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【記憶の中に優しく残るお茶の香り】

ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。

1杯のお茶をゆっくり飲んでいる間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。

悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。

さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?



〜母を思う、優しいお客様〜


ザーザーと激しい雨が降っていた。私は傘を差し、とぼとぼと歩いていた。全身が雨で濡れているけれど、冷たさなんて感じなかった。先ほど、母が亡くなったばかりだったから。

長年、特養に入っていた母。記憶が確かな頃、母は私に「ここでもお茶は出るけれど、家にいたときのような味じゃないのよね」と寂しげにつぶやいた。私は「今度来る時、美味しいお茶を持ってくるからね」と気軽に約束した。

けれど、子供の受験や仕事の忙しさ、そして感染症の流行が重なり、面会は叶わなくなった。ようやく面会制限が解けた後も、私は病気が進行し、誰のことも分からなくなった母と向き合うのが怖くて、足が遠のいていた。

そして今日、施設から「もうまもなく」との連絡を受け、慌てて駆けつけた。母の好きだったお茶を買って。

母はもう意識がなく、眠るように横たわっていた。私は施設の方にお願いし、母の枕元でお茶を淹れさせてもらった。部屋にお茶の香りが広がったその時、母がパッと目を開け、私の方を向いて小さく微笑んだ。すぐにまた目を閉じてしまったけれど、最期にその表情を見られただけで、私は救われた気がした。

お寺へ葬儀の打ち合わせに向かう道、後悔ばかりが胸の中でぐるぐると渦巻いていた。「直接飲ませてあげられなかった。私のことを恨んでいるんじゃないか」と、涙が溢れてくる。

下を向いて歩いていると、急に乾いた地面を歩いていることに気がついた。ふと、とても良い緑茶の香りが漂ってくる。顔を上げると、そこは街の喧騒から切り離された古民家だった。縁側でおばあちゃんがニコニコと私を見ていた。

「雨、止んでいるわよ」

おばあちゃんに言われ、慌てて傘を畳んだ。「ここはどこですか? お寺へ向かっていたはずなのに」と尋ねると、おばあちゃんはバスタオルを差し出してくれた。

「体が冷えているだろうから、お茶を飲んでいきなさい。そうすれば、帰り道はすぐ現れるから」

私は疲弊しきった心で、縁側にどさっと腰を下ろした。お茶の爽やかな香りに包まれると、張り詰めていた糸が切れたように本音がこぼれた。

「お母さんに、最後のお茶を飲ませてあげたかった。でも、私が持っていったときにはもう飲めなくて……。私のことを恨んでいるでしょうか」

おばあちゃんは静かに私の両手を握り、森の向こうを指さした。

「あそこを見てごらん。大きな虹がかかっているよ」

見ると、山の麓から空へ向かって、見事な虹が架かっていた。

「香りはね、記憶の中に深く染み込むものなんだよ。お母さんはきっと、最後にあなたが入れてくれた緑茶の香りで、あなたとの思い出を全部思い出したはず。優しいあなたを最後に見ることができて、きっと嬉しかったはずよ」

おばあちゃんの言葉に、心の奥底がポカポカと温かくなった。

お茶を飲み終えると、おばあちゃんは森の方を指さした。先ほどまでの雨が嘘のように、光が差し込む晴れた道が現れていた。

「おばあちゃん、私行きますね。母に笑顔で最後のお別れをしてきます。また、必ずお礼に来ます!」

「ここは一期一会の場所だから、二度と会えないのよ。でもね、これを持っていきなさい」

おばあちゃんは、自分の着物と同じ模様で折った鶴を二つ手渡してくれた。

「一つは、お母さんの棺の中に入れてあげたら?」

私はその折り鶴を握りしめ、おばあちゃんに深く頭を下げた。光が差し込む道へ向かって歩き出す私の足取りは、もう濡れてはいなかった。

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