第2話:泥濘の未認定戦
王都の中心部から馬車で一時間ほど離れた郊外。そこには、貴族たちが集う華やかな王都のメインスタジアムとは似ても似つかない、荒涼とした風景が広がっていた。むき出しの土と岩で急造された無骨なオーバルコース。周囲を囲むのは粗末な木製の柵だけで、観客席と呼べるような気の利いた設備はない。熱狂と欲望を剥き出しにした男たちが、安い酒の入った木杯を片手にコースの周りへと群がっている。むせ返るような泥の匂いと、安酒のアルコール臭、そして獣たちの放つ獣臭が入り混じった空気が辺りに充満していた。
ここが、マギア・ダービーの最底辺。公式の血統書を持たない者や、訳ありの魔獣たちが集まる非公式の泥んこレース、通称「未認定戦アンランク」の会場である。
「……ひどい匂い。それに、うるさい」
俺の背中に隠れるようにして歩きながら、イグニスがぽつりと呟いた。彼女の頭からは深くフードが被せられ、黒焔竜の特徴である黒い角は見えないように隠してある。腰のあたりもゆったりとした外套マントで覆い、尻尾の存在を悟られないようにしていた。周囲から見れば、ただの小柄な人間の少女が場違いな場所に迷い込んだようにしか見えないだろう。
「我慢してくれ。ここは血統書がない魔獣でも、参加費さえ払えば走れる唯一の場所なんだ。俺たちは実績がないから、まずはここで勝って、上のクラスに上がるための資格と資金を稼がなくちゃならない」
俺がそう説明すると、イグニスは不満げに鼻を鳴らしつつも、俺の外套の裾をギュッと強く握りしめた。彼女の震える指先からは、周囲の喧騒に対する本能的な警戒心が伝わってくる。無理もない。ここは彼女がかつて酷い扱いを受けていた魔獣処理場や、悪徳レーシングクラブの地下牢とよく似た空気が漂っていた。
「大丈夫だ、イグニス。俺がそばにいる。お前を誰にも触らせやしないし、終わったらすぐにあの厩舎に帰る。約束する」
「……うん」
俺の言葉に、彼女は小さく頷いた。その目にはまだ不安が残っていたが、昨日のような刺々しい敵意はすっかり影を潜めていた。昨晩の特製栄養食とマッサージの効果もあり、彼女の体からは長年蓄積されていた疲労物質が抜け落ち、驚くほどしなやかで良質な筋肉が絶えず微細な脈動を繰り返している。調教師としての俺の目から見ても、現在の彼女のコンディションは完璧に近い仕上がりだった。
受付の粗末なテントに赴き、俺は手持ちのなけなしの銀貨を参加費としてカウンターに叩きつけた。
「おいおい、冗談だろ兄ちゃん。こんな泥んこ遊びの場所に、人間のガキなんか連れてきてどうするんだ?」
受付の男が、俺とイグニスを交互に見て下品な笑い声を上げた。周囲にいた他の参加者たちも、その声につられてこちらを振り返り、ニタニタといやらしい視線を向けてくる。彼らが連れているのは、筋骨隆々とした巨大なオークボアや、全身傷だらけで牙を剥き出しにした変異狼など、どれも荒々しい魔獣ばかりだった。
「彼女が出走する魔獣だ。規定通り、魔力検査も身体検査も受けさせる。何か問題があるか?」
「ははっ! 人化の魔法を使える魔獣ってことか? こりゃあ傑作だ。お前らみたいな貧乏人がそんな高位の魔獣を持ってるわけがねえ。どうせ、ちょっと足が速いだけの亜人か何かだろ。まあいいさ、銀貨はありがたくもらっておく。だがな、レース中に他の魔獣に踏み潰されてミンチになっても、文句は言うなよ!」
男の嘲笑を背に受けながら、俺はイグニスを連れて出走前の待機所パドックへと向かった。そこで出走を待つ他の魔獣たちを一瞥し、俺は固有スキル『魔獣眼』を静かに発動させた。
視界に半透明のステータスボードが無数に浮かび上がる。だが、そのどれもが目を覆いたくなるような惨状だった。筋肉増強の魔法薬を過剰に投与されたせいで、魔力回路がズタズタに引き裂かれているオークボア。恐怖と痛みを鞭で無理やり抑え付けられ、精神状態が【極度のパニック】に陥っている変異狼。彼らは皆、本来の能力の半分も発揮できないまま、ただ使い捨ての道具としてここに立たされていた。
これが、勇者レオンをはじめとする現在の魔獣競技界の主流なのだ。魔獣の命を削り、一瞬の爆発力だけを引き出して勝利をかすめ取る。そんなやり方で、真の頂点に立てるはずがない。
「……イグニス」
俺は彼女の前にしゃがみ込み、フードをそっと外した。美しい黒髪と、威風堂々たる黒焔竜の角が露あらわになる。周囲の男たちが一瞬息を呑むのがわかったが、俺は構わず彼女の両肩に手を置いた。
「よく聞け。昨日の雨のせいで、今日のコースはひどい泥濘ぬかるみの重馬場だ。他の連中はその巨体に物を言わせて、コースの一番外側の走りやすい場所を力任せに奪い合うだろう」
「なら、わたしもそこで蹴散らせばいいのか?」
