【産声と、初めての深呼吸】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲み干す間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜産後の涙を抱えたお客様〜
なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの……。
子供を産んで、やっと退院してきたばかりなのに。私たちがいない間に、勝手に家に入るなんてどういうことよ。夫も信じられない。私がいない間に自分の親を泊まらせるなんて。おまけに、お祝いに来た会社の同僚と家で鍋パーティーをしただって……?
「ちゃんとうまく掃除していったからいいだろう」って、そういう問題じゃないでしょ! 命がけで子供を産んだばかりの私の気持ちを、いったい何だと思っているのよ。
私が潔癖症気味なのも知っているはずなのに。それに、赤ちゃんが生まれてまだ1週間しか経っていないんだよ。免疫だってまだまだ少ないのに、外の空気に触れさせちゃいけないし、私がいない隙に赤の他人を家に上げるなんて、神経を疑うわ。出産前に、完璧な状態で赤ちゃんを迎え入れるために、私がどれだけ必死になって家中をピカピカに磨き上げたと思ってるのよ……!
私は1週間前に初めての子供を産んだ。夫はちょうど出張が重ならず、立ち会い出産ができて、子供が生まれたことを本当に喜んでくれていた。毎日のように病院に通ってくれてはいたけれど、昨日、会社の同僚がお祝いを持ってきてくれたからと、そのまま家で鍋をつついてきたと言うのだ。それを聞いて私は血の気が引いた。「妻がいない時に他人を家に入れるくらいなら、外で食べてくればよかったでしょ」と言っても、「せっかくお祝いを持ってきてくれたのに、外で食べられるわけないだろ」と全く取り合ってくれない。
さらに、仕事が忙しくて私の退院の迎えに来られないという夫の代わりに、義理の両親が車で迎えに来ることになった。しかし当日ではなく、なぜか「前の日から家に泊まる」と言い出したのだ。
そして家に着いた途端、義父は「お前は家をきれいにしているな。引き出しの中も、フォークはフォーク、スプーンはスプーンできちんと整理されている。うちの娘もそうだけど、みんなきれい好きだなあ」などと言い出した。
……私はギョッとした。義母ならまだしも、なぜ義父がそんな重箱の隅をつつくような真似をするのか、自分の娘と比較するのか、意味が全く分からなかった。
極め付きは義母だ。あなた、お茶が好きだったけど妊娠中は飲めなかったんでしょ? 冷蔵庫に入ってる緑茶を飲もうとしたら美味しくなかったから、新しいのを出して飲んだわよ」と、勝手に戸棚をあけて勝手に飲んでいたらしい。
どうして今日、直接病院に迎えに来ないで前日から泊まっていたのか。それも、生まれたばかりの新生児を連れて帰る家に他人があがりこんで……。
挙句の果てに、赤ちゃんが泣き出すと、「お腹が空いてるんだから早くミルクをあげなさい」と言う。
「さっきあげたばかりなんです。ちゃんと時間が決まっているんです」と答えると、むっとして「ああいると、すぐうるさいことを言い出すからもう帰るよ。悪かったね」と捨てゼリフを残し、義両親は私と生まれたばかりの赤ちゃんとを置いて帰ってしまった。
そしてしばらくすると、夫から電話がかかってきて、「今、親から電話があったけど、お前なんか余計なこと言ったのか? すごい怒ってたぞ」と言うものだから、私はもうプツンと糸が切れて、「いい加減にしてよ……!」と怒鳴るように電話を切ってしまった。
小さな我が子を抱きしめようとしたけれど、まだあまりにも小さくて、ぎゅっと抱きしめることも怖い。私はどうしたらいいのか分からなくて、ソファーに座ってただただ涙を流していた。
無機質なマンションの一室にいたはずなのに、気がつくと、私は赤ちゃんを優しく抱っこしたまま、見知らぬ古民家の縁側に座っていた。
