第16話「天空の激流と純白の天馬」
「轟音」という生易しい言葉では到底表現しきれないほどの圧倒的な質量が、天から地へと叩きつけられていた。
魔境の樹海コースを抜け、ノアたちの眼前に姿を現した第一チェックポイント。それこそが、エルフの森の深央にそびえ立つ大自然の驚異、『天空の滝』である。
遥か雲を突き抜けるほど巨大な世界樹の枝葉から、尽きることのない清流が巨大な帯となって落下しているのだ。滝壺から巻き上がる水飛沫は分厚い雲海のように周囲を覆い尽くし、太陽の光を乱反射して幾重もの巨大な虹のアーチを空に架けている。
あまりにもスケールが違いすぎる絶景に、ノアは思わず息を呑んだ。だがここは観光名所などではない。世界最高峰のサバイバルレース、世界樹杯のコースそのものである。出場者たちは、この垂直にそびえ立つ絶壁と、毎秒何万トンという水量の激流を遡り、滝の頂上へと辿り着かなければならないのだ。
「すごい水しぶきだ! 前が全然見えねぇぞ!」
新たに覚醒した『黒焔の翼』を羽ばたかせ、宙に浮くイグニスが目を細めて叫んだ。彼女の周囲の水飛沫は、高熱を帯びた翼に触れた瞬間にジュワッと音を立てて蒸発していく。
「ルン、気流はどうだ!? シロが登れるルートはあるか!」
「キュ、キュイィ……ッ!」
ノアの肩にしがみつくルンが、風の魔力を探りながら首を横に振った。
滝が巻き起こす強烈な下降気流と、ランダムに吹き荒れる突風が入り乱れ、空の道は完全に荒れ狂っている。並の魔獣であれば、滝に近づくことすらできずに吹き飛ばされてしまうだろう。
だが、ノアの視線の先──凄まじい水量の滝のど真ん中に、異様な光景が広がっていた。
パキッ、ピキピキピキッ……!!
滝の激流が下から上へと向かって、まるで意思を持っているかのように急速に白銀の氷へと変貌していく。荒れ狂う水柱を強引に凍てつかせ、滑らかで巨大な氷の斜面を創り出しながら、優雅に駆け上がっていく一組の影があった。
「ユリウス……! グレイシア……!」
王立ダービーで死闘を演じた最大のライバル。氷の貴公子ユリウスと、銀氷狼グレイシアだ。彼らは大自然の猛威に逆らうことも、迎合することもしない。ただ己の圧倒的な魔力によって環境そのものを絶対管理下に置き、自分たちにとって最も走りやすい完璧なトラックへと作り変えていたのだ。
「相変わらずデタラメな魔力だぜ……! あの滝ごと全部凍らせちまうなんてよ!」
「感心している場合じゃない、イグニス! 俺たちも続くぞ! シロ、行けるか!?」
ノアの問いかけに、純白のペガサスであるシロは力強くブルルッ!と鼻息を鳴らし、前脚で大地を強く叩いた。彼は決して怯んでいなかった。むしろ目の前に立ちはだかる巨大な壁と、先を行く好敵手の姿に、魔獣としての本能を熱く滾らせているようだった。
「よし、行くぞ! ルン、風の淀みを突いてシロの足場をサポートしてくれ! イグニスは上空からの落下物に警戒だ!」
ノアの指示が飛ぶと同時に、チームは一丸となって天空の滝へと突撃した。
滝の側面、ごつごつとした岩肌と、ユリウスが残していった氷の足場が入り混じる過酷なルート。シロはその強靭な脚力と、ルンがピンポイントで生み出す風のクッションを巧みに利用し、垂直に近い絶壁を猛スピードで駆け上がっていく。
「いいぞシロ、その調子だ! このまま一気に頂上まで──」
ノアがそう叫んだ瞬間だった。
「そう簡単に行かせるかよぉ! ルーキー風情がァァッ!!」
滝の轟音を切り裂くような濁声と共に、ノアたちの頭上の岩陰から、凶悪な魔力の波動が放たれた。
見上げると、そこには巨大な毒蜘蛛の魔獣に騎乗した男と、岩石の鎧を纏ったゴーレムを操る大柄な男の姿があった。他国の代表として選出された、ベテランのトップテイマーたちだ。
「このレースはサバイバルだ。真っ当に速さを競う必要はねぇ。先頭を走る厄介な奴らをここで叩き落として、俺たちがチェックポイントをいただく!」
