【夏の影と、まあるい深呼吸】
※このお話には虫や「カサカサ動く黒いアイツ」の描写に関する表現が出てきます。苦手な方はブラウザバックをお願いいたします。
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜黒い影に震えたお客様〜
「なんで私に向かってくるのよ……! 私がいったい何をしたっていうの? 私、何か変なものに取り憑かれているの? 私に何か恨みがあるわけ……もう、なんで、なんでなのよ……!」
私は虫が大嫌いだ。それなのに、なぜか人生のあらゆる場面で虫が私に向かってくる。
夏の日にただ歩いているだけなのに、なぜかミンミンゼミが頭に体当たりしてきたり、止まったりすることが何回もある。隣に人が歩いていてもだ。それに、何年も「あのカサカサ動く黒いアイツ」を家に入れないように、電池式のハーブ系忌避剤を炊き、窓や隙間には寄せ付けないスプレーで結界を張り、もしものときのために殺虫剤を1階と2階のいつでも手に取れる場所に何本も常備してきた。
それなのに、よりによってリビングでスマホの取引決済をしようと画面を確認し、まさに「購入」のボタンを押そうとしたその瞬間だった。
――バサバサバサッ!
視界の端に、一瞬おぞましい黒い影が見えた気がした。
私はリビングの椅子から飛び上がり、「ギャーッ!」と叫びながらソファーの方へ逃げた。テーブルの横に置いてある殺虫剤の位置を確認しながら、「とりあえずスマホの決済ボタンをポチッと押さなきゃ……!」とバクバクする心臓を抑えてボタンを押し、それから慌てて殺虫剤を掴みに行った。
「もう負けないんだから……!」と身構えていたら、なんとあの黒い影がまた私に向かって飛んできたのだ。
「なんでよ……どうしてよ……!」
泣き叫びながら殺虫剤を乱れ撃ちにし、その上からさらに凍らせるスプレーまで浴びせた。どう処理していいか分からず、泣く泣くビニール手袋をはめ、トイレットペーパーを片手に「どうか動きませんように、つぶれませんように」と祈りながらようやく処理した。
なんでいつも私のところに向かってくるのよ……。
この間だってそうだ。夫が外から帰ってきたとき、おそらく外からカナブンが入り込んでしまったのだろう。私が2階の踊り場の明かりをつけた途端、そのカナブンが私めがけて突進してきて頭にぶつかったのだ。大騒ぎして夫に助けを求めたが、「そんなカナブンが飛んでる音なんかしないぞ、頭にもいない、お前の幻覚だ」と取り合ってもらえなかった。なのに、その3日後に玄関のたたきでそのカナブンがひっくり返っているのが見つかり、夫に「お前の夢じゃなくて本当にいたな」と大笑いされたのだ。
私は、カナブンとカサカサ動く黒いアイツの羽音は聞き分けられると、その話をしたら、夫から「すごいな、カナブンとアイツの羽音を聞き分けられるなんて、お前は特別な能力の持ち主だな」なんて冗談半分に言われて、余計に腹が立ったものだ。私にとっては笑い事じゃないのに!
なんで、こんなに対策を万全にしているのに……。
もう嫌だ。リビングは殺虫剤で床はベタベタなのに、ツルツル滑るし、泣きながら床を掃除した。「もうダメだ、心が折れそう……」そう思い、床掃除終え、ビニール手袋を、ゴミ箱に捨てた瞬間だった。
それまで漂っていた殺虫剤のツンとした臭いの代わりに、ふわりと心地よい「花の香り」が鼻腔をくすぐった。
私ははっとして周りを見回した。
すると、見知らぬ古民家があり、ニコニコと縁側におばあちゃんが座っていた。
「まあまあ、どうしたのそんなに泣いて。こっちに来て、お茶を飲みなさいな」
優しくそう誘ってくれると、私はもう心が完全に折れてフラフラになっていた。「おばあちゃん、私、まずは手を洗いたいんです! 顔も洗いたい、頭も洗いたいし、口もゆすぎたいんです……!」と訴えると、おばあちゃんは庭の端を指さして、「そこの筒から出ている水は湧水だから、そのまま飲めるほどきれいだよ、大丈夫だよ」と言ってくれた。
もう人目も気にしていられないし、殺虫剤の臭いも気持ち悪かったので、私は思い切って水を頭からザブとかぶり、顔を洗い、口をゆすぎ、手をゴシゴシと洗った。本当は体全体の殺虫剤の臭いまでどうにかしたかったけれど、さっきの不思議な花の香りが鼻腔を満たし、すっきりと浄化してくれたかのように気にならなくなっていた。
