第14話「エルフの森の洗礼と氷結の絶対領域」
「ここがエルフの森か……。信じられない魔力の密度だ」
ノアたちの眼前に広がっていたのは、樹齢数千年はあろうかという巨木群が空を完全に覆い尽くす、常闇に包まれた神秘の古代森林だった。幹の太さは十メートルを優に超え、地表には太い根が大蛇のようにうねり、まるで森全体がひとつの巨大な生き物であるかのように、ゆっくりと確実に脈動している。大気に満ちる濃密な魔力は、ただそこに立っているだけで肌がチリチリと粟立つほどの重圧を放っていた。
「うわぁ……! 木がでっかいぞ! それになんだか、森全体がもぞもぞ動いてるみたいだ!」
イグニスの真核を映す真紅の瞳が、物珍しそうに周囲を見回す。彼女の肩には、浮遊群島で新たに家族となった風精狐のルンがちょこんと乗り、耳をピンと立てて周囲の気流と魔力の揺らぎを敏感に感じ取っていた。ホワイトペガサスのシロも、見慣れない巨大な植物群に鼻を鳴らしながら、警戒するように地面を踏みしめている。
国際魔獣競技連盟からの特別招待状を受け取り、国境を越えてついに世界樹杯の開催地へと到着したノアたち。案内状に記された地図によれば、この森の入り口から少し進んだ先にある大広場が、各国の代表選手たちが集う受付会場になっているはずだった。
「よし、みんなはぐれないように気をつけて進むぞ。ルン、風の淀みがないか見張っててくれ」
「キュイッ!」
ノアが声をかけ、一歩を踏み出そうとしたその時だった。
ザッ、ザッ、ザッ……!
頭上の巨大な枝々から、風を切るような鋭い音と共にしなやかな影がいくつも降り立った。音もなく着地したのは、銀色に輝く流線型の軽鎧を身に纏った、尖った耳を持つ美しい種族──エルフの騎士たちだった。彼らは皆、身の丈ほどもある巨大な白鹿や、魔力を帯びた大山猫に騎乗しており、手には鋭い切っ先を持つ長槍や弓を構えている。
「止まれ、人間。そしてその背後に従える獣たちよ」
部隊の先頭に立つひと際豪奢な鎧を着た金髪のエルフが、冷ややかな声でノアたちをねめつけた。その瞳には、隠しきれない侮蔑と嫌悪の色が浮かんでいる。
「ここから先は、我らエルフが護りし神聖なる不可侵領域。貴様らのような下等な人間や、野蛮な魔獣が容易く足を踏み入れて良い場所ではない。直ちに立ち去れ」
その高慢な態度と刺々しい言葉に、イグニスがピクリと反応した。
「なんだと……!? わたしたちはちゃんと招待されてここに来たんだぞ! 誰が野蛮な魔獣だ、この耳長ヤロウ!」
「イグニス、落ち着け。喧嘩をしに来たわけじゃない」
ノアは今にも黒焔を吹き出しそうになっているイグニスの前にスッと立ちふさがり、彼女をなだめた。世界最高のレースに挑む前に、入り口でトラブルを起こして失格になっては元も子もない。
ノアは懐から、国際連盟の特使アルベルトから受け取ったエメラルドグリーンの招待状を取り出し、エルフの騎士に向かって掲げた。
「私たちは国際魔獣競技連盟の招待を受け、世界樹杯に出場するためにやって来ました。私はテイマーのノア、そして彼女たちが私の大切なパートナーです。ここを通していただけませんか」
しかし、金髪のエルフの騎士は招待状を一瞥しただけで、鼻で笑った。
「連盟の招待状だと? 愚かしい。人間たちが勝手に取り決めた紙切れ一枚で、この神聖な森の掟が覆るとでも思っているのか? 近年、連盟の要請でしぶしぶ世界樹杯の開催地として森の一部を開放してはいるが、我々エルフの騎士団は、出場者の『質』を見極める権利を有しているのだ」
エルフの騎士は長槍の石突きで地面をガンッと叩いた。
「魔獣を鎖で縛り、薬で操り、見世物にして喜ぶ人間たちの浅ましさは熟知している。貴様もどうせ、その獣たちを道具としか見ていないのだろう? そのような穢れた精神を持つ者に、生きた自然であるこの森を走る資格はない」
騎士の言葉には、確かな怒りが籠もっていた。それはかつて、ノアが身を置いていたようなブラックな魔獣ギルドが、長年にわたって自然や魔獣を搾取してきた歴史に対するエルフなりの正当な怒りでもあった。
「……確かに、人間の競技界にはあなた方が忌み嫌うような歴史がありました。魔獣を道具として扱い、壊れるまで走らせるような悲劇が」
ノアは静かに、だが決して怯むことなく言葉を紡いだ。
「ですが、私はそれを変えるためにここに来たんです。イグニスも、シロも、ルンも私の道具ではありません。共に笑い、共に走り、自らの意思で頂点を目指す『家族』です。私たちの走りが穢れているかどうか、どうかレースの本番で確かめてください」
ノアの真っ直ぐな瞳と、一切の淀みない言葉。そして、その後ろでノアを信頼しきった目で見つめるイグニスたちの姿に、エルフの騎士はわずかに目を細めた。彼らの間に、人間と魔獣という主従関係を超えた奇妙な絆の気配を感じ取ったからだ。
「……口先だけであれば、なんとでも言える。ならば、その証明を──」
エルフの騎士が言いかけたその瞬間だった。
ピキッ……、ピキピキピキッ……!!
