第8話「白き翼の休息と癒やしの箱庭」
王都中央スタジアムを熱狂の渦に巻き込んだ聖光記念から一夜明けた早朝──
俺は王都の一等地にある、勇者レオンが率いるレーシングクラブ『ソード・オブ・ライト』の巨大な厩舎の前に立っていた。
大理石で装飾された豪奢な門構えとは裏腹に、敷地内には重苦しく冷たい空気がどんよりと立ち込めていた。昨日の歴史的な大敗北により、クラブ内は完全にパニック状態に陥っているのだろう。怒鳴り声や物が割れる音が、遠くの豪邸の方から微かに響いてくる。
俺が勝手口から厩舎の裏手へ回ると、そこには予想通り、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
「……シロ」
薄暗く冷たい石造りの隔離馬房。その隅で、太い鉄の鎖に繋がれた純白の天馬・ホワイトペガサスが、ボロ布のように力なくうずくまっていた。
かつて真珠のように美しく輝いていた毛並みは泥と血で汚れ、覇気のあった青い瞳は完全に焦点を失い、虚無を見つめている。右前脚は異常なほど腫れ上がり、地面に触れることすらできない状態だ。昨日のレースでイグニスが心を折って走るのを止めさせなければ、間違いなくあの場で命を落としていた。
「おい、お前! ここは立ち入り禁止だぞ。何勝手に入り込んでる!」
背後から、クラブの専属調教師が血相を変えて飛んできた。昨日のレースでペガサスに無理な魔法薬を投与していた男だ。
「……こいつを引き取りに来た」
「はあ? お前は昨日の……ノア! 貴様、どのツラ下げてここに来やがった! レオン様がどれだけ荒れているか……!」
「レオンが荒れていることと、このペガサスの命は関係ない。こいつはもう、競走魔獣としては完全に終わっている。このままここに置いておけば、数日以内に処分される運命だろう。違うか?」
俺の冷たい声に、調教師は一瞬言葉を詰まらせた後、忌々しそうに舌打ちをした。
「……チッ。レオン様の命令だ。その役立たずの粗大ゴミは、今日の昼に屠殺場へ送ることになっている。お前が引き取る義理なんてねえよ」
「聖光記念の優勝賞金から、金貨五百枚を出す」
俺が革袋を無造作に放り投げると、チャリンと重たい金属音が響いた。
調教師の目があからさまに欲の光に染まる。すでに終わった魔獣一頭の処分代としては破格すぎる金額だ。
「……金貨五百枚、だと? 本気か?」
「足りないならまだ出す。だが、今すぐこいつの所有権を俺に移せ。これ以上、一秒たりともこいつをこの冷たい床に寝かせておきたくない」
「……フン、物好きめ。まあいい、どうせ廃棄する予定だったゴミだ。金になるならレオン様も文句は言わねえだろう。持ってけ!」
調教師が鍵を投げ捨て、そそくさとその場を去っていく。俺はすぐさま鉄格子を開け、ペガサスの傍らに跪いた。
「シロ……迎えに来たぞ。もう大丈夫だ。もう誰も走れなんて言わない」
俺が優しく首筋を撫でると、ペガサスはビクッと体を震わせ、濁った目でゆっくりとこちらを見上げた。俺のことを認識できているのかも怪しい。極度の恐怖と痛みに支配された精神は、すっかり閉ざされてしまっていた。
「固有スキル『魔獣眼』……そして『真・育成』」
俺は静かにスキルを発動させ、右前脚に手を当てた。
俺の魔力が柔らかな緑色の光となって、ペガサスの痛めつけられた魔力回路へと浸透していく。断裂寸前だった腱を魔力で優しく包み込み、一時的に痛みを和らげる応急処置を施す。
「ヒヒン……ッ」
ペガサスが小さく嘶き、強張っていた筋肉が少しだけ緩んだ。俺はペガサスの首に腕を回し、ゆっくりと立ち上がるのを手伝った。三本足でなんとか立ち上がった彼は、俺の肩に重たい頭を預けてきた。
「さあ、帰ろう……俺たちの家に」
王都の外れにある、俺たちの手作りの厩舎。そこへ辿り着いた時には、太陽はすっかり高く昇っていた。
「ノアー! 遅いぞ! お腹すいたー!」
厩舎の入り口で、尻尾を振り回しながら待っていたイグニスが駆け寄ってくる。しかし、俺が連れているペガサスの姿を見るなり、彼女はピタリと足を止めた。
「……そいつ、昨日の」
「ああ。引き取ってきた。今日からここで一緒に暮らすことになる。イグニス、少し手伝ってくれるか?」
「……フン。まあ、あんなボロボロの奴を放っておくノアじゃないって、わかってたけどな」
イグニスはツンとそっぽを向きながらも、すぐにペガサスの反対側に回り込み、その巨体を小さな肩で支えてくれた。彼女の驚異的な筋力のおかげで、ペガサスの移動はずっと楽になった。
ここは……?
