第13話「空飛ぶ特訓と新たな家族」
「……なるほど。こいつは想像以上に厄介だな」
国際魔獣競技連盟の特使アルベルトから招待状を受け取った日の夜。
王都の郊外にある箱庭の母屋で、ノアはランプの灯りを頼りに、分厚い羊皮紙の資料と睨み合っていた。テーブルの上には、世界樹杯の開催地である『エルフの森』に関する文献や、過去のレースの記録映像を映し出す魔法石が散乱している。
資料を読み込めば読み込むほど、ノアの表情は険しさを増していった。
エルフの森──それは人間界の常識が一切通用しない、文字通りの『生きた自然』だ。整備された平坦なトラックなど、そこには一ミリたりとも存在しない。コースを塞ぐように突然うねり出す大樹の根、意思を持っているかのように絡みついてくる巨大な蔓草、そして足を踏み入れた瞬間に底なし沼へと変貌する泥濘。さらには、森に満ちる濃密な魔力が気まぐれに乱気流を生み出し、空を飛ぶことすら容易ではないという。
「平らな地面を速く走るだけの技術じゃ、一瞬で森に飲み込まれる。三次元的な動きと、不安定な足場を瞬時に見極める圧倒的なバランス感覚が必須になるな」
ノアが腕を組んで思案していると、背後から「ムッ」という不満げな声が聞こえた。
「なんだよノア、そんなに難しい顔をして。泥沼だろうが動く木だろうが、全部わたしの炎で焼き払って一直線に進めばいいじゃないか!」
いつの間にかベッドから抜け出してきたイグニスが、ノアの背中に張り付きながら資料を覗き込んでいた。黒い尻尾がパタパタと揺れ、真紅の瞳が魔法石の映像に映る鬱蒼とした森を見つめている。
「それは反則負けになるぞ。あくまでコースとして設定された自然を攻略して駆け抜けるのがルールのレースだ。環境を破壊したら即失格だ」
「ええーっ! めんどくさいなぁ……。じゃあどうやって走るんだ?」
「だから特訓環境を変える。今の箱庭に作った泥沼コースや丸太の障害物じゃ、エルフの森の生きた悪路の再現には限界があるからな」
ノアは地図を広げ、王都から北西に大きく離れた山岳地帯の一角を指差した。
「エルフの森と同等か、それ以上に足場が悪くて、三次元的な動きを強制される場所……。明日からここに行くぞ」
ノアが指し示した場所の名前を見て、イグニスは目を丸くした。
「風鳴りの浮遊群島……? 浮遊って、空に浮いてるのか?」
「ああ。過去の巨大な魔力変動で、大小様々な岩山が重力を無視して空中に浮かんでいる危険地帯だ。常に乱気流が吹き荒れていて、足場となる岩と岩の間を飛び移りながら進まなきゃならない。ここで空中の姿勢制御と、着地する瞬間の足場の見極めを叩き込む」
「おおーっ! なんだか面白そうだな! 空飛ぶ特訓かー」
イグニスは不安がるどころか、むしろ新しい遊びを見つけた子供のように目を輝かせた。どんな困難な状況でも、走ることに楽しさを見出せる彼女のこの純粋さこそが、ノアにとっては何よりの武器だった。
「よし。そうと決まれば明日は早起きだ。シロにも手伝ってもらうからな」
翌朝──
ノアとイグニスは、ホワイトペガサスのシロの背に乗り、王都の空を北西に向かって飛んでいた。
「ヒヒーンッ!」
痛めていた脚が完治したシロの飛行能力は凄まじく、力強い純白の翼が羽ばたくたびに、雲を切り裂いてぐんぐんと加速していく。風を切り裂く心地よい感覚に、イグニスはシロの鬣にしがみつきながら「あははっ! 速い速い!」と歓声を上げていた。
やがて、眼下に険しい山脈が見えてくると、その上空に信じられない光景が広がった。
重力を忘れて空中に点在する無数の巨大な岩塊。苔や植物に覆われた岩の島々が、目に見えない魔力のうねりに乗って、ゆっくりと上下左右に漂っている。島と島の間にはゴォォォと唸りを上げるほどの乱気流が渦巻いており、普通の鳥であれば一瞬で墜落してしまうほどの荒れ狂った空域だった。
「ここが風鳴りの浮遊群島だ。シロ、あの比較的平らな岩山に降ろしてくれ」