突如として、鬱蒼とした森の空気が急激に冷え込んだ。熱帯のように湿気を帯びていた空間が、瞬く間に凍てつくような冬の空気へと変貌する。吐く息が真っ白に染まり、ノアたちの頭上から、季節外れの美しい細雪が舞い落ちてきた。
「なんだ……!? 森の気温があり得ない速度で下がっていく……!」
エルフの騎士たちが動揺し、騎乗している白鹿たちが怯えたように後ずさる。その異常な冷気の中心から、静かだが絶対的な威圧感を伴った足音が近づいてきた。
「相変わらず無駄な熱と感情を帯びているな、ノア殿」
雪煙を割って現れたのは、王立ダービーで死闘を演じた最大のライバル──ユリウス公爵と、彼の相棒である銀氷狼のグレイシアだった。
「ユリウス……! お前ももう到着していたのか」
「グルルルゥ……!」
ユリウスの傍らに立つグレイシアは、王立ダービーの時よりもさらに一回り巨大化し、その銀色の毛並みには冷気を圧縮した魔力の結晶が鎧のように纏い付いていた。彼が静かに息を吐くたびに、空気中の水分が凍りつき、ダイヤモンドダストとなってキラキラと輝きながら舞い散っている。
「どういうつもりだ、人間! この森で勝手に魔法を行使することは禁じられているぞ!」
エルフの騎士が怒号を上げ、長槍をユリウスへと向けた。だが、ユリウスは右目の片眼鏡を中指で優雅に押し上げると、エルフたちを一瞥することすらなく、ただ冷淡に言い放った。
「禁じられている? 誤解をしないでいただきたい。私は魔法で森を攻撃しているわけではない。ただ、私のグレイシアが歩む道に、不完全な自然という『ノイズ』が存在することを許していないだけだ」
ズズズズズッ……!!
ユリウスの言葉と同時に、森の奥から不気味な地鳴りが響いた。見ると、ノアたちの行く手を阻むように、巨大な樹木の根が何十本も土を突き破り、意思を持った大蛇のようにのたうち回りながら迫ってきていた。それはエルフの森が持つ防衛本能であり、強大な魔力を持つ侵入者を排除しようとする自然の驚異そのものだった。
「危ないっ! イグニス、下がれ!」
ノアが叫んだ瞬間、ユリウスが静かに指を鳴らした。
「アブソリュート・ゼロ・ドメイン(氷結の絶対領域)」
グレイシアが天に向かって遠吠えを上げた瞬間、世界から音が消え去った。
グレイシアの足元から放たれた極低温の波動が、迫り来る何十本もの巨大な根、蠢く蔓草、そして周囲の泥濘に至るまで、森のすべてを一瞬にして白銀の氷へと変えてしまったのだ。意思を持って襲いかかってきた自然の脅威が、まるで時間を止められたかのように、精緻な氷の彫刻となって完全に静止している。
「なっ……!?」
ノアは息を呑んだ。エルフの森の巨木群は、ただの植物ではない。膨大な魔力を内包し、魔法攻撃に対する強烈な耐性を持っているはずだ。それを、ただの一撃で、広範囲にわたって完全に凍結させるなど、常軌を逸した出力と精密な魔力コントロールの賜物だった。
「バカな……。我らが神聖なる森の息吹が、一瞬で封じ込められただと……!?」
エルフの騎士たちも、その圧倒的な力を見せつけられ、驚愕のあまり言葉を失っていた。
「私の『絶対管理』は、もはや魔獣の肉体だけにとどまらない。この予測不可能な生きた大自然すらも、完璧な計算のもとに完全に制圧して最適化する」
ユリウスは凍りついた巨木の根の上を滑るように静かに歩き出し、ノアの目の前で立ち止まった。
「世界樹杯……。コースが常に変化し、環境そのものが牙を剥く史上最悪のレースだと聞く。だが私とグレイシアの前では、環境の変化など無意味だ。すべてを凍てつかせ、完璧で平坦な氷のトラックへと作り変えてやる」
ユリウスの青い瞳が、ノアを、そしてイグニスを真っ直ぐに射抜く。
「君たちは、浮遊群島で環境に適応し、風に乗るための特訓をしてきたようだな。だが自然に迎合するだけの走りで、この絶対的な氷の支配を越えることができるかな」
「……調べていたのか、俺たちの特訓を」
「当然だ。君は私に土をつけた唯一の男なのだからな。常に君の動向はチェックさせてもらっている」
ユリウスはふっと口角を上げると、エルフの騎士たちに向き直った。