毒蜘蛛のテイマーが残忍な笑みを浮かべて杖を振り下ろす。直後、毒蜘蛛の口から紫色の猛毒の粘液が、滝の飛沫に混じって雨のように降り注いできた。さらに、ゴーレムのテイマーが岩肌を殴りつけ、車ほどの大きさがある巨大な岩石の雨をノアたちに向けて降らせる。
ただでさえ足場が不安定な絶壁での、容赦のない広範囲からの奇襲。彼らの狙いは明白だった。先頭集団であるユリウスとノアを、環境の悪さを利用してまとめて始末することだ。
「チィッ……! 卑怯なマネしやがって!!」
イグニスが激昂し、背中の黒焔の翼を大きく広げた。
「ノア、シロ! そのまま止まらずに進め! 上から来るゴミはわたしが全部燃やし尽くしてやる!」
イグニスは空中に留まり、降り注ぐ毒の雨と巨大な岩石群に向かって、両手から極大の黒焔を放った。圧倒的な熱量が空気を焦がし、毒液を瞬時に蒸発させ、岩石をドロドロの溶岩へと変えていく。彼女の炎は、ノアたちを守る絶対的な盾として機能していた。
だが、ベテランテイマーたちも世界樹杯に出場するだけの実力者だ。
「甘いな、竜の小娘! お前の炎で防ぎきれるのは物理だけだ!」
「なっ……!?」
ゴーレムが砕かれた岩石の中から、目に見えない無数の魔力の泥が這い出てきた。それは物理的な破壊力を持たない代わりに、魔獣の動きを極端に鈍らせる呪いの泥沼だった。
炎で焼き尽くすことができない呪いの泥は、滝の激流に乗って一気に斜面を流れ落ち、ノアとシロの足元へと迫る。
「しまった……! ノア、足元だ!!」
イグニスの警告の声が響くが、絶壁を全速力で駆け上がっているシロには、急激な進路変更を行う余裕はなかった。
「シロ、跳べッ!!」
ノアの叫びに合わせ、シロが力強く岩肌を蹴って宙へと跳躍する。しかし、滝の強烈な下降気流がシロの身体を容赦無く下へと叩き落としにかかる。さらに跳躍した先には、ユリウスが作り出した絶対管理の氷の斜面が待ち構えていた。
着地しても泥沼、氷の上に降りても滑落。完全に逃げ場を失ったシロは、空中で体勢を崩しかけた。
「……愚かな。自らバランスを崩すとはな」
遥か頭上から冷酷な声が降ってきた。ユリウスはグレイシアの背からノアたちの窮地を見下ろし、片眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた。
「私とグレイシアの歩む道に他者の入る隙などない。それが卑劣な罠であろうと、不器用な足掻きであろうとな」
『アブソリュート・ゼロ・ドメイン(氷結の絶対領域)』
ユリウスが指を鳴らした瞬間、迫り来る呪いの泥も、激流の滝も、そしてシロが着地しようとしていた空間の空気中の水分すらもが一瞬にして凍りつき、巨大な氷の槍となってシロの身体を串刺しにせんと隆起したのだ。
妨害を企んだテイマーたちの魔法ごと、ノアたちを完全に排除しようとする無慈悲な一撃が降ってくる。
絶体絶命の空中において、もはや通常の魔獣の身体能力で回避できる状況ではなかった。周囲の誰もが、ノアとシロが氷の刃に貫かれ、滝壺へと真っ逆さまに落下していく光景を予想した。
だが、ノアだけは決して諦めてはいなかった。いや、ノアだけではない。彼と魂の深い部分で繋がっている純白の天馬シロもまた、己の限界を越える時を静かに待っていたのだ。
「シロ! お前はただの馬じゃない! お前は空を駆ける天馬だ! 翼なんてなくたって、お前には誰よりも自由に空を蹴る力がある!!」
ノアは手綱から手を離し、シロの真っ白な首筋にしっかりと抱きついた。それはテイマーとしての命令ではなく、絶対的な信頼の証。それは、どんな絶望的な状況でも自分の魔獣の可能性を信じ抜く、ノアという人間の本質だった。
「ルン!! ありったけの風を、シロの足元へ!!」
「キュイィィィィィッ!!」
ルンが全身の毛を逆立て、小さな身体から持てる限りの魔力を爆発させた。発生した高密度の風の塊が、空中で体勢を崩していたシロの四肢の下へとピンポイントで送り込まれる。
「ブルルルォォォォォッ!!!」
シロが天を衝くような高らかな嘶きを上げた。次の瞬間、シロの蹄から、夜明けの光のような淡いオーロラの光が溢れ出した。
ガキンッ!!