ノアの指示を受け、シロは乱気流を巧みに躱しながら、浮遊群島の入り口にあたる岩山にふわりと着地した。
「うわぁ……本当に岩が空に浮いてるぞ! しかもグラグラ動いてる!」
イグニスが岩山の縁から下を覗き込むと、遥か下方に深い谷底が見えた。落ちればただでは済まない高さだ。
「よし、イグニス。まずはこの岩山から、向こうの小さな岩山に向かって飛び移ってみろ。ただし、翼を使って飛ぶのは禁止だ。自分の脚のバネと、着地のバランスだけで渡るんだ」
「翼なしでか? 楽勝だぜ! 見てろよ!」
イグニスは自信満々に助走をつけると、岩山の縁を力強く蹴り上げた。人間離れした黒焔竜の脚力により、彼女の体は砲弾のように空中に射出される。見事な放物線を描き、十メートル以上離れた隣の岩山へと向かっていく。
だが、空中の岩山は固定されていない。イグニスが着地しようとした瞬間、下から吹き上げた強風が岩山を大きく揺らし、着地地点がズレたのだ。
「えっ!? うわわわっ!」
足場を失ったイグニスは空中で無様に手足をバタつかせ、岩の側面に激突してずり落ちそうになった。間一髪で岩の出っ張りにしがみつき、宙吊りになる。
「いっててて……! なんだよこれ、岩が勝手に動くなんてズルいぞ!」
「エルフの森はもっと理不尽に動くぞ! 着地する直前まで足場を信じるな! 空中で風の流れを読んで、炎の推進力で姿勢を微調整するんだ!」
ノアの厳しい檄が飛ぶ。
王立ダービーでは圧倒的な身体能力のゴリ押しで勝利をもぎ取ったイグニスだったが、環境そのものが牙を剥く大自然の中では、ただ速いだけでは通用しない。
「くっそー! もう一回だ!」
イグニスは岩山をよじ登ると、再び別の岩山に向かって跳躍した。今度は空中で風の向きを読み、着地の瞬間に足の裏からごく僅かな黒焔を噴射して軌道を修正する。ドンッという衝撃と共に、今度は見事に岩山の中心に着地してみせた。
「やった! できたぞ、ノア!」
「その調子だ! 次はもっと間隔が広くて、小さく動く岩を狙え!」
それから数時間──イグニスは何度もバランスを崩しては岩にしがみつき、泥だらけになりながらも、驚異的な適応力で次々と空中ステップのコツを掴んでいった。シロもまた、ノアを背に乗せたまま小さな足場にピンポイントで着地する訓練を繰り返し、空間認識能力を極限まで高めていく。
「はぁ……はぁ……! どうだ、ノア! もうどんなに動く岩でも落っこちないぞ!」
全身汗だくになったイグニスが、空中に浮かぶ一本の丸太ほどの細い岩の上に片足で立ち、得意げにピースサインを作った。
「ああ、素晴らしい吸収力だ。だが、エルフの森の自然は『意思』を持って襲ってくる。ただ動くだけじゃない、タイミングを合わせて邪魔をしてくるんだ」
ノアが水筒を投げ渡し、休憩の指示を出そうとしたその時だった。
「キュイィィィィッ……!!」
突如、激しい乱気流の風切り音に混じって、鋭くも悲痛な獣の鳴き声がノアの耳に届いた。
「ノア! 今の鳴き声……!」
「ああ、間違いない。魔獣の悲鳴だ!」
ノアとイグニス、そしてシロは顔を見合わせ、鳴き声のした方角──群島のもっと奥深くにある巨大な岩山が密集しているエリアへと急行した。
岩から岩へと素早く飛び移り、声の発生源にたどり着いたノアたちの目に飛び込んできたのは、目を疑うような光景だった。
空中に浮かぶ大きな岩山の中心。そこに、太い魔力の鎖で作られた『捕獲用のトラップ』が設置されていた。そして、その冷たい鎖に足を挟まれ、血を流しながらも必死にもがいている小さな魔獣の姿があったのだ。
体長は中型の犬ほど。エメラルドグリーンの美しい毛並みを持ち、背中には小さな風の渦を纏っている。最大の特徴は、根元から二股に分かれたフサフサの尻尾だ。
「あれは……『シルフィード・フォックス(風精狐)』! しかもまだ子供じゃないか!」
ノアは驚愕した。風精狐は、風と気流を操る非常に希少な魔獣だ。警戒心が強く、人間には決して懐かないことで知られている。
