第6話「勝利の祝宴と手作りの薬湯」
王都中央スタジアムでの圧倒的な勝利から数時間後。熱狂の渦から逃れるようにして裏口からスタジアムを後にした俺たちは、約束通り王都の巨大な中央市場へと足を運んでいた。
夕暮れ時の市場は、いつも以上に活気に満ち溢れていた。行き交う人々の口の端に上っているのは、つい先ほど行われたG3・新星戦の話題ばかりだ。
「おい、聞いたか? 名前のないテイマーが連れてきた人化の魔獣が、あのサンダーライオンを赤子扱いしたらしいぞ!」
「あのアナウンス、俺も聞いたぜ。レコードタイムを五秒も縮めたんだとよ。ありえねぇスピードだ!」
「イグニス・フレアって名前だったか? あの黒い炎みたいなオーラ、思い出すだけで鳥肌が立つぜ……」
そんな噂話が飛び交う中を、俺たちは深くフードを被って歩いていた。イグニスは周囲の声を耳にするたびに、フードの下で誇らしげに鼻を鳴らし、俺の服の裾をギュッと引っ張ってくる。
「おいノア、聞いたか? あいつら、わたしのことスゴいって言ってるぞ!」
「ああ、聞こえてるよ。だが今は顔を隠しておけ。お前はもう『無名の野良』じゃない。顔がバレたら、あっという間に人だかりができて、肉を買うどころじゃなくなるからな」
俺が小声で窘たしなめると、イグニスは「むぅ」と不満げに唸りつつも、大人しくフードを深く被り直した。
俺たちは市場の一角にある、最高級の魔獣肉を取り扱う老舗の精肉店へと向かった。
「親父さん、特上の『飛竜』の霜降り肉を、三キロ……いや、今日は奮発して五キロ頼む。それと、骨付きのリブロースも追加でだ」
俺が、賞金の入った分厚い革袋から金貨を取り出してカウンターに置くと、店主の親父は目を丸くした。
「おや、ノアの兄ちゃんじゃないか。ずいぶんと景気がいいな。前のパーティーを追い出されてから心配してたんだが……まさか、今日スタジアムで大穴を開けたっていう無名のテイマーってのは……」
「しっ! 親父さん、内緒にしておいてくれよ。これから帰って、こいつと勝利の宴をやるんだから」
俺が苦笑いしながら人差し指を口元に当てると、親父さんは察したように豪快に笑い声を上げた。
「はっはっは! こりゃあ驚いた! よし、そういうことなら今日は特別だ。特上の飛竜肉をさらにおまけして、極上の香辛料もつけてやる! 次のレースでもしっかり稼いで、またうちの肉を買いに来てくれよな!」
「ありがとう、親父さん。助かるよ」
ずっしりと重い肉の包みを受け取り、俺たちは市場を後にした。イグニスは、肉の包みから漂う微かな血の匂いと香辛料の香りに刺激されたのか、道中ずっとソワソワと尻尾を揺らし続けていた。
すっかり日が落ち、夜の闇に包まれた王都の外れ。俺たちの拠点である古い厩舎に帰ってくると、そこには昼間の喧騒が嘘のような静寂があった。
俺は早速、厩舎の居住スペースにある大きな暖炉に火を入れ、鉄板を熱し始めた。親父さんから買った飛竜の霜降り肉を分厚く切り分け、特製のタレと香辛料でしっかりと下味をつける。
「イグニス、少し下がってろよ。油が跳ねるからな」
「わかってる! でも、早く、早く焼いてくれ……! お腹の虫が暴れてるんだ!」
食卓の椅子に正座して待機しているイグニスは、手に持ったナイフとフォークをガチャガチャと鳴らしながら、鉄板を食い入るように見つめている。