ペガサスが不思議そうに周囲を見回しているのが俺にはわかった。冷たい石と鉄格子しかなかった前の厩舎とは全く違う。ふかふかの藁が敷き詰められた馬房、風通しの良い木の壁、そして奥に広がる、エメラルドグリーンに輝く美しい魔力芝のコース。
「ここは俺たちの箱庭だ。シロ、お前はもう二度と暗い馬房に閉じ込められることはないからな」
俺たちはそのままペガサスを厩舎の裏手、手作りの露天風呂へと連れて行った。
「まずはそのこびりついた泥と、体に残っている悪い魔法薬の成分を洗い流そう」
俺は地下から汲み上げた温泉の温度を、普段よりも少し低めの『微温湯』に調整した。熱すぎると弱った体には負担になるからだ。さらに、市場で大量に買い込んでおいた『浄化の魔力泥』を湯に溶かし込む。
「シロ、怖くないから。温かいだけだぞ」
ペガサスは最初、水に入れられることを極端に恐れて後ずさった。前のクラブで、無理やり冷水に叩き込まれて強制治癒魔法をかけられていたトラウマだろう。だが、俺とイグニスで優しく背中を押し、少しだけお湯に触れさせると、その心地よい温かさに驚いたように目を丸くした。
ザブンと、ペガサスは自らゆっくりと湯船に浸かり、その大きな体を沈めた。
「ふはぁぁ……」
ペガサスの口から、まるで人間のような長い安堵の吐息が漏れた。浄化の魔力泥が溶け込んだお湯が、彼の毛並みにこびりついた汚れを優しく落とし、皮膚から浸透して体内に残留していた有害な魔法薬の毒素を中和していく。
「よし、わたしが洗ってやる!」
イグニスが腕まくりをして、手作りの柔らかいブラシでペガサスの背中をゴシゴシと擦り始めた。
「ほら、もっと力抜いていいぞ。お前、昨日はなかなか良い走りだったじゃないか。最後はわたしにビビって腰抜かしてたけどな! はっはっは!」
「ブルルル……」
イグニスの無遠慮だが裏表のない明るさに、ペガサスも少しだけ警戒を解いたようだ。気持ちよさそうに目を細め、イグニスのブラッシングに身を任せている。
俺はその間に、ペガサスの右前脚にお湯の中で直接手を当て、『真・育成』の魔力を注ぎ込み続けた。
お湯の温熱効果と、俺の魔力による細胞の活性化。王都の最高級の治癒院でも不可能な「完全な癒やし」が、この手作りの温泉の中で静かに進行していた。
ペガサスが温泉でゆっくりと休んでいる間、俺は厩舎の横にある空き地で土木作業に取り掛かっていた。
「ノア、何してるんだ?」
「シロのための、専用のリハビリ用放牧地を作っているんだ」
俺は土魔法で地面を深く耕し、そこへ普通の魔力芝よりもさらに柔らかく、クッション性の高い『綿毛芝』の種を蒔いていた。
「あいつの脚は、普通の地面を歩くだけでもまだ負担がかかる。だから、足の裏全体を優しく包み込むような、絨毯みたいに柔らかい芝生が必要なんだ。それから、ここには日除けの屋根も作って……」
「なるほど! じゃあ、わたしは柱になる木を切ってくるぞ! どーんと任せておけ!」
イグニスが嬉々として裏山へ飛んでいき、数分後には大木を何本も軽々と担いで戻ってきた。彼女の規格外のパワーのおかげで、普通なら数日かかるような放牧地の建設が、わずか数時間で形になっていく。
俺たちは木材を組み上げて頑丈な柵を作り、魔法で成長を促進させた綿毛芝を敷き詰めた。さらに、いつでも新鮮な水が飲めるように、魔力石を使った自動給水器も設置する。それはまさに、傷ついた魔獣のためだけに作られた、完璧な箱庭だった。
夕暮れ時──
すっかり綺麗になり、本来の純白の輝きを取り戻したペガサスを、完成したばかりのリハビリ用放牧地へと案内した。
「ヒン……?」
ペガサスは、恐る恐る綿毛芝の上に足を踏み入れた。フワッ……とした感触が伝わる。傷ついた右前脚を地面についても、全く痛みが走らない。柔らかい芝生がスポンジのように体重を吸収し、足首への負担を完全にゼロにしてくれていたのだ。
ペガサスは信じられないといった様子で、何度も何度もその場で足踏みをした。痛くない、歩いても痛くないのだ。その事実を理解した瞬間、ペガサスの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「ブルルルルッ……! ヒヒーンッ!!」
