第15話「幻惑の森と黒焔の飛翔」
「第一ステージ・魔境の樹海コース、スタートッ!!」
特使アルベルトの開始を告げる魔法の号砲が、エルフの森の空高くで炸裂した。耳を劈くような轟音と同時に、スタートラインに並んでいた各国の代表選手と魔獣たちが、一斉に大地を蹴り飛ばす。
「いっけええええええっ!!」
「シロ、ルン、イグニス! 俺たちも行くぞ!」
ノアの掛け声とともに、シロが力強い嘶きを上げて前脚を跳ね上げた。シロの背に跨るノア、その傍らを疾風のように駆け抜けるイグニス、そしてシロの頭上で風の軌道を読むルン。四位一体となった彼らのスタートダッシュは完璧だった。
地響きを立てて数百頭の魔獣がうっそうとした巨木群の隙間へと雪崩れ込んでいく。
ある者は巨大な猪の魔獣で木々を薙ぎ倒し、ある者は蜘蛛型の魔獣で枝から枝へと立体的に飛び移り、またある者は、ユリウスのように行く手の障害物をすべて魔法で凍てつかせながら直進していく。
世界最高峰の猛者たちによる規格外のサバイバルレース。開始数分で、周囲の景色はのどかな森から、生存を懸けた過酷な戦場へと変貌していた。
「ノア! 前から変な匂いのする風が吹いてくるぞ!」
並走するイグニスが、鼻をヒクヒクとさせながら鋭く叫んだ。彼女の視線の先、鬱蒼と茂る樹海の中腹から、乳白色の不気味な霧が津波のように押し寄せてくるのが見えた。
「あれがアルベルトの言っていた『幻惑の霧』か……! ルン、風で吹き飛ばせるか!?」
「キュ、キュイィィ……ッ!」
ルンが小さな身体を精一杯に伸ばし、強風の魔法を放つ。しかし、吹き荒れる風は乳白色の霧をほんのわずかに揺らしただけで、霧そのものを晴らすことはできなかった。それどころか、霧は意志を持っているかのようにルンの風を飲み込み、さらに濃度を増してノアたちにまとわりついてくる。
「くそっ、ただの霧じゃない! 魔力そのものが霧化しているんだ! シロ、ペースを落とせ! 視界が──」
ノアが手綱を引き絞ろうとしたその瞬間、世界が真っ白に染まった。上下左右の感覚すら曖昧になるほどの濃霧。隣を走っていたはずの他国の選手の姿も、足音すらも分厚い綿に包まれたかのように完全に消失してしまった。
「シロ!? ルン! どこだ!」
ノアはシロの背から降り、周囲を手探りで探した。だがそこにいるはずの純白のペガサスの姿も、肩に乗っていたはずの小さな狐の感触もない。テイマーと魔獣を繋ぐ微弱な魔力のパスすらも、この異常な霧の磁場によって完全に遮断されていた。
「ノア! どこだ、ノア!」
「イグニス! 俺はここだ!」
霧の奥から聞こえた焦燥に満ちた声に、ノアは力の限り叫び返した。
数秒後、真っ白な空間を強引に引き裂くようにして、真紅の瞳を持った竜の少女が飛び込んできた。彼女はノアの姿を認めるなり、弾かれたように抱きついてきた。
「よかった……! 急にノアの匂いも音も消えちまったから、どうしようかと……!」
「俺も焦った。だが、はぐれたのはシロとルンだけだ。お前がいてくれればなんとかなる」
ノアはイグニスの背中を軽く叩き、周囲を油断なく見回した。シロもルンも、浮遊群島での厳しい特訓を乗り越えた優秀な魔獣だ。少々のことではやられないという信頼はある。今はまず自分たちがこの霧を抜け、合流地点を探すことが先決だった。
だが、エルフの森は彼らに息つく暇すら与えなかった。
カサッ……、ズルルッ……。
視界の利かない霧の向こう側から、複数の這いずるような湿った足音が近づいてくる。一つや二つではない。四方八方から、ノアとイグニスを完全に包囲するように距離を詰めてきている。
