【生きているだけで、もう十分だから】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜傷だらけで歩いてきたお客様〜
どうして私ばかり、こんな歳になってまでこんな思いをしなきゃいけないんだろう。
不器用なりに、一生懸命やってきたつもりだった。だけど、「みんな一生懸命やってるんだから、あなただけじゃないんだよ」と言われてしまった。他の人だってたくさん努力している、私の努力が足りないんだと――そう突きつけられた気がした。
職場の全員から受けてしまった、パワハラとモラハラ。理不尽で不条理すぎて、悲しすぎて、悔しすぎて……涙も出ないほど心も体も疲れ果てていた。
冷たくて硬いアスファルトの道を、とぼとぼとうつむきながら歩いていたはずだった。
なのに、いつの間にか足元がふかふかとした温かい「土」の感触に変わっている。はっと顔を上げると、緑茶のいい香りが鼻腔をくすぐった。
目の前には、古民家が建っている。縁側にはおばあちゃんが座っていて、穏やかに手招きをしていた。
「ちょうどいいところにお茶が入ったから、1杯飲んでいきなさい」
普通だったら警戒していただろう。だけど、あまりにも良い香りと、おばあちゃんの纏う優しさが胸に刺さって、私は吸い寄せられるように縁側に腰を下ろしていた。
差し出された緑茶をひと口飲むと、張り詰めていた虚しさが、少しずつほどけていく。
「おばあちゃん……聞いてくださいよ」
そう言って、私は堰を切ったように今までの出来事を話し始めた。
おばあちゃんはただ静かに、私の言葉を受け止めてくれる。そして、優しくこう言ってくれた。
「今まで、本当に辛かったねぇ……」
その一言を聞いた瞬間、私は思わず大声で泣き出した。あまりの苦しさに、ずっと涙すら出なかったのに。
おばあちゃんが、私の背中を優しくさすってくれる。しばらくそうしているうちに、荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。私はもう一度、温かいお茶をひと口飲んだ。
「おばあちゃん……私の、何がいけなかったんでしょうか。やっぱり、私にも悪いところがあったんでしょうか」
「あなたは何も悪くないわ。周りの人たちが、あなたをターゲットにしたりマウントを取ったりすることで、自分たちの世界をうまく保とうとしていただけなのよ。あなたは、決して悪くない」
「でも……どこに行っても、小学校の時も、中学校の時も、高校に行っても、いつも同じような目に遭ってきたんです。だから私、何歳になっても自分に自信が持てないんです……」
「そうなのね……。ずっと、そんなふうにひとりで傷ついていたんだねぇ。だけどね、あなたは傷つきながらも、それでも歯をくいしばって立ち上がろうとしてきた。それはね、あなたが懸命に生きてきた、何よりの証拠なんだよ」
「そっか……私、生きるために、必死に頑張ってきたんだ……」
「そうさね。自信なんかなくたっていいのさ。あの森の木だって、自分の立派さなんて気にしていないだろう? ただ根を張り、枝を伸ばし、誰よりも強くきちんと――今、こうして生きているさね」
私は、お湯呑みに残っていたお茶をすべて飲み干した。
心の中に、じんわりと温かい灯りがともるような気がした。
「あそこに、道が現れたよ」
おばあちゃんが指差した方を見ると、霧の向こうへ続く道が見えてきた。
「おばあちゃん、ありがとうございます。またお茶を飲みに、ここに来てもいいですか?」
おばあちゃんは少し寂しそうに、けれど優しく微笑んだ。
「ここは一期一会の場所。もう二度と会えないけれど……これを持っていっておきなさい。自信がなくても、ちゃんと強く生きていることを思い出せるようにね」
そう言って手渡してくれたのは、おばあちゃんの着物と同じ模様の、小さな折り鶴だった。
「おばあちゃん、私、行ってきます。ありがとうございました」
私は深く頭を下げ、その道を歩き出した。
自信なんてなくていい。
立派じゃなくたっていい。
今、こうして生きているだけで――それだけで、もう十分なんだと思いながら。




