第1話:最底辺の厩舎と初めての温もり
王都の喧騒から遠く離れた、外れのスラム街。そのさらに奥まった場所に、俺が間借りしている小さな厩舎があった。
冷たい雨はいつの間にか上がり、雲の隙間から夕暮れの赤い光が差し込んでいる。水たまりを避けながら歩く俺の後ろを、黒焔竜の少女・イグニスが一定の距離を保ってついてきていた。
首と手足の魔力拘束具を外したとはいえ、彼女の歩みは酷くぎこちない。長期間にわたって重い鉄塊を引きずっていたせいで、本来ならしなやかであるはずの筋肉が極度に硬直してしまっているのだ。それでも彼女は逃げ出そうとはせず、警戒心も露わに俺の背中を睨みつけながら、ゆっくりと歩を進めていた。
「着いたぞ。ここが今日からお前の家だ」
俺は古びた木造の扉を押し開けた。ギシギシと蝶番が軋む音を立てて、厩舎の中が夕日に照らし出される。
隙間風が吹き込む古い建物で、屋根にはツギハギの修理跡があり、お世辞にも立派とは言えない。勇者レオンが所有していた、大理石造りで床暖房まで完備された最新鋭の魔獣用施設と比べれば、まさに天と地ほどの差があった。
だが、イグニスは厩舎の中に足を踏み入れた瞬間、少しだけ目を丸くして鼻先を動かした。
「……血の匂いが、しない」
彼女の呟きに、俺は小さく頷いた。
「ああ。毎日隅々まで清掃して、藁わらも天日干しにしたものを取り替えているからな。魔獣にとって、清潔で乾燥した寝床は怪我を防ぐための絶対条件だ」
処理場や、悪質なレーシングクラブの地下牢では、排泄物や血の匂いが充満しているのが当たり前だったのだろう。イグニスは信じられないものを見るような目で、ふかふかに敷き詰められた黄金色の藁のベッドを見つめていた。
「とりあえず、そこに座って休んでくれ。すぐに飯の用意をする」
俺がそう言うと、彼女はまだ疑いを捨てきれない様子で、部屋の隅にある藁の山に背中を預けるようにしてしゃがみ込んだ。その姿勢ひとつをとっても、いつでも反撃に出られるように重心を残しているのがわかる。歴代の乗り手たちにどれほど酷い扱いを受けてきたのか、想像するだけで胸が痛んだ。
俺は厩舎の奥にある作業台に向かい、魔獣用の調理器具を引っ張り出した。一般的な調教師は、魔獣に生の魔物肉や、市販の固形飼料をそのまま与えることが多い。だが、それではレースを勝ち抜くための「馬体」ならぬ「竜体」を作ることはできない。
俺はまず、大鍋にたっぷりの湯を沸かした。そこへ、消化に優れたエンバクと、魔力回復を促す『マナリーフ』の粉末を投入してじっくりと煮込んでいく。さらに、火属性の竜種の体を内側から温めるために、微量の『火炎草フレイムウィード』をすりつぶして加えた。
グツグツと鍋が煮え立ち、甘く香ばしい匂いが厩舎の中に広がっていく。
藁のベッドに座っていたイグニスが、ピクッと黒い耳(角の横にある感覚器)を動かした。彼女の喉が、小さく鳴る。空腹の限界なのだろう。だが、彼女は決して自分から食べたいとは言わなかった。過去に、食事に薬物を混ぜられたり、食べようとしたところを殴られたりした経験があるのかもしれない。
「待たせたな。熱いから気をつけて食べてくれ」
俺は木製の大きなボウルに特製の栄養食をたっぷりとよそい、イグニスの前にそっと置いた。彼女はビクッと肩を震わせ、ボウルと俺の顔を交互に見比べた。
「……毒は、入ってないか? わたしを眠らせて、またあの痛い鉄の輪をつける気か?」
「そんなことは絶対にしない。これはお前の傷ついた魔力回路を修復するための、俺特製のブレンド飯だ。ほら、俺も一口食べるから」
俺はスプーンでボウルの中身をすくい、自分の口に入れた。人間にとっては少しクセのある味だが、食べられないことはない。俺が飲み込むのを確認すると、イグニスは恐る恐るボウルに顔を近づけた。