熱した鉄板に肉を乗せた瞬間、ジュワァァァッ!という豪快な音とともに、香ばしい脂の匂いが厩舎いっぱいに広がった。飛竜の肉は魔獣にとっても最上級のエネルギー源であり、特に火属性の竜種であるイグニスにとっては、魔力回路を活性化させるための最高の栄養素だ。
表面をカリッと焼き上げ、中は美しいレアの状態に留めた完璧なステーキを、俺は大皿に山盛りに乗せてイグニスの前に置いた。
「ほら、お待たせ。新星戦の優勝、本当におめでとう。好きなだけ食え!」
「……っ! いただきます!!」
イグニスはフォークを突き刺すのももどかしい様子で、手づかみで骨付き肉に食らいついた。
「あむっ……! むぐ、むぐ……! んんん〜〜〜っ!!」
肉を咀嚼した瞬間、彼女の金の瞳がカッと見開かれ、背中の尻尾がプロペラのように回転し始めた。
「おいしい! すっごくおいしいぞノア! 口の中でお肉がとろけて、すごい熱が体の中に広がっていく……! 今まで食べたお肉の中で、一番おいしい!」
「そりゃよかった。ゆっくり食えよ、まだまだあるからな」
俺も自分の分のステーキを切り分けながら、イグニスの食べっぷりを微笑ましく見守った。
レースで極限まで魔力と体力を消費した後の食事は、ただ腹を満たすためだけのものではない。この良質なタンパク質と魔力が、彼女の筋肉をさらに強靭に進化させるための材料となるのだ。
イグニスは顔中を脂だらけにしながら、あっという間に五キロ近い飛竜の肉を平らげた。大きく膨らんだお腹をさすりながら、彼女は満足そうに長い息を吐き出した。
「……はぁぁ、食べた食べた。もう一口も入らないぞ。わたし、今なら世界中の魔獣を相手にしても負けない気がする」
「ははっ、頼もしいな。でも、今日はもう戦う必要はない。お腹がいっぱいになったら、次はお待ちかねのご褒美の時間だ」
俺がそう言うと、イグニスの耳がピクッと動いた。
「ご褒美……? あ、まさか……!」
「ああ。厩舎の裏に作った『特製温泉』の準備ができてる。レースの泥と疲れを、ゆっくり洗い流してこい」
俺が厩舎の裏手へ案内すると、そこには手作りの芝コースの傍らに、大きな石を組み上げて作った立派な露天風呂が完成していた。
「うわぁ……! すごい! 本当に温泉ができてる!」
イグニスは目を輝かせて湯船に駆け寄った。地下から汲み上げた水に、火の魔石を使って適度な温度を持たせ、さらに俺が山で採集してきた『マナリーフ』や『回復の薬草』をたっぷりと煮出している。お湯はほんのりと薄緑色に色づき、爽やかなハーブの香りが立ち昇っていた。
「ここは完全に仕切られているから、誰かに見られる心配はない。ゆっくり浸かってこい」
「うん! ……あ、でも……」
イグニスは服を脱ごうとして手を止め、少しもじもじしながら俺を振り返った。
「ノアは、入らないのか……?」
「俺か? 俺は後でいいよ。まずは主役のお前が一番風呂を楽しんでこい」
「……そうか。じゃあ、先に入ってるからな。後で絶対に来いよ!」
そう言い残すと、イグニスは服を脱ぎ捨ててザブンと湯船に飛び込んだ。
「ぷはぁっ! あったか〜〜い……! 最高だ……!」
壁越しに聞こえてくるイグニスの歓喜の声を聞きながら、俺は温泉の裏手に回り、湯加減を調整するための魔力陣を確認した。
しばらくして、俺も簡単な湯浴み着を身につけ、温泉へと足を踏み入れた。
「失礼するぞ。お湯の温度はどうだ?」
「ノア! ちょうどいいぞ。体が芯からポカポカして、お肉を食べた後の重たい感じがスッと抜けていくみたいだ」