「いや、無駄な体力は使うな。俺がコースの土質を『魔獣眼』で解析した結果、内側の柵からちょうど三メートル離れたラインだけ、地盤が硬く締まっている。他は底なし沼みたいに足を取られるが、そこだけは別だ。お前はスタート直後、誰とも争わずにその三メートルのラインに飛び込め。あとは……お前の好きなように走れ」
俺がそう告げると、イグニスは驚いたように目を瞬かせた。
「……好きなように走って、いいのか? 鞭で叩いたり、走るペースを魔法で命令したりしないのか?」
「俺はお前の足枷を外したんだ。今さら鎖に繋ぐような真似はしない。お前が一番気持ちよく、一番速く走れるスピードで駆け抜けろ。誰の目も気にするな」
イグニスの金の瞳に、パッと明るい光が灯った。彼女は小さく深呼吸をすると、身につけていたダボダボの外套をバサリと脱ぎ捨てた。現れたのは、一切の無駄な脂肪がなく、しなやかな筋肉のラインが際立つ完璧な竜の肉体。背中から生えた黒い尻尾が、闘志を隠しきれないようにゆらゆらと揺れている。
「ノア。お前がわたしを信じるなら……わたしも、お前の目を信じる」
ファンファーレ代わりに粗末な銅鑼どらの音が鳴り響き、出走を知らせる合図が上がった。スタート地点となるコース上に、六体の巨大な魔獣と、一人の小柄な竜の少女が並ぶ。観客たちの野次と怒号が飛び交う中、スタートゲート代わりの魔力障壁が展開された。
イグニスは深く前傾姿勢をとり、両手と両足を泥の地面にピタリとつけた。その姿勢は陸上競技のクラウチングスタートそのものだ。彼女のつま先が地面をしっかりと捉え、大腿四頭筋からふくらはぎにかけての筋肉が、爆発の時を待つバネのようにギリギリと軋む音を立てているのが見えた。
『各馬、位置についたな。……スタート!!』
拡声魔法の合図と共に、魔力障壁が一斉に解除された。
ドドドドドッ!!という地鳴りを立てて、巨大な魔獣たちが一斉に駆け出す。泥を撒き散らしながら、彼らは騎手たちの鞭に打たれ、狂ったようにコースの外側へと殺到していった。
だが、イグニスの初速はそれらを遥かに凌駕していた。障壁が消えたコンマ一秒後、彼女の足元で「バンッ!」と小さな爆発音が鳴った。それは魔法ではない。純粋な脚力だけで泥の地面を蹴り砕いた音だ。
「な、なんだあの速さは!?」
「おいおい、嘘だろ!? ガキが先頭に飛び出したぞ!」
観客たちが度肝を抜かれる中、イグニスは俺の指示通り、内柵からピタリと三メートル離れた硬い地盤のラインへと滑り込んだ。他の魔獣たちが深い泥に足を取られ、もがくようにして走っているのに対し、イグニスだけがまるで舗装された石畳の上を走っているかのように、軽やかで滑らかな足取りで加速していく。
それはまさに、風そのものだった。
彼女の走りは、人間型の姿でありながら、野生の獣のしなやかさと、竜の力強さを完璧に融合させていた。前傾姿勢のまま地面を滑るように進み、一歩ごとに凄まじい推進力を生み出していく。
「グルルォォォォッ!!」
後方から、イグニスの速さに焦りを感じた騎手の一人が、オークボアの横腹に鋭い拍車はくしゃを入れ、強引に内側のラインへと切り込んできた。巨体による体当たりで、小柄なイグニスを弾き飛ばそうという魂胆だ。
「危ないっ!」
観客の誰かが叫んだ。しかし、イグニスは振り返りもしなかった。彼女はただ、自身の内側から湧き上がる圧倒的な力と、痛みを感じない体の軽さに酔いしれていた。
オークボアの巨体がイグニスに迫る直前、彼女の足元から黒い炎のようなオーラが立ち昇った。
黒焔竜の固有スキル『限界突破』
これまで彼女の体を縛り付けていた魔力拘束具スタンパがなくなり、さらに俺のマッサージによって完全に開通した魔力回路が、彼女のエンジンをフルスロットルへと押し上げたのだ。
「フッ……!」
イグニスが息を短く吐き出した瞬間、彼女のスピードがさらに二段階跳ね上がった。
「大逃げ」の脚質。それは、後続に影すら踏ませない圧倒的な孤独のスピード。彼女が加速したことで生じた強烈な後方への風圧と泥の飛沫が、体当たりを仕掛けようとしていたオークボアの顔面を直撃した。
「ブギィィィッ!?」
「うわぁぁぁっ!?」
顔面に泥の散弾を浴びたオークボアはバランスを崩し、その巨体を泥濘の中に盛大に横転させた。それに巻き込まれる形で後続の魔獣たちも次々と転倒し、コース上は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
だが、そんな後方の惨状など、今のイグニスにはどうでもよかった。彼女の視界にあるのは、どこまでも続くコースと、頬を撫でる冷たい風だけだ。
(痛くない……足が、背中が、息をするのが痛くない!)
