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縁側のひみつ茶屋  作者: Fos B


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【龍の背中から降りるとき】

ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。

1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。

悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。

さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?



〜異国の空の下で息をひそめていたお客様〜


「私が好きなようにして何が悪いの……! 別にあなたたちの生活費から出してもらったわけじゃないし、なんでそんな嫌みを言われなきゃいけないわけ? あなたたちの友達だって、同じようなことしてるじゃない……!」

私はもう闇雲に、右手に海を見ながら、湿気でシャツが肌にまとわりつくのも構わずにプロムナードの道を走っていた。

私は、夫の帯同で見知らぬ外国の大きな港町に住んでいる。数年間はこの外国の街にいなければならない。「子供がまだ幼稚園のうちに、自由のきくうちに外国の空気を感じさせたほうがいいんじゃないか」という夫の言葉に従って決断をしたけれど、よく考えたら夫が寂しかったから、色々な理由をつけて私たちを連れてきただけなんじゃないかと思う。

会社が初めてその国に子会社を立ち上げるということで、夫は連日連夜忙しく働き、土日なんて関係なかった。私と子供が生活するにしても、前任者すらいない。会社の人事が渡してきたのは、薄っぺらいマニュアルだけだった。その中には「早くお友達を作りましょう、そして情報を得ましょう」なんて無責任なことが書かれているだけで、現地でのサポートなんて皆無だった。

金銭的にも日本にいる時と変わらない支給額で、他の会社の駐在員家族に聞けば、他の人たちはちゃんと生活手当が別についていたり、学校から住むマンションまで会社にしっかりケアしてもらっているという。私の場合は、すべて自分で情報を集めるしかなかった。幼稚園が終わる時間にマンションの公園に行き、「どんな幼稚園がありますか?」「どんなところに買い物に行っていますか?」「子供が病気になったら、病院はどんなところに連れてっていますか?」と、汗だくになりながら足で聞き込みをするしかなかった。

ネットで調べてもあやふやな情報しかなかったから、蒸し暑い中、子供を連れて必死に情報収集した。そのおかげで幼稚園も何とか決まり、生活がようやく落ち着いてきたところだった。

そんな時、仲良くなった日本人のママ友から、「この国には、出稼ぎに来ている外国人のお手伝いさんが割と一般的なんだよ。知り合いの1人のお手伝いさんが日本人のところで短時間でできるお手伝いを探しているんだって」と教えられた。高齢の雇い主に仕えているそのお手伝いさんは、仕事が少ない隙間時間に「外で働いてもいいよ」と許可をもらっており、日本人家庭の手伝いを探しているというのだ。「日本人は清潔だから掃除も覚えられるし、日本食も教えてもらえるから喜ばれている」と聞いて、違法にならないかもちゃんと調べてから、夫にも相談した。「少しでも楽になるならいいよ」と言ってくれたので、その友人を介して週に2回、1回3時間だけ、子どもを幼稚園に送った後の時間にお願いすることにしたのだ。

はじめのうちは教え込むために私も一緒にいたけれど、彼女も慣れてきて信頼できるようになったので、その時間だけ少し買い物に出たり、自分の自由な時間を持てるようになっていた。

なのに、ある夜のことだ。

珍しく早く帰ってきた夫が、夕食の時にこう言ったのだ。

「そういえばさ、上司に外国人のお手伝いさんの話をしたら、『お前んちはそんな贅沢なことをしているのか? 奥さんはそんな手抜きをして、旦那がこんなに苦労している間に遊んでるなんていいご身分だな』って言われたよ」

私は、夫が私のワンオペでの苦労をねぎらってくれて、味方になってくれるものだと思っていた。なのに、夫のその言い方は、どこか皮肉が含まれていて、心の底では妻が楽をしていると感じている響きがあった。

プツリと、何かが切れた。

「なんでそんなこと言うの……! あなたは子育ても外国での生活も何もしないで、ただ仕事に行くだけじゃない! 私だって新しい環境で、言葉も通じなくて、毎日必死で苦労しているのよ! あなたは会社の組織に守られているけど、私はゼロから全部一人で切り開いてきたのよ……!」

私は泣きながら怒鳴り散らしてしまった。

子どもが驚いて怯えているのを見て、「ごめん、ごめんね……お母さん、ちょっと疲れちゃったみたい」と慌てて謝ったけれど、夫とはもう口をきけなかった。

そして次の日の朝、夫は何も言わずに早々と仕事に出て行った。

私は重い足取りで子どもを幼稚園に送り届けた帰り道、幼稚園の入り口で他の日本人ママたちにばったり会ってしまった。挨拶をして通り過ぎようとすると、そのうちの一人が言ったのだ。

「ねえ、あなた外国人のお手伝いさん雇ってるんだって? 贅沢よねぇ、大して家事なんてないのに」

他の人たちも、「私なんてやりたくても、日本の親になんて言われるか分からないから絶対にできないわ」「外国に駐在したからって、ちょっと勘違いしちゃったのかしらねって思われちゃうわよ」と、私を取り囲むように責め立てた。

たまらなくなって、「今日は用事があるので!」と逃げ出すようにマンションへ続く海沿いのプロムナードを走り出した。ムシムシと熱い場所だったはずなのに、気がつくと、頬をなでる風は妙に爽やかになっていた。

