第12話「過去の記憶と新たなる世界」
王都の郊外に佇む、手作りの小さな厩舎──
箱庭と名付けられたその場所の朝は、いつだって騒がしく、そして温かい。
「ノア! 朝だぞ! 早く起きてご飯にしよう!」
木製の扉が勢いよく開き、元気な声と共に黒い尻尾がバシバシとベッドを叩く。
心地よい微睡みの中にいたノアは、毛布を被ったまま小さくため息をつき、ゆっくりと身を起こした。視線の先には、昨夜のG1制覇の熱狂から一晩明けても全く疲れを見せない、黒焔竜の人化魔獣イグニス・フレアが目を輝かせて立っていた。
「……おはよう、イグニス。朝から元気だな」
ノアが目をこすりながら微笑むと、イグニスは当然だと胸を張った。
「昨日あれだけ皇帝竜のお肉を食べたのに、もうお腹がペコペコなんだ! シロも外で待ってるぞ!」
彼女の言葉通り、窓の外からは、ホワイトペガサスのシロが嬉しそうに嘶く声が聞こえてくる。
ノアはベッドから立ち上がり、窓の外の長閑な風景を見つめた。
朝露に濡れた手作りの魔力芝が、朝日を浴びてキラキラとエメラルドグリーンに輝いている。そこには、魔獣たちが無理な投薬や暴力に怯えることなく、自分自身の足で走る喜びを謳歌できる「真の育成」の理想郷があった。
ふとノアの脳裏に、かつての日々の記憶がフラッシュバックする。
(……思い返せば、息の詰まるような生活だったな)
数年前のノアは、王都を牛耳る巨大な魔獣ギルドで、名もなき下働きとして酷使される存在だった。
陽の当たらない地下の狭い部屋で寝泊まりし、夜明け前から深夜まで、利益と効率だけを追求する上層部の命令に従い続ける日々。そこで走れなくなった魔獣は道具のように見捨てられ、下働きの人間もまた代わりの利く歯車として扱われていた。自分が何のために生きているのか、誰のために働いているのか、それすらも分からないままただ強制的に労働を強いられるだけの、まるで意思を持たない機械のような毎日だった。
あの時の自分は、前の主である勇者レオンに薬漬けにされ、心を壊されかけていたイグニスやシロと何も変わらなかったのだ。だからこそノアは、追われるようにギルドを飛び出して強く誓ったのである。
自分も、自分の大切な家族たちも、心から笑って自分の意思で走り抜けることができる環境──この『箱庭』を作ると。
「どうしたんだ、ノア? ぼーっとして。どこか痛いのか?」
イグニスが心配そうに顔を覗き込んでくる。ノアは薄暗い過去の記憶を完全に振り払い、優しく彼女の頭を撫でた。
「いや、何でもない。今日もいい天気だから、最高の特訓ができそうだなと思ってな」
「特訓! やるやる! 次はどんなことをするんだ? またプールの底を走るのか?」
「とりあえずは朝飯だ。それから考えよう」
二人が連れ立って厩舎の外へ出ると、澄み切った青空の下、シロが軽やかな足取りで駆け寄ってきた。痛めていた脚は完全に癒え、今にも空へと飛び立てそうなほどに力強いオーラを放っている。
「シロ、おはよう。脚の調子は良さそうだな」
ノアがシロの白い鬣を撫でると、シロはブルルッと心地よさそうに目を細めた。
三人で囲む朝食の時間は、この箱庭において最も大切なひとときだ。ノアが特製の魔力野菜をたっぷり使ったスープと、分厚いベーコンを焼き上げると、イグニスとシロはあっという間に平らげてしまった。
朝の穏やかな時間が過ぎ、特訓の準備を一息ついていたその時だった。
シャン、シャン、シャン。
厩舎に続く未舗装の道を、一台の立派な馬車が近づいてくる音が聞こえた。王都の大貴族が使うような煌びやかなものではないが、重厚で実用的な作りをしている。馬車には、剣と大樹を交差させた見慣れない紋章が刻まれていた。
「……お客さんか?」