イグニスは心の中で叫んでいた。これまで、走ることは激痛との戦いだった。無理やり走らされ、鞭で打たれ、血を流しながら走るのが彼女の「当たり前」だった。けれど今は違う。地面を蹴れば蹴るほど、自分の体が風に溶け込んでいくような錯覚を覚える。ノアが整えてくれたこの体は、どれだけ力を込めても決して悲鳴を上げない。ただ純粋に、もっと速く、もっと前へと彼女を導いてくれる。
(楽しい! 走るのが、こんなに楽しいなんて……)
彼女の口元に、無自覚な笑みが浮かんでいた。
観客たちは皆、言葉を失っていた。手元の馬券を握りしめることすら忘れ、ただ呆然と、泥だらけのコースを黒い流星のように駆け抜けていく少女の姿を、瞳に焼き付けている。
圧倒的──ただその一言に尽きた。
イグニスが最終コーナーを回ったとき、二番手との差はすでに絶望的な距離にまで広がっていた。誰も彼女に追いつけない。誰も彼女の背中すら見えない。
ゴールラインを示す赤い布が、イグニスの強烈な風圧によって引きちぎられるように宙に舞った。
完全なる大差の勝利。レコードタイムを大幅に更新する、伝説の幕開けだった。
「……ふぅっ、……はぁっ……!」
ゴールを駆け抜けた後、ゆっくりとスピードを落としたイグニスが、荒い息を吐きながら俺の元へと小走りで戻ってきた。その体は泥だらけで、黒い髪も肌も汚れていたが、彼女の金の瞳はかつてないほどにキラキラと輝いていた。
「ノア……! わたし、わたし……っ!」
「ああ、見てたぞ。最高の走りだった」
俺は用意していた清潔なタオルを広げ、飛び込んできた彼女の体をしっかりと受け止めた。ドクンドクンと、彼女の心臓が激しく脈打つ音が胸越しに伝わってくる。泥だらけになることなど気にも留めず、俺は彼女の頭を優しく撫でた。
「お前は誰よりも速かった。これで証明できたな。お前はただの気性の荒いバケモノなんかじゃない。世界で一番美しい、最高の魔獣だ」
俺の言葉に、イグニスは顔を真っ赤にしてタオルの下に顔を隠した。だが、彼女の背中の黒い尻尾が、ちぎれんばかりにパタパタと左右に揺れているのが見えた。
「……べ、別に。わたしが本気を出せば、こんな泥んこ遊びくらい当然だ。お前はただ、ちょっと走る場所を教えただけだぞ」
「ははっ、違いない。お前の実力だ」
素直になれないツンデレな態度は相変わらずだが、彼女が俺に向けている信頼は、確かに本物へと変わっていた。
しばらくして、運営から粗末な革袋に入った賞金が手渡された。金額としては大したことはないが、俺とイグニスが自分たちの力で勝ち取った、初めての資金だった。
「さて、これで少しマシな魔獣用のプロテインと、お前の大好きな甘いお菓子が買えるな。帰ってシャワーを浴びたら、またみっちりマッサージしてやるから覚悟しておけよ」
「マッサージ……っ! わ、わかった。ちゃんと受けてやる。その代わり、お菓子はいっぱい買ってこい!」
夕日が沈みかける帰り道。泥だらけの二人の足取りは、不思議なほど軽かった。
底辺からのスタート。だが、俺たちの目はすでに、王都の煌びやかなメインスタジアム……マギア・ダービーの頂点へとしっかりと向けられていた。