いつものアスファルトの道だったはずなのに、足元が急に柔らかい土の感触に変わった。

「はっ……?」

キョロキョロと見回すと、そこはもう外国の港町ではなく、目の前に古民家が建っていて、縁側にはおばあちゃんがニコニコと座っていた。

「あらら、いらっしゃい。すごく汗をかいているねぇ。こっちに来て、お茶でも飲んでいきなさいな」

優しく声をかけられた私は、パニックになって「ここはどこですか……! 私、外国の港町にいたはずなのに、子供を幼稚園に残してきちゃったんです、早く戻らなきゃ……!」と焦った。

けれど、おばあちゃんは「まあ、お茶を一杯飲んでいるうちに、すぐに道は現れるからね」と、どこまでも呑気だった。

「こんな得体の知れないところ、怖くて……」と思いつつも、目の前に漂ってきた緑茶の温かい香りに、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。私は言われるがまま縁側に腰掛け、お茶をひと口飲んだ。

すると、今まで胸の中で渦巻いていた怒りや悲しみ、虚しさが、スーッと少しだけおさまっていくのを感じた。

「おばあちゃん……聞いてください。私、別に楽をしたくてお手伝いさんを頼んだわけじゃないんです。ワンオペでもう疲れ果てて、慣れない外国で言葉も通じなくて、常に緊張して……。子どもも私のピリピリした空気を敏感に察していて、それが苦しかったから。せっかくいただいたご縁で、少しだけ心に余裕を持ちたかっただけなのに……誰もわかってくれないんです」

おばあちゃんは「そうだったのかねぇ、それは本当に苦しかったねぇ」と、優しく私の肩をそっと叩いてくれた。そして、床の間を指差した。

「あそこをご覧。床間に香炉があるけれど、その周りを龍の模様がぐるぐると囲っているね」

私がみると、確かに立派な香炉が飾ってあった。

「人間というのはね、自分の中に『こうであらねばならない』という見えない龍を飼い慣らしていることが多いものだよ。その龍はね、黒くて長い胴体で、あなたをガチガチに縛り上げて身動きが取れなくさせる恐ろしい怪物のように感じるかもしれないねぇ」

おばあちゃんは優しく私を見つめた。

「けれどね、本当は違うんだよ。誰も助けてくれない異国の地で、我が子を守り、折れないように必死で自分を奮い立たせようとした……それは他ならぬ、『あなた自身の強さと、家族を守ろうとする責任感』そのものなんだよ。ただ、あまりに一人で背負い込みすぎて、その龍があなた自身をきつく締め付けすぎていただけさ」

温かいお茶の湯気が、目の前をふわりと包み込む。

「あなたは決して『楽をしよう』としてお手伝いさんを頼ったわけじゃない。不慣れな土地で病みそうになりながらも、子どもと自分の心を守るために、知恵を絞って必死に環境を整えた立派なお母さんだよ。夫や関係ない周りの人間が何と言おうと、あなたがどれだけこの街で孤独に戦ってきたか、ちゃんと知っている人がいるよ。ほら、あなたにお手伝いさんを紹介してくれたママ友だよ。あなたがいっぱいいっぱい張り詰めて、切れそうになっていたのを見ていたからこそ、心配して声をかけてくれたんじゃないかねぇ。あなたは一人じゃないんだよ。必ず見ていてくれる人はいるんだよ」

おばあちゃんの手が、私の冷えた手を優しく包み込んだ。

「少しの助けを借りることは、決して甘えなんかじゃない。むしろ、あなたがこれからも笑顔で子どもと生きていくための、大事な深呼吸の時間なんだよ。もう、そのきつすぎる龍の背中から降りて、肩の力を抜いていいんだからね」

その言葉を聞いた瞬間、私の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

そうだ……私は、完璧な妻で、完璧な母親でいなきゃいけないって、自分で自分を縛り付けていたんだ。自分一人で家族を守らなきゃいけないと思い込んでいたんだ。誰かに少し頼ることは、悪いことなんかじゃないんだ……。

心がすっきりと軽くなると、おばあちゃんが庭の先を指差した。

「ほら、おうちへ帰る道が現れたよ」

見ると、私を待っている我が子のもとへ続く、海沿いのプロムナードへのあたたかな光の道がしっかりと伸びていた。

「おばあちゃん、ありがとう……私、もう周りの目は気にしない。子供と一緒に、私たちのペースで歩いていくね。今度、子供と一緒におばあちゃんのところに遊びに来てもいい?」

私がそう言うと、おばあちゃんは少しだけ寂しそうな、けれど太陽のようにまぶしい笑みを浮かべた。

「ここはね、一度きりの縁、一期一会の場所だから、もう二度とは来られないんだよ」

そして、自分の着物とお揃いの模様の折り鶴をそっと手渡してくれた。

「これをポケットに入れておきなさい。今日、ここでいっぱい泣いて、心を軽くしたことをいつでも思い出せるようにお守りだよ。この里山の風景も、いつでも思い出せるからね」

おばあちゃんの手は、驚くほど温かかった。

「おばあちゃん、本当にありがとう。行ってくるね!」

私は深く頭を下げて、元の世界へと続く道を踏み出した。

もう大丈夫。私は私のやり方で、この外国の空の下でも笑って生きていける。

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