「……来るぞ、イグニス。野生の魔獣だ」
「ああ、わかってる。この霧に紛れてコソコソと……気に食わねぇ連中だ!」
イグニスが両手に黒い炎を宿して戦闘態勢をとる。直後、霧を裂いて襲いかかってきたのは、体長三メートルを超える巨大なカマキリのような魔獣『霧裂き蟷螂』の群れだった。彼らの鎌は、森の魔力を吸って鋼鉄以上の硬度と鋭さを持っている。
「グルルァァァッ!!」
「遅ぇよッ!!」
イグニスは身を沈め、初撃の鎌を紙一重で回避すると、その懐に潜り込んで黒焔の拳を叩き込んだ。ドォォン! という重い爆発音とともに、一匹の蟷螂が霧の彼方へと吹き飛ぶ。
だが、イグニスの表情は険しかった。
「なんだこれ……! わたしの炎が、霧に触れた瞬間に勢いを殺されてる! 威力がいつもの半分も出ねぇ!」
「霧が魔力で構成されているから、炎の魔力を中和・拡散させているんだ。無駄撃ちは避けて確実に急所を狙え!」
ノアの的確な指示を受け、イグニスは炎の放出を抑え、肉弾戦中心の立ち回りに切り替えた。しかし、敵は霧を庭とする生粋のハンターたちだ。視界がゼロに近い状態での多角的な連続攻撃は、少しずつイグニスの体力を削っていく。
「チィッ……キリがねぇ! 燃やし尽くせないなら、全部ぶっ飛ばすまで──」
イグニスが大きく踏み込もうとしたその時だった。
グワンッ!!!
突如としてノアの三半規管が強烈に揺さぶられた。地面が足元から消え去り、強烈な吐き気とともに身体が宙に浮き上がる。
「な、なんだ!? 身体が……!」
ノアは咄嗟に近くの太い木の根にしがみついた。見るとイグニスの身体もふわりと宙に浮き上がり、そのまま空に向かってゆっくりと落ちていくではないか。
「ノ、ノアァッ!? なんだこれ、地面が……空が下にあるぞ!?」
「重力異常帯か……! アルベルトが言っていた罠だ! 空間の天地の概念が狂わされているんだ!」
ノアが必死に叫ぶ。
霧と重力異常。二つの古代魔法が組み合わさったこの空間は、まさに侵入者を確実に死に至らしめるための絶対的な処刑場だった。
ノアは木の根にしがみついてなんとか持ち堪えているが、踏ん張る地面を失ったイグニスは、完全に空中の無防備な的になってしまっていた。そして、重力異常の影響を受けない霧裂き蟷螂たちが、好機とばかりに空中のイグニスへと一斉に跳躍した。
「しまっ……! イグニス、避けろ!!」
「くそっ、空中で踏ん張りが利かねぇ……っ!」
迫り来る無数の凶刃──
炎を放とうにも、霧に阻まれて十分な威力を発揮できず、身を捩って避けるための足場もない。
絶体絶命の窮地──その時、ノアの脳裏に、浮遊群島でのルンとの特訓の光景が閃いた。空を駆ける風精狐。気流を読み、重力に逆らうのではなく、自然の力に身を委ねて空を泳ぐ姿。
「イグニス!! 逆らおうとするな! 風を思い出せ!」
「風を……!?」
「お前の炎は、ただ対象を焼き尽くすだけのものじゃない! 熱は上昇気流を生む! ルンが教えてくれただろ、空を飛ぶのは力じゃなくて、流れを創ることだって!!」
ノアの叫びが、霧の奥深くで戦うイグニスの心に真っ直ぐに届いた。
『ただ燃やすだけじゃない』
ノアと出会い、箱庭で過ごし、多くの仲間と触れ合う中で、彼女の炎はすでに破壊だけの象徴ではなくなっていた。仲間を温め、道を照らし、そして空を翔けるための力へと進化する可能性を秘めている。
イグニスは迫り来る蟷螂たちの刃から目を逸らさず、静かに目を閉じた。
(……風を読む。わたしの炎で、わたし自身の風を創り出す……!)