おばあちゃんはふんわりとした清潔なバスタオルを貸してくれ、温かい緑茶をたっぷりと出してくれた。
ひと口飲んでほっと息をつき、周囲を見回しながら「おばあちゃん、ここ……なんだか虫が多そうなところだけど……」と呟くと、おばあちゃんは「そうねぇ、自然豊かなところだから虫もたくさんいるけれど、みんな大事な自然の仲間さね」と微笑んだ。
私はまた少し興奮して、「仲間って言ったって、虫は虫じゃないですか……!」と言い返し、先ほどまでの恐怖と悔しさを堰を切ったようにぶちまけた。
「それにね、おばあちゃん聞いてください。この間なんか、眼科の待合室で座っていたら、斜め前の壁にクモがいたんです。私がじっと見るとピタッと止まって、視線を外すとまた動き出すんです……何回やってもそうだったんです。私って、何か虫を引き寄せる変なものにでも取り憑かれているんでしょうか……?」
すると、おばあちゃんは穏やかに笑ってこう言った。
「虫というのはね、自然の生き物だからこそ、自分の周りの気配やエネルギーにとても敏感なのよ。だからね、あなたが真剣に何かに集中していたり、ピリッと鋭い視線を向けていたりすると、その『強いエネルギー』に反応して思わず寄ってきちゃうんじゃないかねぇ。それに、急にハッと動いたり驚いたりする気配にも、虫は敏感に反応するのね」
「じゃあなんですか……私が『来るな、来るな!』って怯える気持ちがいけないっていうんですか? でも、あんな怖いもの、どうしても嫌だと思ってしまうじゃないですか……!」
私が悔し涙を浮かべると、おばあちゃんは優しく私の頭をなでてくれた。
「そうかいそうかい、怖かったねぇ。でもね、あなたは決して虫に嫌われるような変なものに取り憑かれているわけじゃないんだよ。あなたはね、何事にも一生懸命で、家族のために家を綺麗に整え、危険がないかアンテナをいつもピッと張って生きている。そのあなたの生き様や、生命力があまりにも眩しくて瑞々しいから、虫たちのほうが勝手に引き寄せられちゃうのね」
おばあちゃんは庭に咲く黄色い花をそっと指差した。
「ほら、あそこに野原のひまわりがあるだろう? ひまわりはね、じっと立っているだけで、いろんな虫たちがわんさか集まってきちゃう。それはひまわりが悪いわけでも、何か特別なことをしているわけでもない。太陽の光を浴びてまっすぐに、力強く咲いているからだよ。あなたもね、日々の暮らしの中で、家族のためにいつも一生懸命に光を求めて生きている。だからこそ、自然の小さな生き物たちまでもが、あなたのその強いエネルギーに引き寄せられちゃうんだよ」
おばあちゃんの手が、私の冷えた手を温かく包み込む。
「虫が来たらびっくりするのも、怖いのも当たり前ね。でも、『私は呪われているんだわ』なんて思わなくていいんだよ。あなたはただ、それだけ懸命に生きている美しいひまわりなんだからね。これからは、もし黒い影が来ても、『あぁ、また私のエネルギーに惹かれちゃったのね』って、少しだけ肩の力を抜いてごらん」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥に張り詰めていた恐怖と緊張の糸が、ふっと緩んだ。
そっか……私は呪われてなんかいなかったんだ。ただ、毎日を必死に、一生懸命に生きていただけなんだ……。
心がすっきりと軽くなると、おばあちゃんが庭の先を指差した。
「ほら、家へ帰る道が現れたよ」
見ると、私を待っている我が家へと続く、あたたかな光の道がしっかりと伸びていた。
「おばあちゃん、ありがとう……私、少し怖がりすぎちゃってたみたい。これからは深呼吸して、どっしり構えてみるね」
私がそう言うと、おばあちゃんは優しく微笑んで、おばあちゃんの着物と同じ模様の折り鶴をそっと差し出してくれた。
「これをポケットに入れておきなさい。今日ここでいっぱい泣いて、心を軽くしたことをいつでも思い出せるお守りだよ。ここは一期一会の場所でもう会えないけれど、この折鶴を見て、あのひまわりを思い出してね」
おばあちゃんの手は、太陽のように温かかった。
「おばあちゃん、本当にありがとう。行ってくるね!」
私は深く頭を下げて、元の世界へと続く道を踏み出した。
もう大丈夫。私は私のペースで、この日常を力強く歩いていける。