シロは、隆起してきた巨大な氷の槍を回避しなかった。なんと、光り輝く蹄でその鋭い氷の切っ先を真正面から蹴り砕いたのだ。
「なに……!?」
ユリウスが初めて驚愕に目を見開いた。
シロの蹄から放たれるオーロラの光。それは、長きにわたり人間の手で改良され、地に縛り付けられてきたペガサスの血脈が、ノアの『真・育成』と絶対的な信頼によってついに完全に解放された証だった。
「行け! シロォォッ!!」
バツンッ! バツンッ! バツンッ!
空気を踏みしめる音。シロはもはや岩肌も氷の斜面も必要としていなかった。ルンが作り出す無数の小さな風の渦と、滝の激流から舞い上がる無数の水滴。その一つ一つを足場として蹴り飛ばし、何もない空中の軌道を、まるで平地であるかのように疾走し始めたのだ。
「ウソだろ……!? 空中を走ってるだと……!?」
妨害を仕掛けたテイマーたちが、信じられないものを見る目で絶句する。
「あははははっ! すっげぇ! さすがはシロだ!!」
上空で炎を放ち続けていたイグニスが、歓喜の声を上げて黒焔の翼を急降下させる。
「遅れるなよ、イグニス! このまま一気に頂上まで突き抜けるぞ!」
シロの覚醒により、ノアたちの機動力は完全に常識の次元を超えた。
右へ、左へ。重力という概念を置き去りにしたかのような変幻自在の天空のギャロップ。シロの蹄が空を蹴るたびに、美しいオーロラの波紋が空中に広がり、エルフの森の空を幻想的に彩っていく。
毒の雨も、岩石の雨も、氷の刃も、すべての悪意と障害を、シロはオーロラの軌跡を残しながら鮮やかにすり抜け、そして力強く踏み砕いていく。
「……規格外のイレギュラーめ。だがトップは譲らん!」
ユリウスもまた、グレイシアの魔力を限界まで引き上げ、絶対的な氷の道を猛スピードで駆け上がる。
天空の滝の頂上まで残りわずか数十メートル。巨大な氷の斜面を直線的に駆け上がる銀氷狼と、空中の水滴を蹴ってジグザグに飛翔する純白の天馬。二つの影は、轟音を立てる滝の中で完全に並び立った。
「ノアァァァッ!!」
「ユリウスゥゥッ!!」
バチィィッ!!
互いの魔力と意地が空中で激突し、凄まじい衝撃波が巻き起こる。
そして──
「「ッ……!!」」
滝の最上段。水流が始まるエルフの森の更なる高みへと、ノアとユリウスは、ほぼ同時にその足を踏み入れた。
背後では、ノアとユリウスの圧倒的な走破劇に戦意を喪失した妨害テイマーたちが、滝の途中で立ち往生しているのが見えた。
「……はぁ、はぁ……っ。やったな、シロ、ルン、イグニス……!」
滝を登り切り、安全な平地へと着地したノアは、荒い息を吐きながらシロの首筋を撫でた。シロも誇らしげに鼻を鳴らし、ルンは疲れたようにノアの肩へと倒れ込む。遅れて飛んできたイグニスも、「楽勝だったな!」と強がりながらも肩で息をしていた。
数メートル離れた場所では、ユリウスが氷の魔力を解き、静かにノアたちを見つめていた。
「私の『絶対管理』を、風と水滴を踏み台にして越えてくるとはな……。魔獣の血脈に眠る潜在能力。それが、君の言う『育成』の答えか」
「ああ、環境を支配するお前のやり方は完璧だ。だけど俺たちは、環境と共に強くなる。シロが見せてくれた空の道がその証明だ」
ノアが真っ直ぐに見返すと、ユリウスはふっと口角を上げ、片眼鏡を押し上げた。
「面白い。この世界樹杯、ただの消化試合にはならないようだ。だが、先頭の景色は常に私がいただく。行くぞ、グレイシア」
ユリウスはそれだけを言い残し、休む間もなく第ニステージへと続く深い森の奥へと消えていった。
「相変わらず可愛げのない奴だぜ。でも、ノア! わたしたちも負けてられないぞ!」
「ああ、第一チェックポイントは無事通過だ。シロの新しい力も覚醒したしな」
ノアは天空の滝の下に広がる壮大な景色を一度だけ振り返り、そして前を向いた。
世界樹杯はまだ始まったばかり。この先には、エルフの森のさらなる深部とまだ見ぬ強敵たちが彼らを待ち受けている。
だが、ノアの心に不安はなかった。最強の絆で結ばれた家族がいれば、どんな困難な道だって必ず切り拓いていけると確信していたからだ。
「よし、少し休んだら出発だ。世界一の頂まで駆け抜けるぞ!」