ドクンッ、イグニスの胸の奥で、黒焔竜の真核がかつてないほどの激しい鼓動を打った。彼女の背中に、凝縮された超高熱の黒い炎が集束していく。
「燃えろ、わたしの魂ッ!!」
カッ──!!
イグニスが真紅の瞳を見開いた瞬間、彼女の背中から爆発的な勢いで黒炎が噴き出した。それはただの炎の放射ではなかった。極限まで圧縮され、形を成した炎。現れたのは、闇夜を切り裂くような巨大で美しい『黒焔の翼』だった。
「おおおおおおおっ!!」
イグニスの背に生えた炎の翼が力強く羽ばたいた。その瞬間、翼から生じた圧倒的な熱量が局地的な上昇気流を発生させ、幻惑の霧の魔力を強引に吹き飛ばした。重力異常の空間の中で、彼女は落ちているのではない。自らの翼で飛んでいるのだ。
「ウソだろ……あいつら、空中で……!?」
霧裂き蟷螂たちが驚愕に動きを止めた隙を、イグニスは逃さなかった。炎の翼による規格外の推進力で空中の軌道を鋭角に変え、蟷螂たちの死角へと瞬時に回り込む。
「これで、終わりだッ!!」
空中からの急降下。重力異常と翼の推進力、そしてノアへの絶対的な信頼が乗った渾身の黒焔の踵落とし。強烈な一撃が蟷螂の群れの中心に炸裂し、その衝撃波と熱風が、周囲数十メートルにわたって立ち込めていた幻惑の霧を完全に晴らしてしまった。
「……やったな、イグニス」
「へへっ、見ただろノア! わたし、空を飛べたぞ!」
異常重力帯を抜け出し、ドスンと正しい地面に着地したイグニスは、背中の炎の翼を揺らしながら誇らしげに笑った。
「ブルルルルルッ!」
「キュイッ!」
霧が晴れたことで魔力のパスが繋がり、すぐさまシロとルンが駆け寄ってきた。ルンはイグニスの背中の炎の翼を見て目を丸くし、シロはノアの無事を確認して安堵の鼻息を鳴らした。
「よし、全員無事だな。……イグニス、その翼は?」
「んー、なんだかずっと出してると魔力を持っていかれるみたいだけど、ここぞって時には使えそうだ! これなら、どんな変な道だってひとっ飛びだぜ!」
イグニスの新たな力『黒焔の翼』
それは、自然を支配しようとするユリウスの魔法とは対極にある、環境に適応し、自身の可能性を拡張させる「育成」の賜物だった。
「頼もしい限りだ。よし、このまま一気に第一チェックポイントの『天空の滝』まで突っ走るぞ!」
ノアがシロに跨り、ルンが風のナビゲートを再開する。背中に黒焔の翼を輝かせるイグニスを先頭に、彼らは再びエルフの森の深部へと向かって猛スピードで駆け出した。
幻惑の霧も、重力異常も、もう彼らの前進を止めることはできない。道がないのなら空を翔けてでも道を創る。
遥か前方、木々の隙間から、巨大な滝の水飛沫が陽光を反射して輝いているのが見えた。しかしその手前には、すでに周囲の環境をすべて氷漬けにしながら進む、銀色の狼と氷の貴公子の姿があった。
「追いついたぞ、ユリウス……! ここからが本当の勝負だ!」
ノアの瞳に熱い闘志の炎が宿る。世界樹杯の第一ステージは、いよいよ最高潮の熱を帯びて激突の時を迎えようとしていた。




