第9話「氷の帝王と魔力流の特訓」
王都の郊外にある俺たちの厩舎は、かつてないほど穏やかで、しかし確かな熱気に満ちていた。
G2聖光記念での圧倒的な勝利から数日。新たに俺たちの「箱庭」の住人となった純白の天馬、ホワイトペガサスのシロは、手作りの綿毛芝の放牧地で順調に回復を見せていた。
まだ全力で走ることはできないが、痛覚を麻痺させる魔法薬の毒素は温泉の効果で完全に抜け落ち、今では自力でしっかりと立ち上がり、穏やかな日差しの中で気持ちよさそうに草を食んでいる。その瞳にはかつての絶望はなく、穏やかな光が宿っていた。
「シロー! ほら、新鮮なニンジンだぞ! わたしが一番甘そうなのを選んでおいたからな!」
「ブルルルッ!」
放牧地の柵越しにイグニスがニンジンを差し出すと、シロは嬉しそうに鼻を鳴らしてそれを受け取った。種族もかつてのライバルという立場も越えて、二人はすっかり仲の良い兄妹のような関係になっている。
そんな微笑ましい光景を厩舎の窓から眺めながら、俺は手元の『魔力投影紙』──王都の最新のレース情報が自動で更新される高価な魔法具に視線を落とし、険しい表情を浮かべていた。
「……やはり、今年のG1王立ダービーの最大障壁は、こいつか」
投影紙のトップを飾っていたのは、冷気を纏った巨大な銀色の狼の姿だった。四大公爵家の一つ、ユリウス公爵が所有する伝説の幻獣種。銀氷狼のグレイシア。
そして、そのグレイシアを完璧にコントロールするユリウス公爵自身もまた、若くして天才と謳われるトップテイマーだ。勇者レオンのような魔獣を力と薬で壊す三流とは違う。魔獣の生態を極限まで理解し、一切の無駄を省いた「氷のように冷徹で完璧なレース」を展開する、本当の意味での強敵だった。
「グレイシアの固有スキル『絶対零度の領域』、これが厄介すぎるな」
記事に記されたグレイシアのレース記録を読み解きながら、俺はペンを走らせる。グレイシアは走る際、周囲数十メートルのターフを一瞬にして凍結させる冷気を放つ。これによって後続の魔獣たちは芝のグリップ力を奪われて足を滑らせ、さらに極寒の空気を吸い込むことで急速にスタミナと体温を奪われてしまうのだ。
イグニスの最大の武器は、エメラルドグリーンの魔力芝の反発力を利用した爆発的なコーナリングと加速だ。もしターフが凍りついて反発力が殺されてしまえば、彼女の走りは根底から崩されてしまう。さらに火属性の彼女にとって、急激な冷気は魔力回路を萎縮させる天敵でもある。
「小手先のフォーム修正じゃ通用しない。根本的な環境耐性と、魔力の使い方を叩き込む必要があるな」
俺は投影紙を閉じると、厩舎の裏手でシロと遊んでいるイグニスに向かって声をかけた。
「イグニス! 遊んでるところ悪いが、新しい特訓を始めるぞ! 厩舎の裏の川へ行くぞ!」
「特訓!? やるやる! わたし、もっと速くなりたい!」
イグニスは目を輝かせて駆け寄ってきた。シロも興味深そうに首を伸ばし、ゆっくりとした足取りで俺たちの後ろをついてくる。
厩舎の裏手には、山から湧き出る清らかな小川が流れている。俺はその川の一部を土魔法でせき止め、深さ二メートルほどの即席のプールを作り上げた。
「ただの水遊びじゃないぞ。ここに、ジャンク屋で安く買ってきた深海石を沈める」
俺が革袋から取り出したのは、鈍く青い光を放つ手のひら大の石だ。これは本来、船のバラストなどに使われる魔力石だが、水に触れると周囲の水の密度を異常に高め、さらに水温を急激に下げるという特性を持っている。