イグニスは湯船の縁に頭を乗せ、完全にリラックスした表情で目を細めていた。お湯に濡れた黒髪が肌に張り付き、ほんのりと上気した頬が、普段の強気な彼女とは違う無防備な色気を漂わせている。
俺は彼女の背中側に回り込み、お湯に浸かった状態のまま、固有スキル『魔獣眼』を静かに発動させた。
「よし、それじゃあレース後の特別メンテナンスだ。少し力を抜いてろよ」
俺の言葉に、イグニスは素直にコクンと頷き、背中をこちらに預けてきた。お湯の中で彼女の肩甲骨に手を当てる。魔獣眼の視界には、今日の凄まじい大逃げによって酷使された筋肉の繊維と、魔力回路の摩擦による微細なダメージが映し出されていた。しかし、それらは薬湯の成分によってすでに自己修復を始めており、俺の魔力による『真・育成』のサポートを加えれば、明日には完全に回復するどころか、さらに強靭な組織へと超回復を果たすはずだ。
「……『マッサージ・リリース』」
俺の手から微弱な魔力の波紋が放たれ、イグニスの体内の滞った魔力を優しく押し流していく。
「ひぅっ……ぁ……」
お湯の温かさとマッサージの快感が相まって、イグニスの口から甘い吐息が漏れる。
「すごいな、イグニス。あれだけのスピードで走ったのに、関節への負担がほとんどない。手作りの芝コースでフォームを矯正した効果が、完全に発揮されていたぞ」
俺がマッサージを続けながら褒めると、イグニスは湯面でブクブクと泡を立てながら、照れくさそうに呟いた。
「……ノアが、走りやすい場所を教えてくれたからだ。わたしはただ、ノアの声を信じて足を動かしただけだぞ」
「それでも、あそこで『限界突破』のスイッチを入れたのはお前の判断だ。あの圧倒的な加速、スタジアムにいた全員が震え上がっていたよ」
「ふふん、当然だ。あの傲慢な勇者のライオンなんて、わたしの背中を見ただけで怯えて逃げていったからな。ざまぁみろって感じだ」
イグニスの言葉に、俺は思わず声に出して笑ってしまった。
「違いない。レオンの奴、VIP席で顔を真っ青にしてへたり込んでたからな。これで少しは、自分のやり方が間違っていることに気付けばいいんだが」
そう口にしたものの、俺の心の中には一抹の不安がよぎっていた。レオンのようなプライドの高い男が、一度の敗北で素直に己の非を認めるとは思えない。むしろ、この屈辱を晴らすために、さらに魔獣たちを過酷な状況へと追い込むのではないか。
「……ノア?」
俺の手が止まったことに気づいたのか、イグニスが不思議そうに振り返った。
「あ、いや、なんでもない……。右足のふくらはぎに少し張りが残ってるな。ここもしっかり解しておこう」
俺は誤魔化すようにマッサージを再開した。今は余計な心配を彼女に悟らせる必要はない。俺たちはただ、自分たちのレースを完璧にこなすことだけを考えればいいのだ。
「あぁっ……そこ、すごく気持ちいい……。ノアの手、魔法みたいだ。痛かった場所が、全部溶けてなくなっちゃう……」
イグニスは完全に身を任せ、心地よさそうに目を閉じている。彼女の背中の黒い尻尾がお湯の中でゆらゆらと揺れ、俺の腕に絡みついてきた。それは、彼女が俺に対して全幅の信頼を寄せている何よりの証拠だった。
殺処分寸前で人間を憎んでいたあの出会いから、まだ数週間。俺たちは最高のバディとして、確かに一つになりつつあった。
一方その頃。王都の最高級ホテルにあるレオンのスイートルームは、重苦しい沈黙と狂気じみた怒りに支配されていた。
ガッシャァァァン!!
