プロローグ:役立たずの調教師と、殺処分寸前の竜少女
「ノア、お前は今日をもってパーティーをクビだ。今までご苦労だったな」
冷たい雨が打ち付けるギルドの裏路地。勇者レオンのその言葉に、俺は呆れとともにため息をついた。
「クビって……明日から始まる『マギア・ダービー』の春のG1シーズンはどうするんだ? 俺がいないと、魔獣たちのコンディション管理が……」
「はっ! 勘違いするなよ、ただの『荷物持ち』が」
レオンは嘲笑を浮かべ、腰の聖剣をポンポンと叩いた。
「俺たちが大金をはたいて買った魔獣『ホワイトペガサス』は、血統書付きの最高ランクだ。お前みたいな戦闘力ゼロの底辺テイマーがブラッシングしたところで、速さが変わるわけがないだろうが」
「あのペガサスは右前脚に疲労が溜まっている! 今度のレースで急加速の魔法を使えば、確実に腱が切れるぞ!」
「黙れ! 偉そうに専門用語を並べるな! 魔獣なんてのはな、回復魔法と鞭で叩いて走らせればいいんだよ。お前のような貧乏臭い男は、華やかなダービーには似合わない。とっとと失せろ!」
レオンは俺の胸に、はした金の入った革袋を投げつけた。それが、数年間彼らのパーティーで魔獣の世話をすべて引き受けてきた俺への「退職金」だった。他のパーティーメンバーたちも、俺を汚いものでも見るかのように鼻で笑い、レオンと共に去っていく。
残された俺は、雨に濡れた革袋を拾い上げた。
「……あいつら、本当に何も分かってない」
魔獣は機械じゃない。血統があり、個性があり、日々の育成の積み重ねが最後に勝敗を分けるのだ。だが、それを証明するためには、俺自身が強力な魔獣を育て上げ、レースで彼らを打ち負かすしかない。
俺は少ない退職金を握りしめ、王都の裏手にある「魔獣処理場」へと足を運んだ。表の華やかな競り市オークションで買えるような魔獣は、俺の資金では手が届かない。しかし、俺の固有スキル『魔獣眼』があれば、怪我や気性難で捨てられた「訳あり」の中から、必ず原石を見つけ出せるはずだ。
処理場は酷い悪臭と、絶望に満ちた獣たちの鳴き声で満ちていた。その最奥、薄暗い檻の前で、数人の屈強な男たちが長い槍を構えて怒声を発していた。
「クソッ! また暴れやがった! 殺せ! 魔法陣を展開しろ!」
檻の中では、重厚な魔力拘束具スタンパで手足と首を繋がれた、一人の少女が暴れ狂っていた。漆黒の角、そして背中から生えたドラゴンのような黒い尻尾。ボロボロの貫頭衣かんとういを纏まとったその姿は、魔獣が高度な魔力によって人型に変身した「人化じんか」の状態だった。
「グルルルルァァァッ!!」
彼女が吠えるたびに、凄まじい風圧が周囲を吹き飛ばす。その瞳は怒りと怯えで血走り、近づく者すべてを噛み殺そうとするかのような凶暴性を放っていた。
「あれは……」
俺は目を細め、固有スキル『魔獣眼』を発動させた。視界に、半透明のステータスボードが浮かび上がる。
【個体名】 未設定
【種族】 黒焔竜(絶滅危惧種・純血)
【脚質】 大逃げ(超極性)
【適性】 芝:S / 荒地:S / 火山灰:SS
【状態】 極度の人間不信 / 慢性的な激痛(原因:サイズの合わない魔力拘束具による魔力回路の圧迫)
【潜在能力】 測定不能(限界突破の可能性あり)
俺は息を呑んだ。信じられない。伝説の黒焔竜の純血種? しかも、すべてのコース適性が異常な数値を叩き出している。なぜこんな規格外のバケモノが、こんなスラムの処理場に?
「おい、あんたたち! 何をしてるんだ!」
俺は思わず男たちの前に飛び出していた。
「あぁ? なんだお前。危ねえからすっこんでろ! こいつは歴代の乗り手を五人も病院送りにした『騎手殺し』の狂暴種だ。手に負えねえから、今から心臓を串刺しにして処分するところだ!」
「待ってくれ! その魔獣、俺が買う!」
俺はレオンから投げつけられた革袋を、男の顔面に押し付けた。
「全部で金貨十枚だ! 処分する手間が省けた上に金が手に入るんだ、悪くないだろう!」
男は中身を確認すると、下卑げびた笑いを浮かべた。
「へっ、物好きな野郎だ。いいぜ、持って帰れ。ただし、喰い殺されても俺たちは知らねえからな!」
男たちが去った後、薄暗い檻の中で、俺と黒竜の少女は二人きりになった。彼女は壁際に背を向け、威嚇するように牙を剥いている。
「……ハァ、ハァ……近づくな、人間……殺す、お前も……殺す……ッ」
カタコトの言葉に、深い憎悪が混じっている。過去の持ち主たちに、力任せに支配され、痛めつけられてきたのだろう。
俺はゆっくりと両手を上げて、敵意がないことを示しながら近づいた。
「大丈夫だ。何もしない」
「嘘だッ! お前たち人間は、いつもそうだ! 痛いことばかりする!」
彼女が爪を立て、俺の肩口を鋭く切り裂いた。
鮮血が飛び散ったが、俺は一歩も引かなかった。自身の痛みよりも、彼女が抱えている痛みのほうが、どれだけ深いか『魔獣眼』を通して痛いほど伝わってきたからだ。
「痛かったよな。無理やり拘束具をつけられて、お前の魔力回路はずっと悲鳴を上げていた。気性が荒いんじゃない。お前はただ、ずっと耐えられないほどの『激痛』と戦っていただけなんだ」
少女の動きがピタリと止まった。
大きく見開かれた金の瞳が、信じられないものを見るように俺を見つめる。
俺はそっと手を伸ばし、彼女の首元にガッチリと食い込んでいる魔力拘束具の基部に触れた。
俺のもう一つのスキル『真・育成』。それは、対象の肉体と魔力の流れを完全に把握し、最適な状態へと導く神業だ。
「……解錠アンロック」
カチリ、という小さな音とともに、強固な呪縛の魔法陣が霧散し、重い拘束具が床に崩れ落ちた。手足の枷も次々と外していく。
「あ……」
少女の口から戸惑いの声が漏れた。長年彼女を苦しめていた激痛が消え去り、本来の温かい魔力が体中を巡り始めたのだ。
俺は膝をつき、彼女の目線に合わせて微笑んだ。
「俺の名前はノア。……お前の走る姿を見せてくれないか?」
少女は震える手で、自身の首元に触れた。痛みがない。そして、目の前にいる不思議な人間の男を見つめ返した。
「……わたしは、イグニス。すべてを焼き尽くす、黒焔の……イグニス」
それは、後にマギア・ダービーの歴史を塗り替え、すべての利権と名声を独占していた勇者レオンのすべてを奪い取ることになる「最強のバディ」が誕生した瞬間だった。