そして何よりもノアを激怒させたのは、トラップの形状だった。
魔獣の脚の骨をわざと砕き、逃げられないように痛めつける悪辣な構造。それは、かつてノアが下働きをしていた魔獣ギルドの裏の人間たちが、希少な魔獣を密猟する際によく使っていた非人道的な罠そのものだったからだ。
「こんな場所まで密猟者が入り込んでるのか……!」
ノアが罠を解除しようと駆け寄った瞬間、岩山の影から三人の薄汚れた男たちが姿を現した。手には魔力を帯びたスタンロッドや、捕獲用の網を構えている。
「チッ、なんだテメェら! そいつは俺たちが三日三晩かけてようやく追い詰めた獲物だぞ! すっこんでろ!」
リーダー格の男が下品に笑いながらノアを威嚇する。
「風精狐の毛皮と魔石は、裏市場でとんでもねぇ高値で売れるんだ。特に生きたまま苦しめて魔力を暴走させた方が、石の純度が上がるんだよなぁ!」
その言葉を聞いた瞬間、ノアの脳裏にかつての暗い記憶──薄暗い地下室で、マギア・ダービーの利益のためにボロボロにされていく魔獣たちの姿がフラッシュバックした。
ノアの瞳から一切の温度が消え去った。
「……テメェらみたいな外道がいるから、魔獣競技はいつまでたっても見世物の域を出ないんだ」
地を這うようなノアの冷たい声に、男たちは一瞬たじろいだ。だが、それ以上に激しい怒りを爆発させた者がいた。
「ふざけんなぁぁぁっ!!」
ゴォォォォォォォォッ!!!
イグニスの全身から、怒りに呼応して凄まじい黒焔が噴き上がった。
かつて自分自身が勇者レオンによって薬漬けにされ、痛みと恐怖の中で酷使された記憶。魔獣を単なる道具として、あるいは金儲けの手段としてしか見ない人間たちへの根源的な怒り。
「お前らみたいなクズは……わたしが全部灰にしてやる!!」
「ひっ!? な、なんだこのガキ! 火が……!」
イグニスが地面を蹴った。その速度は、先ほどまでの特訓の成果もあり、乱気流の吹く岩山の上とは思えないほどに滑らか且つ圧倒的だった。男たちがスタンロッドを構える暇すら与えず、イグニスは一瞬で三人の懐に飛び込んだ。
「吹き飛べぇっ!!」
黒焔を纏った回し蹴りが、男たちの身体を順番に捉える。直接炎で焼き殺すことはせず、しかし骨の数本は確実にへし折る絶妙な力加減。三人の密猟者たちは悲鳴を上げる間もなく衝撃で空中へと蹴り飛ばされ、他の岩山へと無様に叩きつけられて完全に気絶した。
「……ハァ、ハァ……! ざまぁみろ!」
イグニスが息を荒らげている間に、ノアは急いで風精狐の子供のもとへ駆け寄った。
「大丈夫か? 今、外してやるからな」
「キュゥゥ……カハッ……」
罠に挟まれた前脚からはかなりの血が流れており、風精狐は痛みに震えながらも、ノアに対して牙を剥いて威嚇しようとした。人間に対する激しい不信感が、その瞳に宿っている。
「怖がらなくていい。俺はお前を傷つけない。……『ヒール』」
ノアはゆっくりと手を伸ばし、罠の魔力機構を物理的に叩き壊すと、風精狐の傷口に優しく手を当てて回復魔法を流し込んだ。温かく、心地よい魔力の光が傷を包み込み、折れていた骨と引き裂かれた肉がみるみるうちに塞がっていく。
「キュ……?」
痛みが引いたことに驚いたのか、風精狐は威嚇をやめて不思議そうにノアを見上げた。そこへ、怒りを鎮めたイグニスと、心配そうに歩み寄ってきたシロが顔を覗き込む。
「ノア、こいつ大丈夫か? すごく怯えてるぞ」
「ヒンッ、ブルルッ」
シロが安心させるように風精狐の頬を優しく舐めた。魔獣同士の波長が通じ合ったのか、風精狐はピンと張っていた緊張の糸を解き、ノアの腕の中でへたり込むように丸くなった。
「よし、もう大丈夫だ。傷は完全に塞がった。驚かせてごめんな。もう逃げていいぞ」
ノアは風精狐をそっと地面に下ろし、離れるように促した。希少な野生の魔獣は、自然の中で生きるのが一番だと考えていたからだ。
