【一歩進むための心】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜自分が何に怒っているのかもわからなくなっているお客様〜
私は何に怒っているのか、もはや自分でもわからなくなっていた。
ただ虚しく、悔しく、苦しく、悲しく、憎い――。わけのわからない思いが渦巻いて、その場から一歩も動けない。誰でもいい、この激しい澱をぶつけてしまいたい。そんな感情が爆発する寸前だったはずなのに。
気づけば、私は明るい里山の風景の中に立っていた。
目の前には古い古民家があり、おばあちゃんが縁側に座って、ニコニコと穏やかに微笑みかけてくれている。
自分の体を見ると、まるで真っ黒な影のように透けていた。
「あらあら、迷子の子かい? こっちへ来てお茶を1杯飲みなさい」
「こんな透け切った私に、お茶なんて飲めるのでしょうか……」
私が戸惑うと、おばあちゃんは「安心しなさい、大丈夫だよ」と優しく言ってくれた。不思議なことに、動けなかったはずの足がスッと動き、縁側に座ることができた。
おばあちゃんが差し出してくれた湯飲みからは、とても良い香りの緑茶が立ち上っている。そっと両手で包み込むと、温かさが確かに伝わってきた。
ひと口飲むと、優しい甘みと温もりが喉を通っていくのがわかり、それがたまらなく嬉しかった。
「おばあちゃん……私、自分が何を怒っているのか、何を恨んでいるのか、どんな感情なのかもわからなくなってしまったんです」
私の言葉に、おばあちゃんは静かにうなずいた。
「それは辛かったねぇ。ずっと一人ぼっちで、大変だったね」
「ずっとあの場所に縛られて……もう何もかもどうでもよくなって、ただ怒りだけで誰かに当たりたくなって……」
「そうだったんだね。ほら、あそこをごらん。トンボが飛んでいるよ」
おばあちゃんが指差した先をみると、一匹のトンボが、初秋の青空をどこまでも自由に気持ちよさそうに飛んでいた。
「トンボはね、お盆の時期にご先祖様を乗せて、懐かしい場所へ運んでくれるとも言うんだよ。あなたも、そろそろ行かなきゃいけないところがあるんじゃないかい?」
その言葉を聞いた瞬間、ハッと気づかされた。そうだ、私にはまだ、向かうべき場所があったのだと。
胸の奥につかえていたヘドロのような重たい澱が、スーッと消えていくのを感じた。
「ほら、あそこにあなたの道が現れたよ」
おばあちゃんが優しく微笑み、自分の着物と同じ柄の折り鶴をそっと手渡してくれた。
「この折り鶴を持ってお行き。この場所にはもう二度と来られないけれど、これを持っていれば、もう迷うことはないからね」
「おばあちゃん、本当にありがとうございました……」
私は深く頭を下げた。
もう黒い影ではない、透き通った姿のまま。私はおばあちゃんに見送られながら、目の前に広がる眩しい、あたたかい光の方へと――トンボに乗って、ゆっくりと進んでいった。