レオンが壁に投げつけた高級なワイングラスが粉々に砕け散り、深紅の液体が絨毯を汚していく。
「どういうことだ……!? 我がクラブが誇る最高の魔獣サンダーライオンが、あんな無名のガキが連れてきた野良魔獣に負けるなど……!! ありえん! 絶対にありえん!!」
レオンは血走った目で部屋の中を歩き回り、髪を掻き毟っていた。部屋の隅では、クラブの専属調教師たちが、顔面を蒼白にして震え上がっている。
「レ、レオン様……落ち着いてください。サンダーライオンは、過度の魔法薬の反動で精神的にパニックを起こしておりまして……。現在は厩舎の奥で怯えきってしまい、走るどころか、餌すら食べようとしない状態で……」
「使い物にならん廃棄物め!! 金貨五千枚も投資したというのに、一度負けただけで心を折られるなど!! もういい、あんな役立たずは処分してしまえ!!」
レオンの冷酷な言葉に、調教師たちは言葉を失った。
「それよりも、ホワイトペガサスだ! 奴の仕上がりはどうなっている!?」
「ペ、ペガサスですか!? しかし、ペガサスの右前脚は、以前からノアが指摘していた通り、魔法疲労の蓄積が限界に達しておりまして……。今は歩行すら危うい状態で……」
「黙れ!! 治癒魔法をかけ続けろと言っているだろうが!!」
レオンは調教師の胸ぐらを掴み、吊り上げた。
「来月開催されるG2『聖光記念』……。そこに、ホワイトペガサスを強引にでも出走させろ!! 我がクラブの威信にかけて、あの生意気なノアと人化の魔獣を、今度こそ完膚なきまでに叩き潰してやる!!」
「し、しかし……! 今のペガサスに全力のレースをさせれば、間違いなく脚の腱が断裂し、最悪の場合は命に関わります!!」
「魔獣の命など知ったことか!! 勝利だ! 俺に必要なのは絶対的な勝利の証明だけだ!! どんな強力なドーピング魔法を使ってでも、あのペガサスを走らせろ。できなければ、お前たちを全員クビにしてスラムに放り込んでやる!!」
狂気に満ちたレオンの怒声が、夜の闇に虚しく響き渡っていた。彼は己のプライドを守るためだけに、かつての愛馬を完全に使い潰すという越えてはならない一線を、ついに越えようとしていた。
そんなレオンの狂気など知る由もなく、俺とイグニスは、温かい薬湯の中で穏やかな時間を過ごしていた。
「……ぷはぁ。すっごく温まったぞ。ノアのおかげで、体が羽みたいに軽い」
湯船から上がったイグニスは、タオルで髪を拭きながら清々しい笑顔を浮かべていた。
「それは良かった。しっかり水分を取って、今日はもう休め。明日からはまた、次のレースに向けたトレーニングの開始だぞ」
「次のレース?」
イグニスが首を傾げる。
「ああ。新星戦のレコード勝利で、お前の実力は完全に証明された。次はついにG2クラスだ。一ヶ月後に開催される『聖光記念』にエントリーするつもりだ」
俺がそう告げると、イグニスの瞳に再びギラギラとした闘志の炎が灯った。
「G2! ということは、今日走ったお坊ちゃんたちよりも、もっと速い奴らが集まるってことだな!」
「その通りだ。レオンのクラブからも、間違いなくエース級の魔獣が出てくるはずだ。だが、今の俺たちの『育成』なら絶対に勝てる。お前のポテンシャルは、まだ底を見せていないからな」
「ふふん、当然だ。どんな強い奴が来ようと、全部わたしの炎で焼き尽くしてやる。ノア、絶対にわたしを一番にしてくれよな!」
「ああ、約束する。お前は俺の最高のバディだからな」
夜風が心地よく吹き抜ける厩舎の前で、俺たちは拳を軽くコツンと突き合わせた。王都の喧騒から離れたこの小さな箱庭で、俺と伝説の黒焔竜は、さらなる高みを目指して静かに牙を研ぎ澄ませていた。
マギア・ダービーの歴史を根底から覆す、真の成り上がりの物語は、まだ始まったばかりだった。