ノアがいぶかしげに立ち上がると、イグニスも警戒するように耳をピンと立てた。
馬車が箱庭の入り口で止まり、中から一人の男が降りてきた。パリッとした仕立ての良いスーツに身を包んだ、銀髪の初老の紳士だった。右目には片眼鏡をかけ、どこか隙のない空気を纏っている。
「突然の訪問を失礼いたします。ここはノア・テイマー殿の箱庭で間違いないでしょうか」
「ええ、私がノアですが。あなたは?」
ノアが問いかけると、老紳士は深々と頭を下げた。
「私は、国際魔獣競技連盟の特使を務めておりますアルベルトと申します。昨日の王立ダービーでのイグニス・フレア号の圧巻の走り、そして記録的な勝利、誠におめでとうございます」
「国際……連盟?」
王立連盟ではなく国際連盟。その言葉の響きにノアは少しだけ身構えた。
国内のレースはG1である王立ダービーが最高峰だが、世界にはまだ見ぬ強敵と、さらに過酷なレースが存在するという噂は聞いたことがあった。
「単刀直入に申し上げましょう。ノア殿、そしてイグニス・フレア号。あなた方に、三ヶ月後に開催される『世界樹杯』への特別招待状をお持ちしました」
アルベルトは、懐から眩い緑色の光を放つ一枚の重厚な封筒を取り出した。
「世界樹杯……!」
それは、大陸中のトップテイマーと最強の魔獣たちが集い、真の世界一を決めるという伝説の国際レースだった。開催地は国境を越えた先にある不可侵領域、エルフの森の奥深くにそびえ立つ大樹の麓。王立ダービーの数倍の過酷なコースと、想像を絶する環境の変化が待ち受ける、まさに究極のサバイバルレースだ。
「昨日のレースを拝見し、連盟上層部もあなた方の『真・育成』という新たな可能性に大変な興味を抱いております。どうかこの招待をお受けいただけないでしょうか」
アルベルトの差し出した招待状を、ノアは静かに見つめた。
G1を制覇し、国内では頂点に立った。だが世界は広い。彼が目指す「魔獣たちが無理なく、心から走る喜びを享受できる世界」を真に証明するためには、世界一という称号はこれ以上ない舞台だった。
ノアは振り返り、イグニスとシロを見た。
イグニスは招待状の意味が完璧には分かっていないようだったが、ノアの視線から「新しい挑戦」の匂いを感じ取ったのか、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「よく分からないけど、また強い奴らと走れるんだな? ノア!」
「ああ。世界中の……とびっきり速い奴らが集まるレースだ」
「だったら行くに決まってるだろ! どんな奴が来ようと、わたしが全部ぶっちぎってやる!」
その純粋で力強い言葉に、シロも同意するように高らかに嘶いた。頼もしい家族の姿に、ノアの迷いは完全に消え去った。
「アルベルトさん。この招待、謹んでお受けします」
ノアが招待状を受け取ると、アルベルトは満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい決断です。世界樹杯には、王立ダービーで競い合ったユリウス公爵とグレイシア号も推薦枠で出場が決定しております。さらなる激戦となることでしょう」
「ユリウスも……。それは面白くなりそうだ」
再びあの氷の天才と、世界最高の舞台でぶつかり合う。
ノアの胸の奥に、熱い闘志の炎が静かに力強く燃え上がり始めていた。
「よし、イグニス、シロ! 今日から世界に向けての新しい特訓メニューだ! 箱庭の設備ももっとアップグレードしないとな!」
「おおーっ! 特訓の後は、またおいしいお肉と温泉だな!」
青空の下、三人の笑い声がどこまでも響き渡る。世界の頂点を目指すノアとイグニスたちの新たな挑戦が、今ここに幕を開けたのだった。




