイトペガサスの力が抜け、その足取りが急激に遅くなった。完全に心が折れ、同時に限界を迎えていた肉体が停止へのシグナルを送ったのだ。
「な、なんだ!? 走れ! 走らんかペガサス!!」
VIP席からレオンの汚い絶叫が響くが、ペガサスはもう二度と走ろうとはしなかった。完全に失速し、他の魔獣たちに次々と抜かれていく。
残されたのは、ただ一人の孤独な先頭だけ。
イグニス・フレア──
彼女はそのまま誰の影も踏むことなく、圧倒的な大差をつけてゴールラインを駆け抜けた。
『ゴ、ゴールイン……!! 勝ったのは、またしてもイグニス・フレア!! 時G3に続き、G2・聖光記念もレコードタイムでの歴史的圧勝だァァァァッ!!!』
スタジアムが割れんばかりの歓声と拍手に包まれる中、俺はフェンスを乗り越え、ターフへと駆け出していた。
真っ直ぐに俺の胸に飛び込んでくる、汗だくの小さな体。
「ノア……っ! 勝ったぞ、ノア!」
「ああ、完璧だった。お前は最高だ、イグニス」
俺が彼女を抱きしめていると、少し離れたコースの端で、崩れ落ちるように座り込んだホワイトペガサスの姿が見えた。ペガサスの右脚は限界を迎えていたが、最悪の「腱断裂」だけは免れていた。あのタイミングでイグニスが心を折ってくれたおかげで、無理な走りをやめることができたのだ。時間をかけて休ませれば、競走魔獣としては引退でも、普通の魔獣として穏やかに生きていくことはできるだろう。
「……よかったな、ノア」
イグニスが俺の視線の先を見て、優しく微笑んだ。
G2クラスの制覇。それは、俺たちの『真・育成』が、力と搾取による支配を完全に打ち砕いた瞬間だった。
俺たちの前にはもう、最高峰であるG1クラスの頂しか残されていない。最高のバディと共に、俺たちはさらなる高みへと歩みを進めるのだった。