そして、一口。
その瞬間、彼女の金の瞳が大きく見開かれた。
「……あ、あったかい……」
そこからはあっという間だった。彼女は獣のようにボウルに顔を突っ込み、一心不乱に中身を平らげていく。火炎草の成分が冷え切った彼女の体を内側から温め、マナリーフの魔力が枯渇していた魔力回路に優しく浸透していくのが、俺の目にもはっきりと見えた。
「ゆっくりでいい。おかわりはまだたくさんあるからな」
「……ッ、……んッ!」
イグニスは無我夢中で食べ続け、あっという間に三杯のおかわりを平らげた。ふぅ、と大きく息を吐き出し、口の周りを手の甲で拭う彼女の表情は、先ほどまでの凶暴な「騎手殺し」の面影はなく、年相応のあどけない少女のものだった。
「お腹はいっぱいになったか?」
「……ん。……まずくは、なかった」
彼女なりの精一杯のデレなのだろう。プイッとそっぽを向きながらも、その黒い尻尾の先がパタパタと嬉しそうに揺れている。
「よし、じゃあ次は体のメンテナンスだ」
俺がそう言って立ち上がると、イグニスの体が再びビクッと硬直した。
「メンテナンス……? やはり、わたしを調教する気だな。鞭で打って、無理やり走らせる気か……ッ!」
彼女が再び牙を剥き、威嚇の姿勢をとる。俺は両手を広げて、武器を持っていないことを示しながら、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。
「鞭なんて使わない。俺がやるのは『真・育成』だ。お前の体が今どうなっているか、どこが痛むのか、俺には全部見えているんだ」
俺は固有スキル『魔獣眼』を発動させた。イグニスの体の表面に、半透明の筋肉図と魔力回路のマップが浮かび上がる。
「……ひどいな。特に後肢トモの筋肉の張りが異常だ。魔力拘束具スタンパの重さに耐えるために、大腿二頭筋から飛節にかけての筋繊維がガチガチに固まってる。これじゃあ、歩くのすら痛かったはずだ」
俺の言葉に、イグニスはハッとして目を見張った。
「な、なんで……わかるんだ……? わたしは、痛いなんて一言も……」
「テイマーを舐めるなよ。魔獣の体調を把握するのは基本中の基本だ。ちょっと触るぞ」
俺は彼女の細い足にそっと手を伸ばした。ビクンと彼女の体が震えたが、俺は構わず、もっとも筋肉が凝り固まっているふくらはぎの裏側に両手の親指を添えた。
「……『マッサージ・リリース』」
俺の手から、微弱で温かい魔力が放出される。それは攻撃でも束縛でもない。極限まで緊張した筋肉の繊維をほぐし、滞っていた血流と魔力の循環を正常に戻すための、俺だけの特殊なスキルだ。
「あ……ッ、や、やめ……」
イグニスが身をよじるが、痛みによるものではないことはわかっていた。長年蓄積された疲労物質が押し流され、強烈な快感が彼女の体を襲っているのだ。
「力抜いてろ。最初は少し痛気持ちいいくらいがちょうどいい」
俺は彼女のふくらはぎから太ももにかけて、丁寧に、そして力強く揉みほぐしていく。人間型の姿をしていても、その筋肉の構造は純血の黒焔竜そのものだ。恐るべき弾力と、鋼のような強靭さを秘めた筋肉。もしこれが完全にほぐれ、本来の柔軟性を取り戻せば、どれほどの爆発的な加速力を生み出すのか。調教師としての血が騒ぎ、俺の指先の動きはさらに滑らかになっていった。
「ひぅ……ッ、あ、あぁ……ッ……そこ、なんか、熱い……ッ」
イグニスの口から、甘い吐息が漏れる。彼女は抵抗を諦め、藁のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
俺は脚のケアを終えると、次は背中へと手を移動させた。背骨に沿って存在する太い魔力回路。そこが、長年の拘束具のせいで酷く目詰まりを起こしていた。