横を見ると、おばあちゃんがニコニコと優しく微笑んで、「大丈夫だよー」と私の肩をポンポンと叩いてくれた。
私はパニックになって、「ここはどこですか……! 早く戻らないと、生後1週間の子なんです。外に出したらダメなのに、どうしよう……!」と騒ぎ出した。
すると、おばあちゃんは優しく言った。
「大丈夫だよ。ここの空気は綺麗だからね。それに、お茶を一杯飲んでいきなさい。そのお茶を飲んでいるうちに、すぐに元の道が現れるからね」
「私、授乳中だし、カフェインが入っている緑茶はちょっと……」
私が慌てると、おばあちゃんは「大丈夫だよ、これはほうじ茶だからカフェインはないさね。さあ、一杯飲みなさい」と微笑んだ。
そして私の横にそっと座布団を敷いて、「ここに赤ちゃんを寝かせなさい」と言ってくれた。不思議なことに、赤ちゃんはスースーと穏やかな寝息を立てて、すやすやと眠り始めた。
私は温かいお茶をひと口飲んで、ふっと息をついた。目の前に広がる穏やかな山の景色を見ていたら、張り詰めていた糸がプツリと切れて、堰を切ったように言葉が溢れ出してきた。
「おばあちゃん……みんなひどいんです。夫も全然分かってくれないの……」
私は今日受けた理不尽な出来事や、自分の努力を踏みにじられた悔しさを、赤ちゃんを起こさないように声を殺しながら、おばあちゃんに泣きながらすべてぶちまけた。
すると、おばあちゃんは優しく私の肩をポンポンと叩きながら、こう言ってくれた。
「そうかいそうかい、それは本当に悔しかったねぇ、怖かったねぇ。赤ちゃんを産んだばかりで、心も体もボロボロなのに、誰も自分の気持ちわかってくれないなんて、孤独でたまらなかっただろうねぇ」
おばあちゃんは庭の隅をそっと指差した。
「ほら、あそこを見てごらん。庭の端に、植えられたばかりの小さな苗木があるよ。あの木はね、まだ根っこが浅くて、ちょっとした風が吹くだけで倒れそうになる。だけど、たっぷりの光を浴びて、ゆっくりと時間をかけて自分でしっかりとした根を張っていくんだよ。あなたもね、お母さんになってまだたったの1週間。赤ちゃんも、あなたも、今まさに一緒に新しい根っこを張っている最中なのさ」
おばあちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめ、愛おしそうに微笑んだ。
「最初から完璧にお母さんをやれる人なんて一人もいないんだよ。世間の人や家族が何と言おうと、あなたが我が子のために必死で部屋を整え、守ろうとしたその愛情は本物だよ。だから、焦らなくていい。これから赤ちゃんと一緒に、ゆっくりゆっくり、時間をかけてお母さんに育っていけばいいんだからね」
その温かい言葉を聞いた瞬間、胸の奥につかえていた冷たい塊が、すーっとあたたかい涙と一緒に溶けていくのが分かった。
そうだ、私は一人で全部完璧にやろうとして、必死になりすぎていたんだ。赤ちゃんも私も、まだ始まったばかりなんだから、ゆっくりでいいんだ——。
心がすっきりと軽くなると、おばあちゃんが庭の先を指差した。
「ほら、おうちへ帰る道が現れたよ」
指差した方を見ると、私を待っている家族の元へ続く、温かい光の道が伸びていた。
「おばあちゃん、ありがとう……私、少し肩の力を抜いて、我が子と一緒にゆっくり歩いてみるね。また相談に乗ってもらってもいい?」
私がそう言うと、おばあちゃんは少しだけ寂しそうな、けれど眩しい笑顔を浮かべた。
「ここはね、一度きりの縁。一期一会の場所だから、もう二度とは来られないんだよ」
そして、自分の着物とお揃いの模様で作った、小さな小さな折り鶴をそっと手渡してくれた。
「これをポケットに入れておきなさい。今日、ここでいっぱい泣いて、心を軽くしたことをいつでも思い出せるようにお守りだよ」
おばあちゃんの手は、太陽のように温かかった。
「おばあちゃん、本当にありがとう。行ってくるね」
私は赤ちゃんをしっかりと抱きしめ直し、深く頭を下げて、元の世界へと続く道を踏み出した。
もう大丈夫。私は私のペースで、この子と一緒に歩いていけるんだから。




