【私は、透明人間】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜夫に置いていかれたお客様〜
まさか! そんなはずないよね。置いていくはずないよね。
私は夫とちょっと遠くのお店へ車で出かけていた。この日は少し腰が痛かったので、あえて後ろの座席に乗っていた。
目的地まであと少しというところで車の調子がおかしくなり、近くのディーラーへ立ち寄った。夫がメカニックの人と話し込んでいる間、私はトイレへと向かった。
だが、戻ってくると車が忽然と消えている。キョロキョロ探しても見当たらない。まさか、私が乗っていないことに気づかないまま行ってしまったなんて――!
慌ててスマホで電話をかけると、夫は「バックミラーを見たら誰も乗ってないんだけど!」と怒ったような声を出す。
「あなたがメカニックの人と真剣に話してたから、まだかかると思って……!」
「なんで黙っていくんだ!」
「もういい! 1人で電車とバスで帰るから!」
私はそう言って、プツリと電話を切った。
頭に血が上ったままトボトボと歩いていると、いつの間にか足元がふかふかとした「土」の感触に変わっている。
ふと顔を上げると、目の前に古民家が建っており、縁側でおばあちゃんがニコニコと手招きをしていた。
「おや、こちらに来て、お茶を一杯飲んでいきなさいな」
不思議と怪しむ気持ちは消え、私はおずおずと縁側に腰を下ろした。おばあちゃんが差し出してくれたお湯呑みから良い香りが漂い、ひと口飲むと、全身を覆っていた猛烈な怒りがすーっと引いていった。
「おばあちゃん……聞いてくださいよ」
私は、喉まで出かかっていた悔しい思いをぽつりぽつりと話し始めた。おばあちゃんは何も言わず、ただ優しくうなずきながら聞いてくれる。
「夫は人の話も聞かないし、会話が噛み合わないんです。今回のことで、なんだか私……『透明人間』になっちゃったみたいだなあって。私ってそんなに存在感ないんでしょうか。何回言っても同じことを聞いてくるし、自分の興味のあることしか記憶に残らないみたいで……」
おばあちゃんは温かいお茶を飲むと、穏やかに微笑んだ。
「そうかい……それは辛かったねぇ。でもね、あなたのご主人は心が自分のことでいっぱいで、周りが見えていないだけじゃないかねぇ」
おばあちゃんは庭の木立の方を指差した。
「ほら、あそこにカメレオンがいるね。カメレオンは敵から身を守るためにコロコロと色を変えて、自分の弱さを見せないようにしているんだ。あなたのご主人も同じだね。都合が悪くなると言うことを変えて、自分を守ろうとしているのかもねぇ」
「……そうかもしれません。いつもダブルスタンダードで、都合が悪くなるとなかったことにされるから、もうほかの次元の人と思うしかないですね」
「赤の他人同士がふたりで暮らすんだから、分かり合えないことがあるのは当たり前だよ。家族といえども違うんだからさぁ」
おばあちゃんのゆったりとした言葉を聞いているうちに、胸につかえていたものが少しずつ溶けていくようだった。
「そうですね……。すぐに変わるのは難しいけれど、これからは受け流すことを覚えないといけないですね」
おばあちゃんは「ほら、帰りの道が現れたよ」と微笑み、小さな折り鶴を手渡してくれた。
「ここは一期一会の場所だからね。もう会うことはできないけれど、あなたがイライラした時はね、『淡々と、淡々と』ってこの鶴を見て思い出して、心を穏やかにするんだよ」
「ありがとうございました」
私は折り鶴をポケットにしまい、おばあちゃんに深く頭を下げた。
イライラしない。淡々と受け流す。
私はそう心の中でぶつぶつと唱えながら、待っている車のほうへとしっかりと歩き出した。