「ここもガチガチだな。呼吸を合わせろ、イグニス。一気に魔力の詰まりを抜くぞ」
俺は彼女の肩甲骨の間にある、魔力のツボに両掌を押し当てた。彼女の体内に残っていた黒く淀んだ痛みの残滓を、俺の魔力で中和しながら押し出していく。
「んんッ……! あぁぁ……ッ!」
イグニスが大きく背中を反らせた瞬間、彼女の体からパァン!と弾けるような音とともに、見えない重圧が吹き飛んだ。それは、彼女の魔力回路が完全に開通した証だった。
「……ふぅ。これで第一段階は終了だ。どうだ、体は軽いか?」
俺が額の汗を拭いながら尋ねると、イグニスはゆっくりと体を起こした。彼女は自分の手を開いたり閉じたりし、さらに軽く足踏みをして見せた。
「……ウソ、痛くない。足も、背中も、どこも痛くない……。こんなの、生まれて初めて……」
彼女の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、長年の苦痛から解放された安堵の涙だった。
俺はきれいなタオルを差し出し、彼女が涙を拭くのを静かに待った。
「ノア……お前は一体何者なんだ……? なぜ人間なのに……こんなにわたしのことがわかるんだ……?」
赤くなった目をこすりながら、イグニスが真っ直ぐに俺を見て尋ねた。
「俺はただの魔獣バカだよ。魔獣の筋肉と骨格を愛してやまない、しがないテイマーだ。前のパーティーじゃ、ただのお荷物持ち扱いされてクビになったけどな」
俺は自嘲気味に笑い、厩舎の窓から夜空を見上げた。
「イグニス、お前、走るのは好きか?」
唐突な質問に、彼女は少し戸惑いながらも小さく頷いた。
「……痛いのは嫌いだけど。風を切って、誰も追いつけないくらい速く走るのは……好き」
「なら、俺と一緒に走ろう」
俺は彼女に向き直り、真剣な声で告げた。
「お前は気性が荒い『騎手殺し』なんかじゃない。ただ、誰もあの極限のスピードに、そしてお前の抱えていた痛みに、ついてこられなかっただけだ」
イグニスが息を呑むのがわかった。
「明日から、マギア・ダービーの春のシーズンが本格的に始まる。俺を追い出したレオンたちは、金の力で集めた名馬たちでG1レースを総なめにする気だろう。だが、俺たちは違う」
俺は彼女の肩にポンと手を置いた。
「俺の知識と育成技術、そしてお前の圧倒的な才能。この二つが合わされば、あいつらの鼻を明かすことなんて造作もない。お前を痛めつけてきた奴ら全員に、お前の本当の力を見せつけてやろうぜ」
イグニスはしばらくの間、俺の目を見つめ返していた。その金の瞳から、怯えや疑いの色は完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、黒焔竜としての誇りと、抑えきれない闘志の炎だ。
「……ノア、お前がもし私を裏切って痛いことをしたら……その時は、絶対に噛み殺すからな」
「ああ、約束する。もし俺がお前を道具扱いしたら、いつでも喉笛を食い破ってくれて構わない」
俺が笑って答えると、イグニスも初めて小さく微笑んだ。
「……いいだろう。わたしはノアのために走るんじゃない。わたし自身が一番速いことを証明するために走ってやる」
これで契約は成立だ。互いの利害が一致しただけの、不器用なバディの誕生。
「よし、決まりだ。だが俺たちは今、実績ゼロ、資金もほぼゼロのどん底状態だ。いきなり華やかなレースには出られない」
「では、どうするのだ?」
「今週末、王都の郊外で開催される『未認定戦アンランク』に出場する。底辺中の底辺が集まる、泥まみれのダートレースだ。まずはそこで圧倒的な大差をつけて勝つ。話はそれからだ」
最強のポテンシャルを秘めた黒焔竜の少女と、追放された底辺調教師。俺たちの下剋上レースが、今ここから始まろうとしていた。




