【別れの嘘と、偽りの温もり】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
~信じたものに裏切られた、お客様~
――どうして私を騙したの……?
あれは全部、演技だったの? あなたはそんなに汚い男だったの……?
「ポニーテールが似合うよ」って言うからそうしていたのに、「化粧気のないほうが可愛いよ」って言うからそうしていたのに。そんなふうに自分に合わせてくれていた私が、いつの間にか「重かった」なんて……どの口がそんなことを言うのよ……!
私には、学生時代から長年付き合っている彼がいた。結婚も視野に入れていたので、彼が東京から地方へ転勤することになったとき、「一緒についてきてほしい、支えてほしい」と言われ、転職して1年しか経っていなかったけれど、彼の言葉を信じてその地方へとついていった。
実際に引っ越してみると、今まで育った東京とはあまりにも違いすぎて驚いた。言葉も習慣も違う。八百屋さんでおすすめされた食材の名前すら分からず、聞き返したら「そんなことも知らないのか」と呆れられたこともあった。
周りには友達も家族もいなくて、頼れるのは彼だけ。それでも、すぐに籍を入れられないからと、私は仕事を探して働き始めた。
彼はお父様が有名な出版社の元編集長という「意識高い系」の家庭に育ち、自分も大企業ですぐ地元に馴染み何不自由なく働き、仲間とテニスをしたり飲み会を楽しんだりしていた。私は慣れない土地で必死に耐えていたのに、ある日、彼が疲れて帰ってきたときに私が東京の友達と電話で少し愚痴をこぼしていたのを聞かれ、「疲れて帰ってきているのに人の悪口ばかりでうんざりする」と怒鳴られてしまった。自分は決まりきった組織の中で何の苦労もせずにいるくせに、私の孤独の何が分かったと言うのだろう。
そしてしばらく経つと、彼に女性の後輩がOJTとしてつくことになった。
最初は「あいつは化粧が濃くて、OLの化粧じゃないよな」なんて笑っていたのに、だんだん様子がおかしくなっていった。休日でもその子に電話をかけるようになり、「1人で休日出勤しているから心配だからかけてるんだよ」とうるさそうに言われた。
ある日、2人が出張から帰ってくる日、私はサプライズで喜んでもらおうと空港へ迎えに行った。けれど、彼は私を見るなりものすごく嫌そうな顔をした。
そして数日後、「もう一緒にやっていけない。別れてくれ、東京へ帰ってくれ」と一方的に告げられた。
あまりのことに揉めたが、「とりあえず一度距離を置いて、また考え直せばいいよ」と言われ、私もそのほうがいいのかもしれないと納得し、2人で空港へ向かった。そのとき、彼はそっと私を抱きしめ、別れ際にキスをしてくれた。「少し離れれば、また昔みたいに戻れるかもしれない」――そう信じた私は、その温かい感触を胸に残したまま、一人で東京へ帰ったのだった。
しばらくして、共通の友達から「2人って別れたんでしょう?」と聞かれた。「まだ別れてないよ」と答えると、「えっ、彼、新しい支店の後輩と付き合ってるって聞いたよ?」と言われた。
血の気が引いた私は、震える手で彼に何度も電話をした。やっとの思いで出た彼にそのことを確かめると、「その通りだけど」と冷たく言い放たれた。
「じゃあ、あのとき空港でキスしてくれたのは何だったの……!?」
そう叫ぶと、彼はボソッと言った。
――「あれは、スムーズに帰ってもらうためだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は電話を切ることもできず、怒りと絶望と情けなさにどうしていいか分からなくなった。
……気づくと、夜のはずだったのに、目の前には明るい光が差し込む見知らぬ景色が広がっていた。
目の前には古民家が建っており、縁側ではニコニコと優しい顔をしたおばあちゃんがこちらに手を振っていた。
「おや、いらっしゃい。そんなに呆然として、いったいどうしたんだい……? こっちへおいで」
おばあちゃんが優しく声をかけてくれた。私はもう何もかもがどうでもよくなっていて、フラフラとおばあちゃんに近づき、縁側に腰掛けた。
「私……騙されたの……あんな人じゃなかったのに……。転勤して地方へ行ってから、彼は変わってしまったの……? 長年一緒にいたのに、私の一番大切な時間をあんなふうに踏みにじられて……私が悪かったのかな、お洒落をしなかったからいけないのかな……」
堰を切ったように涙があふれ、私はおばあちゃんの前で声を上げて泣いた。
おばあちゃんは何も言わず、私をそっと見守りながら、温かい緑茶を一杯差し出してくれた。
お茶のいい香りに包まれながらひと口飲むと、張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけスッと軽くなった気がした。
「そうかいそうかい……それは本当に、身が引き裂かれるように辛かったねぇ。何年も信じ続けて、自分のすべてをかけてついていったのに、そんな嘘をつかれて……ひどい男だねぇ。あなたが悪かったわけじゃないよ。一生懸命人を愛して、信じようとしたあなたの優しさを、あんなふうに踏みにじるなんて許せないねぇ」
おばあちゃんのその言葉を聞いた瞬間、ずっと胸の奥に閉じ込めて、蓋をしていたはずの悔しさが、涙と一緒に一気にあふれ出た。
「私……ずっと馬鹿だったのかなって、今でも思い出すと胸が痛んです……」
私がそう呟くと、おばあちゃんは優しく私の背中をさすってくれた。
「馬鹿なんかじゃないさね。人を心から信じられるってことは、それだけあなたの心がまっすぐで綺麗だった証拠だよ。ただね、相手の男のほうが、あなたのその優しさに甘えて、自分の保身しか考えられない、とっても器の小さい人間だっただけさ。そんな男のために、あなたの綺麗な涙をこれ以上流す必要なんかないんだよ」
おばあちゃんの手の温かさが、冷え切っていた私の心をじわじわと温めてくれた。
そうだ……私は、精一杯生きていた。誰よりも一途に人を愛していた。恥じることなんて何一つない。悪いのは、嘘をついて私を捨てたあの男のほうだ。
心がふっと軽くなると、おばあちゃんが庭の先を指差した。
「ほら、うちへ帰る道が見えたよ」
見ると、私を待っている日常の世界へと続く道が、穏やかな光の中にしっかりと伸びていた。
「おばあちゃん……ありがとう。私、東京に戻ってからずっと引きずって苦しかった。でも、今日ここでいっぱい泣けてよかった。もうあの男のために心を痛めるのはおしまいにするね」
私がそう言うと、おばあちゃんは太陽のようにあたたかい笑顔を浮かべ、自分の着物と同じ模様の、綺麗な折り鶴をそっと手渡してくれた。
「これをポケットに入れておきなさい。過去の傷に囚われそうになったら、『私は、誰よりも真っ直ぐに人を愛して生きていたんだ』って、この鶴を見て自分を誇らしく思い出すんだよ」
私は折り鶴を両手でしっかりと受け取った。
「おばあちゃん、本当にありがとう。行ってくるね!」
私は深く頭を下げて、しっかりと前を向いて、現実の世界へと続く道を踏み出した。
もう大丈夫。私は私のために、胸を張って生きていく。