石をプールに投げ込んだ瞬間、ボコッ……という不気味な音と共に、水面がうねりを上げ、どす黒い青色へと変色した。水はまるで泥のように重く粘り気を持ち、凄まじい勢いの渦を巻き始める。さらに、プールの表面からは真っ白な冷気が立ち昇り、周囲の草木が一瞬で霜に覆われた。
「うわっ……なんだこれ。水がすっごく重たそうだし、めっちゃくちゃ冷たいぞ……!」
「ああ。深海石の力で、このプールの水は通常の十倍の重さと水圧を持っている。おまけに水温は氷点下スレスレだ。普通の魔獣なら、見つめただけで気絶するレベルの魔力流の渦だ」
俺は平然と言ってのけた。
ユリウス公爵の絶対零度に対抗するには、これくらいの冷気と抵抗の中で体を動かす基礎トレーニングが不可欠だ。
「イグニス。お前の今日の特訓は、このプールの中に入り、水流に逆らって向こう岸まで泳ぎ切ることだ」
「なっ……!? この氷水の中を泳ぐのか!?」
「そうだ。お前の炎の魔力で冷気を相殺しながら、重たい水圧を掻き分けて進む。これができれば、どんな悪路でもどんな冷気の中でも走れる強靭な体幹と魔力コントロールが身につくはずだ」
俺の言葉に、イグニスはゴクリと唾を飲み込んだ。
後ろで見ていたシロでさえ、あんなのに入るのか?とばかりに耳を伏せてドン引きしている。
「……やってやる! グレイシアだか何だか知らないが、全部ぶっちぎるって決めたんだ!」
イグニスは意を決したようにレーシングスーツのジッパーをしっかり上げると、大きく息を吸い込み、重く渦巻くプールへと勢いよく飛び込んだ。
ザパァァァンッ!!
「ぷはぁっ!! ーーーっっっっ! つ、冷たっ!! 重っ!!」
飛び込んだ瞬間、イグニスの体が渦に巻き込まれそうになる。彼女は慌てて全身から黒い炎のオーラを噴出させ、プールの冷気を蒸発させようとした。ボワァァッと激しい炎が上がり、周囲の水が沸騰して水蒸気が立ち込める。
「駄目だ、イグニス! 魔力を外に放出するな!!」
俺はすかさず激を飛ばした。
「お前の『黒焔』は威力が強すぎる! 炎を外に放出すれば、水圧に押し潰される前に自分の魔力切れで溺れるぞ! 燃やすんじゃない、纏うんだ!」
「ま、纏う……!? どうやって!!」
「魔力の放出を皮膚の表面で止めろ! 炎を薄く極限まで高密度に圧縮して、自分の体を覆う『第二の皮膚』にするんだ! 冷気を弾き、水圧を切り裂く流線型のオーラを作れ!」
言うのは簡単だが、これは極めて高度な魔力操作だ。
本来、火属性の魔力は「爆発と拡散」を性質とする。それを内側に留め、高密度に圧縮し続けるのは、自分の体の中に爆弾を抱えながら繊細な針の糸を通すような離れ業なのだ。
「ぐ、ううぅぅぅっ……!!」
イグニスは歯を食いしばり、必死に自分の本能に抗っていた。外へ外へと広がろうとする黒い炎を、自らの意志の力で強引に押さえ込む。しかし、ほんの少しでも気を抜けば重たい水圧に押し流されそうになり、圧縮のバランスが崩れれば冷気が容赦なく体温を奪っていく。
「がぼっ……! げほっ、ごほっ!」
何度も水を飲み、もがき苦しむイグニス。
その時だった。
岸辺で見守っていたシロが、小さくヒヒンと嘶き、不自由な脚を踏ん張ってプールの縁に立った。シロの折れた角の先から、微弱だが澄んだ『風の魔力』が放たれた。それはイグニスの周囲の重たい水流に干渉し、ほんの僅かだけ渦の回転を和らげ、彼女が体勢を立て直すための道を作ったのだ。
「シロ……!」
イグニスは水の中でシロの援護を感じ取り、カッと黄金の瞳を見開いた。
