【胸の奥の消えない薔薇の棘】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜過去に囚われたお客様〜
母からの電話一本で、三十年前の苦い記憶が鮮やかに蘇ってしまった。
いつも世間体ばかり気にする母は、「妹があなたを頼ってきたのに、突き放すなんてかわいそうね」と電話口でぶつぶつ文句を言う。その瞬間、私の中で何かがプチっと音を立てて切れた。
三十年前、私は結婚目前で相手に裏切られ、傷ついて実家の団地に身を寄せた。
けれど、家族は誰一人として私を守ってくれなかった。夜遅くに引っ越しを手伝ってくれる友達と電話をしていれば、兄からは『家族の迷惑を考えろ』と襖にガムテープでメモを貼られ、綺麗事を言って別れた元彼が浮気を隠すために、別れを告げたと知って大泣きした時には、母に「近所に聞こえて恥ずかしい」と怒鳴られた。私はお風呂場の湯船に潜り、水音に紛れてひとりで泣くしかなかったのだ。
——どうしてこの人たちは、家族なのに私を守ってくれなかったんだろう。
何十年経っても変わらない虚しさと怒りで、胸が破裂しそうになったその時。ふわりと、香ばしい緑茶の香りが漂ってきた。
顔を上げると、目の前に見慣れない古民家があり、縁側でおばあちゃんがニコニコと手招きをしている。吸い寄せられるように腰を下ろすと、おばあちゃんは無言で温かい湯呑みを差し出してくれた。
一口飲むと、胸の奥の固い結び目が少し緩んだ。
「おばあちゃん……聞いてくださいよ」
私は喉まで出かかっていた三十年分の悲しみを、堰を切ったように吐き出した。
おばあちゃんは一度も言葉を挟まず、「うん、うん」と優しくうなずきながら聞いてくれた。
「忘れたつもりでも、時々こうして思い出して、夜も眠れなくなるんです……」
私がぽつりと呟くと、おばあちゃんはふっと庭のほうに目を向けた。
「ほら、あそこをごらん。真っ赤な薔薇が咲いているよ。きれいな花だけど、茎にはトゲトゲがいっぱいあるねぇ」
おばあちゃんが指差した先には、鮮やかな赤い薔薇が力強く咲いていた。
「あなたもねぇ、あの薔薇と同じなんだよ。自分を傷つけようとする人や、理不尽なものに対しては、ちゃんと棘を出して防御してきた。でもね、その棘は自分自身を傷つけるためには向いていないんだよ。本当はとても優しい人だからねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなり、ずっと張り詰めていたものがほどけていくのがわかった。
何十年経っても刺さったままの棘はすぐには抜けないかもしれないけれど、この傷を抱えたまま生きていってもいいんだと、不思議と心が軽くなった。
「おばあちゃん、またここに来てもいいですか?」
そう尋ねると、おばあちゃんは優しく首を横に振った。
「ここは一期一会の場所だからね。でも、これを持っていきなさい」
そう言って手渡されたのは、おばあちゃんの着物と同じ柄の小さな折り鶴だった。
「これを見て、ここで胸の思いを吐き出せたことを思い出してごらん。それが、これからを歩いていく力になるからね」
私は折り鶴を大切に握りしめ、おばあちゃんに深々と頭を下げた。
元の日常に戻っても、人生が急に薔薇色になるわけじゃない。
けれど私は、胸の中の傷をそっと抱えたまま、明日へ向かって自分の足でしっかりと歩いていく。