だが、風精狐はその場から動こうとせず、エメラルドグリーンの瞳でノアとイグニスをじっと見つめていた。そして、二股の尻尾をパタパタと揺らすと、トテトテとイグニスに近づき、その足元にすりんと頭を擦り付けた。
「おっ? なんだお前、わたしに懐いたのか?」
「キュイッ!」
風精狐は嬉しそうに鳴くと、今度はフワリと宙に浮き上がり、空中に見えない足場を作り出して器用にステップを踏んでみせた。それはまるで、「自分も空を飛ぶ特訓に混ぜてほしい」と言っているかのような無邪気なアピールだった。
「……そうか。お前、この浮遊群島でずっと気流を読んで生きてきたんだな。だからこんなに空中の動きが滑らかなんだ」
ノアは風精狐の洗練された動きを見てハッと気づいた。乱気流が吹き荒れ、足場が常に変動するこの環境は、世界樹杯の会場であるエルフの森の『生きた自然』と極めて似ている。そしてこの風精狐は、そんな理不尽な環境を完全に手玉に取り、自然と調和して生きるスペシャリストなのだ。
「イグニス、どうやら最高の先生が来てくれたみたいだぞ」
「先生? こいつが?」
「ああ。こいつの空中ステップと風の読み方を真似れば、エルフの森の悪路なんて簡単に攻略できるはずだ」
ノアがそう言うと、風精狐は胸を張るように「キュイッ!」と鳴き、イグニスの周りをくるくると飛び回った。
「あははっ! くすぐったいぞ! よーし、お前、今日からわたしたちの家族だな! 名前は……そうだな、風みたいにフワフワしてるから『ルン』だ!」
「キュルンッ!」
ルンと名付けられた風精狐は、自分の新しい名前が気に入ったのか、嬉しそうに宙返りをした。シロも歓迎の嘶きを上げ、ノアはそんな三匹の姿を細めた目で見つめた。
「よし、ルン。お前も箱庭の家族だ。これから一緒に、世界一を目指す特訓に付き合ってくれ!」
それからの特訓は劇的な変化を遂げた。ルンが先導して見えない風の道標を作り、その動きをイグニスとシロが追従する。ルンの動きは、自然に逆らうのではなく、風のうねりや動く岩の軌道に身を任せながら、最小限の力で最速のルートを見つけ出すというものだった。
「なるほど! 踏ん張るんじゃなくて、風に乗っかればいいのか!」
イグニスは持ち前のセンスでルンの動きをあっという間に吸収し、黒焔の推進力を『逆らう力』ではなく『乗る力』へとシフトさせていった。荒れ狂う乱気流の中を、黒い流星と白いペガサス、そしてエメラルドグリーンの小さな影が、まるで一本の糸で繋がっているかのように美しく駆け抜けていく。
夕暮れ時──
オレンジ色に染まった浮遊群島の空の下で、ノアたちは汗だくになりながらも充実した表情で岩山の上に座り込んでいた。
「ハァ……ハァ……! すごいぞルン! お前のおかげで、空を飛ぶのがもっと楽しくなった!」
イグニスがルンの喉元を撫でると、ルンは気持ちよさそうに「キュウゥ……」と目を細めた。
ノアは水筒の水を飲みながら、果てしなく広がる空の彼方──エルフの森があるであろう方角を見つめた。
「空飛ぶ特訓と、ルンという最高のガイド。これで三次元の悪路を攻略する目処は立った。あとは、あの氷の天才……ユリウス公爵とグレイシアが、どんな進化を遂げてくるかだな」
ノアの言葉に、イグニスは真紅の瞳に闘志の炎をメラッと燃やした。
「ユリウスだろうが動く森だろうが関係ない! ルンもシロも、そしてノアも一緒だ。わたしたち箱庭の家族が揃えば無敵なんだ!」
イグニスは立ち上がり、夕日に向かって高々と拳を突き上げた。
「世界樹杯のどんなコースだって、絶対にぶっちぎってやるからな!!」
「キュイーーッ!」
「ヒヒーンッ!」
その力強い宣言に、ルンとシロも呼応するように声を上げた。
魔獣ギルドの薄暗い底辺から這い上がったノアと、傷ついた過去を持つ魔獣たち。新たな家族を迎え、絆を深めた彼らの『真・育成』は、いよいよ世界という巨大な壁へと挑む準備を整えつつあった。