彼は天を仰ぎ、声を震わせて嘶いた。それは悲しみの声ではなく、長きにわたる苦痛からの解放と、圧倒的な喜びの産声だった。
「よかったな、シロ」
俺が近づくと、ペガサスは大きな頭を俺の胸に擦り付けてきた。俺は彼のたてがみを優しく撫でながら、温かい体温を確かめるように抱きしめた。
「おーい! ご飯できたぞー!」
厩舎の方から、エプロン姿のイグニスが大きな木桶を抱えて走ってきた。
「今日は特別メニューだぞ! 市場の親父に頼み込んで買ってきた、極上の『魔力エンバク』に、甘いリンゴとハチミツをたっぷり煮込んで混ぜてやったんだ! わたしが味見したから間違いない!」
イグニスが木桶を地面に置くと、とろけるような甘い香りが辺りに漂った。ペガサスはクンクンと匂いを嗅いだ後、勢いよく桶に顔を突っ込み、夢中で食べ始めた。
よほど美味しかったのだろう。バクバクと音を立てながら、時折思い出したように涙をこぼし、それでも口を動かすことをやめなかった。
「フフん、たくさん食べろよ。わたしの後輩なんだから、しっかりお肉をつけて強くならないとな!」
イグニスがペガサスの背中をバンバンと叩いて笑う。
ペガサスは食べるのを少しだけ止めてイグニスの顔を見ると、感謝を伝えるように小さく鼻を鳴らした。種族も強さも全く違う二匹の魔獣の間に、確かな家族としての絆が芽生えた瞬間だった。
すっかり夜も更け、空には満天の星が輝いていた。
新しく作った放牧地の真ん中で、ペガサスは満腹のまま横たわり、穏やかな寝息を立てている。痛みに怯えることのない、本当に久しぶりの深い眠りだ。
俺とイグニスは、厩舎の屋根の上に並んで座り、その姿を静かに見下ろしていた。
「……良い顔で寝てるな。シロのやつ」
「ああ。脚の完治にはまだ時間がかかるが、もう心配はない。あいつはここで、ゆっくりと自分のペースで生きていけばいい」
俺が星空を見上げながら言うと、イグニスは俺の肩にコツンと頭を乗せてきた。
「なあ、ノア」
「ん?」
「わたし、ノアのテイムする魔獣になれて本当によかった」
イグニスの言葉は、普段の強気な態度はどこへやら、とても穏やかで素直な響きを持っていた。
「ノアがいなかったら、わたしもシロみたいに人間の道具にされて、心も体も壊されてたかもしれない。でも、ノアはわたしに走る楽しさを教えてくれた。美味しいご飯と温かいお風呂を作ってくれた。……ありがとう、ノア」
「……やめろよ、照れるだろ。俺の方こそお前がいてくれるから、こうして自分の信じる育成を証明できるんだ。お前は俺にとって、誰にも代えられない最高の相棒だよ」
俺が彼女の頭を撫でると、イグニスは嬉しそうに目を細め、背中の尻尾をパタパタと揺らした。
「さて……次はついに、最高峰の舞台だな」
俺は視線を王都の中心、夜空に浮かび上がるようにライトアップされた巨大な闘技場の方角へと向けた。
G2クラスを制覇した俺たちに与えられた次なる試練。それは、数ヶ月後に開催される、この国で最も権威のあるG1公式戦『王立ダービー』への招待状だった。
「G1……。この国で一番強い魔獣が集まる場所」
「ああ。レオンのところのペガサスはいなくなったが、王都にはまだ底知れない実力を持った名門クラブが腐るほどある。これまでのようにはいかないかもしれないぞ」
俺の忠告に、イグニスはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「上等だ。相手が誰だろうと関係ない。わたしとノアで作ったこの箱庭の力が、世界で一番強いってことを証明してやる。全員、まとめてぶっちぎってやるからな!」
「ははっ、頼もしいな。それじゃあ明日からまた特訓の再開だ。シロの世話もしながらになるから、忙しくなるぞ」
「望むところだ! よーし、今日はもう寝て明日に備えるぞ!」
イグニスは元気よく立ち上がり、屋根から軽やかに飛び降りていった。
傷ついた仲間を迎え入れ、少しだけ賑やかになった俺たちの箱庭。ここで培われた絶対的な信頼と、非常識なまでの育成技術は、やがて来る最高の舞台へ向けて、さらなる進化を遂げようとしていた。
最強のテイマーと黒焔竜の成り上がりは、いよいよクライマックスへと向かって走り出す。




