【ユーカリの木の毒は、コアラにあげる決意】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜ツインテールに尊厳を傷つけられた、お客様〜
私をいくつだと思っているの……?
29歳の、立派な大人の女性よ。ちゃんと自立して、一人で生活しているんだ。誰の力も借りていない。それなのに、どうしてこんな子ども扱いをされなきゃいけないの……? 私を笑い物にしたいの? 私があなたに逆らえないのを知っていて、面白がっているんでしょう……!
私は、小さな会社の事務で働いている。半年前に転職して入ったばかりの新人で、同期の1歳上の女性もいる。少人数で20人くらいの会社だから、みんな家庭的な雰囲気のはずだった。
けれど、その中の40代の先輩女性が、妙に私をかまってくる。その人は仕事に集中するという理由で一人用の小さな部屋を与えられていて、そこで仕事をしている。あるとき、私が習い事に興味があると話したら、その女性がちょうど仕事の後にそこで講師をしているということで紹介してもらい、私はそこで週に1回習い事をするようになった。
その相談事があって昼休みにその女性の部屋を訪ねると、妙に私を小学生扱いすることがよくある。そして今日は最悪だった。「ちょっと髪型を変えてあげるわよ」と言って、有無を言わせず29歳の私の頭をツインテールにしてしまったのだ。
「よく似合ってるわ。そのままで事務室に戻ったほうがいいわよ。事務するのに、さっきまでの髪型じゃ邪魔でしょう」
真面目な顔でそう言われて、私は怒りで手が震えたけれど、逆らうことができず、「はい……」ととぼとぼと事務室に戻った。
事務室に入ると、まず同期の子が「えっ、何その頭! いくつだと思ってんの!」と笑い、周りの人たちもクスクスと笑い出した。私はやっぱり……と泣きそうになり、「直してきます」と怒りに震える手でトイレへと駆け込んだ――はずだった。
トイレの芳香剤の匂いではなく、なぜか自然の優しい花の香りが鼻をついた。
キョロキョロと周りを見回すと、見慣れない古民家があり、縁側ではおばあちゃんが優しく手招きをしていた。
私はおばあちゃんのもとへと駆け寄った。
「すみません、ここってどこですか……? 私、会社のトイレに行ったはずなんですけど、早く戻らないとお昼休みが終わっちゃう! また周りの人に何か言われちゃうよ……!」
「おや、いらっしゃい。まぁ、お茶を一杯飲んでいきなさい。すぐに道は現れるからね」
「いやいや、そんなわけにいかないです! 職場放棄になっちゃいますから……!」
「緑茶は好きかい? そんなにジタバタしても、何もいいことないわよ」
さらに文句を言おうとしたが、上質な緑茶の良い香りが鼻をかすめ、その匂いをかいだだけで、先ほどまでの悲しみや怒りがすーっとおさまっていくのを感じた。私はフラフラと縁側へ歩いていき、腰を下ろして緑茶をひと口飲んだ。それだけで、胸のつかえが少し軽くなった。
「おばあちゃん、話を聞いてください……私、職場で……」
私は今日あったことのすべてを、おばあちゃんにぶちまけた。
おばあちゃんは優しくうなずいた。
「そうかい、それは大変だったねぇ。すごく傷ついたし、悔しかったねぇ」
「そうなんです……! なんで私ばかりあんなふうに言われなきゃいけないんだろう。もう一人同期の子がいるのに、その子は周りから何もされないのに、私ばかりみんなからからかわれたりして、本当に理不尽なんです……!」
「周りの人たちはね、自分に火の粉が降りかからないように一番弱いターゲットをやり過ごしているのさ。そして、あなたをツインテールにした女性は、そうやってあなたを支配してマウントを取ることで、自分の歪んだ心を満たしているだけなんだよ」
「そんなの、あまりにひどすぎませんか……! 私が逆らえないのを分かっているからって、言われっぱなしで我慢しなきゃいけないなんて……私ばかり、どうして……!」
すると、おばあちゃんは森の方をそっと指差した。
「ねぇ、あそこを見てごらん。あんなところに、一本のユーカリの木が生えているだろう?」
見ると、その森には不釣り合いな、見慣れない木が立っていた。
「あの葉っぱはね、人間が食べたら毒になるんだよ。だけど、コアラだけはあの葉っぱをもりもり食べて、自分の栄養にして生きている。人間にとっては毒でしかないものも、コアラにとってはなくてはならない糧なのさね」
おばあちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめた。
「世の中の意地悪な人や、あなたを自分の下に置こうとする人の言葉や態度も同じだよ。あんな人たちの言うことや理不尽なイジメなんてね、あなたという人間にとっては『毒(害悪)』でしかないものなんだよ。あんな毒を真面目に受け取って、自分の体に溜め込む必要なんかないのさ。あんなものは、『あぁ、あの人たちにとってはそれが主食なんだねぇ、糧になってよかったね』って、コアラにでもあげておくくらいでちょうどいいんだよ。あなたはあなたをしっかり生きなさい。自分の体に、他人の毒を入れちゃいけないよ」
その言葉を聞いた瞬間、私のなかの何かがカチリと音を立てて噛み合った。
人間にとってはただの「毒」であっても、相手の歪んだ支配欲やストレス発散の生態系の中だけで回っているものだと思えばいいんだ。私がそれを真面目に飲み込んで傷つく必要なんてない。綺麗に受け流せばいいんだわ――!
私はお茶を一気に飲み干した。
「おばあちゃん……すぐに完璧には無理かもしれないし、傷つくこともまだあるかもしれないけど、もうあんな人たちの毒を真面目に受け取るのはやめる。気にしないようになれるように、少しずつ強くなる訓練をするね」
「ほら、ごらん、あそこに道が現れたよ」
おばあちゃんが指差した方を見ると、日常の世界へと続く道がゆらゆらと浮かび上がっていた。
「おばあちゃん、ありがとう! 今度お給料が出たら、お菓子でも持ってまた遊びに来ていいですか?」
私が聞くと、おばあちゃんは少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべた。
「ここは一期一会の場所なんだよ。もう二度と会うことはできないんだ。でもね、これを持っていきなさい」
おばあちゃんは、自分の着物と同じ模様の小さな折り鶴をそっと手渡してくれた。
「この森の風景や、自分が強くなろうと気づいたこと、そう決心したことを、いつでもこの鶴を見て思い出しておくれ」
私は鶴をギュッと握りしめた。
「おばあちゃん、ありがとう。私、少しずつ努力してみる。あんな人たちのために傷つくのはもう終わりにして、自分のために強く生きてみるね!」
私は深く頭を下げて、また自分の日常の世界へと戻っていった。
もう大丈夫。私は私のために、堂々と生きていくんだ。