「さて、森の守護者殿。これで我々が世界樹杯に出場する『質』を満たしていることの証明にはなったかな? これ以上無駄な時間を過ごすつもりはないのだが」
エルフの騎士は歯軋りしながらも、圧倒的な実力差を見せつけられ、それ以上道を塞ぐことはできなかった。彼らは無言で槍を引き、馬首を巡らせて森の奥へと姿を消していった。
「行くぞ、グレイシア。ベースキャンプで最高の調整を行う」
「ウォォン……」
ユリウスたちもまた、自らが作り出した氷の道を悠然と歩き去っていく。その後ろ姿を見送りながら、ノアの背中には冷たい汗が伝っていた。
(自然を攻略するんじゃない。自然そのものを自分の支配下に置く魔法……。あれがユリウスの新しい力か)
浮遊群島での特訓で、ルンから「風を読み、自然に身を任せる」という術を学んできたノアたちにとって、ユリウスの「自然を力で捻じ伏せる」というスタイルは、まさに真逆にして最大の脅威だった。
「……すごい冷気だったな。でも負けないぞ」
イグニスが、凍りついた森の木々を睨みつけながら、小さな拳をギュッと握りしめた。シロもルンも、ユリウスの圧倒的な力に怯むことなく、確かな闘志を宿してノアを見上げている。
「ああ。ユリウスの計算は完璧かもしれない。だけど、生きている自然を無理やり押さえつけるやり方には、必ずどこかに歪みが生じるはずだ」
ノアはイグニスの頭を優しく撫で、凍てついた空気の中で力強く微笑んだ。
「俺たちが自然と共に走る楽しさを教えてやろう。どっちが本当に速いか、世界最高の舞台で証明してやろうぜ」
「おうっ! どんな氷だろうが、わたしの炎とルンの風で全部溶かしてぶっちぎってやる!」
ノアたちは氷の道を避け、息づく森の土をしっかりと踏みしめながら、世界樹杯のベースキャンプへと歩みを進めた。
森の奥深く、視界が開けた先に現れたのは、天を衝くほどの巨大な大樹『世界樹』の根元に築かれた壮大なテント群だった。
すでに各国の代表に選ばれたトップテイマーたちと、見たこともないような屈強で異形の魔獣たちが集結し、会場は異様な熱気と緊張感に包まれていた。
会場の中央に設置された巨大な魔力スクリーンの前に一人の男が立っていた。ノアたちに招待状を届けた、国際連盟の特使アルベルトだ。
「皆様、長旅ご苦労様でした。ようこそ世界樹杯へ。これより本大会第一ステージのルールを発表いたします」
アルベルトのよく通る声が響き渡ると、騒がしかったベースキャンプが一瞬にして静まり返った。
「第一ステージの舞台は、このエルフの森を縦断する『魔境の樹海コース』。距離はおよそ百キロ。ですがこれはただの耐久レースではありません」
スクリーンに複雑に入り組んだ森の立体マップが映し出された。
「森の中には、古代エルフの魔法によって『幻惑の霧』と『重力異常帯』がランダムで発生します。視界を奪われ、上下の感覚すら失われる中で、いかに早く正確に森を抜けて第一チェックポイントである『天空の滝』へと辿り着けるか。己の魔獣との絶対的な信頼関係と、咄嗟の判断力が試されます」
アルベルトは片眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「さらに、森には野生の凶悪な魔獣たちも生息しています。彼らへの対処を誤れば、命の保証はありません。リタイアは自由ですが、助けが来るまでに時間がかかることを覚悟してください」
百キロの悪路。幻覚、重力異常、そして野生の魔獣の襲撃。まさに世界最高峰のサバイバルレースにふさわしい狂気じみた難易度だった。
「……面白くなってきたじゃないか。なあ、ノア!」
イグニスの真紅の瞳が、かつてないほどの歓喜と闘志で爛々と輝いていた。ノアは小さく息を吐き、口角を上げて頷いた。
「ああ。最高の舞台だ。シロ、ルン、イグニス。俺たちの『真・育成』の力、世界に見せつけてやろうぜ!」
翌朝のスタートに向け、ベースキャンプの夜は静かに更けていく。
氷の絶対王者、各国から集った猛者たち、そして生きた大自然。すべての壁を越えるため、ノアとイグニスたちの究極のレースが、ついに火蓋を切ろうとしていた。