「落ち着け、イグニス。力ずくで水を退かそうとするな。水と一体になり、冷気を自分の熱の膜で滑らせるんだ」
俺の言葉と、シロが作ってくれた僅かな風の道。イグニスの脳内で、すべての感覚が一つに繋がったのがわかった。
「……シュゥゥゥッ……」
突如として、プールを沸騰させていた派手な水蒸気がピタリと止んだ。イグニスの体から無軌道に放たれていた黒い炎が、シュルシュルと音を立てて彼女の体の表面へと収束していく。
固有スキル『魔獣眼』を通して、俺は信じられない光景を目撃していた。彼女の魔力回路から生み出された膨大な黒焔が、レーシングスーツの表面わずか数ミリの空間に極限まで圧縮され、ピタリと定着している。まるで、漆黒のガラスコーティングを全身に施したかのような、一切の揺らぎのない静かなる炎。
「……闘気圧縮。まさか、一回の特訓で感覚を掴むとは」
俺は震える手でノートにメモを走らせた。極限まで圧縮された黒焔の膜は、プールの恐ろしい冷気を完全に遮断し、さらに周囲の重たい水圧を熱で滑らせ、抵抗を限りなくゼロにしていた。
スーッ……。
イグニスが手足を動かすと、先ほどまでもがき苦しんでいたのが嘘のように、彼女の体は重い水流を切り裂いて滑らかに前進し始めた。力任せの泳ぎではない。水の抵抗を極限まで減らし、自らの推進力だけを純粋に前へと伝える、無駄のない美しい泳ぎだ。
「……はぁっ!!」
数分後──
イグニスは見事に十メートルの特製プールを泳ぎ切り、対岸へと這い上がった。
ザァァァッとプールから上がった瞬間、彼女の全身を覆っていた圧縮オーラが一気に解放され、周囲の水を一瞬にして蒸発させる。彼女のレーシングスーツは全く濡れておらず、体温の低下も一切見られなかった。
「やった……! やったぞノア! シロ!」
息を弾ませながらも、イグニスは誇らしげに両手を突き上げた。シロも嬉しそうに鼻を鳴らし、尻尾をパタパタと振って彼女の完走を祝福している。
「よくやった、イグニス。完璧な魔力コントロールだ」
俺がタオルを投げ渡すと、イグニスはそれを首にかけながらニカッと笑った。
「すっごい感覚だった! 炎をギュッと小さく固めたら、冷たい水が全然怖くなくなったんだ。水の中をスルスル滑るみたいで、むしろ気持ちよかったぞ!」
「ああ、その感覚を対に忘れるな。それが氷の帝王の絶対零度を打ち破る、お前だけの最強の鎧になる」
俺が言うと、イグニスは真剣な表情でコクリと頷き、自分の両拳を強く握りしめた。
「ユリウス公爵とグレイシアか。どんなに冷たい氷でも、わたしのこの黒焔は絶対に凍らせられない。王立ダービー、絶対に一番を獲ってやる!」
後日──
俺たちの厩舎に、王立魔獣競技連盟から一通の厳かな封筒が届いた。中に入っていたのは、黄金の箔押しが施された『王立ダービー・出走許可証』。それは、G1という最高峰の舞台に立つ資格を得た限られた者だけに与えられる、栄光のチケットだった。
「来たな、イグニス。これがG1への切符だ」
「おおおっ! なんかピカピカしててかっこいいな!」
「ブルルッ」
イグニスが許可証を太陽の光に透かしてはしゃぎ、シロも横から首を伸ばして匂いを嗅いでいる。
俺たちの箱庭で培った、力と搾取を否定する『真・育成』。
天才公爵と氷の帝王が待ち受ける王立ダービーのターフで、俺とイグニスのすべてを懸けた戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。




